プロローグ
待合室は混んでいた。
初めて訪れたメンタルクリニックの受付嬢は、予約がなければ相当待つことになると思います、と気の毒そうに言って来た。
「今日は予約だけして、別の日においでになることも出来ますよ」
そう親切に勧めてくれたが、断った。一度帰ってしまったら、ここまで来る気力は二度と起きまいと判っていたからだ。少なくとも私にとって「精神科を訪れる」というのは、それほど敷居の高いことだったのだ。落ち着かないままに、3時間ほど経っただろうか。待合室の人影もまばらになった頃、ようやく名前を呼ばれた。
「佐久間さん。佐久間英司さん、3番の診察室へお入りください」
一つ小さく深呼吸して白い引き戸を開けると、ドアベルがチリンと音を立てた。
柔らかな椅子に腰掛けると、少し疲れた顔の壮年の医師は問診票に目を落としつつ、私に来院の目的を尋ねてきた。
「ひどい悪夢を見るんです」
それは2か月ほど前からのことだ。
例えばある晩。暗い部屋の中、布団の中からぼーっと天井を見上げていると、バンっと音を立てて天井に手形が付いた。手形は見る間に増えていき、天井を深紅の色で覆いかける。天井を叩く音が湿った音に変わり、そして臭いが。本能的な嫌悪感を催す、多分に鉄分を含んだ臭いがする。動くこともできずにただ見つめている私の額に、ずるりと生暖かい何かが滴り落ちようとする…。
また別の晩。私の眠る布団の周りを誰かが歩いている。私の身体はピクリとも動けないが、周っているのは何か良くないものだということは分かっている。何周も何周もぐるぐると廻った後、彼が私の正面にかがみこんだのがわかった。私の顔を覗き込んでいる。目を開けたら絶対に見たくないものを見てしまうのが分かるので、夢の中の私は固く目を閉じる…。
そして違う晩。私が眠っていると、不意に居間の真ん中に誰かが立っていた。独り暮らしの私の家に、誰がいるはずもない。それ以上に気配のわき方がおかしかった。どこかから来た訳ではない。気づいたら部屋の真ん中に気配が立っていたのだ。それはゆっくりと扉が開いたままの寝室に入り込み、背中を向けた私の横に立ち止まり、そして私を覗き込むためにそっと隣に膝と手をついた。私は声が出ない。必死で助けを求めようとあがいてあがいて、笛を吹くような情けない声がもれた途端、隣の気配が立ち上がった。ゆっくりと居間の真ん中に戻っていき、出た時と同じように不意に消えた…。
こんな感じの夢が毎晩続く。眠っている自分と、その周りに起きる怪異の夢だ。目を開けても夢の中と同じ光景が続き、どこまでが現実でどこからが夢なのか、境を見失いそうになる。毎晩悪夢で飛び起きるので、当然ながらひどい睡眠不足が続いている。最近は誰が見てもひどい顔色だと言われるようになってきた。それでもこんな悪夢を見続けて、私はもう眠るのが怖いのだ。
長い話を終えると、メモを取っていた医師がふーっと息をついた。
「大変でしたね、佐久間さん」
ゆっくりと心情のこもった声だった。話しやすい雰囲気を作ってくれる。
「睡眠薬と抗うつ剤をとりあえず1週間分お出しします。それからなんですが。
悪夢による睡眠障害を専門にしている先生がおりますので、そちらに紹介状をお書きします。
薬で対処するのには限界がありますので、そちらで根本的な治療をすることをお勧めします」
「ありがとうございます」
別の病院に行かねばならないのは少し面倒だとは思ったが、専門医とあれば毎晩の悪夢から解消されるかもしれない。光明が見えた私は、少しだけ元気になった気分で立ち上がった。
「先生も顔色が悪いようですが、お大事に」
「…今日はずいぶん混んでましたからね。ありがとうございます。お大事になさってください」
医師が苦笑したのを最後に背を向けた私は気づかなかった。入ってくるときには鳴ったはずのドアベルが、帰りにはならなかったことに。そして青い顔をした医師と看護師が、机の引き出しの中の焦げ付いた何かを怖々と覗いていたことに。