次の日 弐
バーベキューは実に賑やかだった。
ママたちがわいわい言いながら、肉を焼いたり、焼きそばを混ぜたりした。じゅうじゅうとした音と、肉の焼ける匂いが胃袋を刺激する。春らしい格好の珠子に、福島ママが「油飛んだら大変よね」と、エプロンを着せてくれた。
そこに萌子と千尋がやって来た。
萌子は黒いTシャツに、紺のジャージで、ほとんど体操服。油がはねるバーベキューにはちょうどいいかも。野球のときは三つ編みの髪が、今はポニーテールになっている。
千尋はアニメキャラの絵がでかでか書かれたピンクの長袖シャツに、ショートジーンズ姿。すらっと伸びた足が白くまぶしい。野球のユニフォームは首の上と袖の下しか肌が出ないから、足は全く日焼けしないのね。
「あの、今津君のお姉さん」
萌子がおずおずと尋ねた。
「コーチやってくれるって、本当?」
「え? あたしが? できないよ、野球なんてやったことないもの」
「大丈夫だよ」
千尋が口を挟んだ。
「あのね、九条君のお父さんもコーチやってるんだけど、野球したことなくって、最初は全然ボールも投げられなかったし、捕ることもできなかったけど、最近はずいぶんお上手になったんだよ」
おー、小学三年生、なんて素直なものの言い方! 珠子は思わず笑ってしまった。
「ねえねえ、やろうよー、一緒に野球やろう」
萌子が珠子の右腕をつかんで、前後に引っ張った。それを見て、千尋も珠子の左腕をつかんで「やろう、やろう」と、笑顔で前後に引っ張った。
なあに、このベタな展開は?
この子たち、わざとやってるの? あたし、できないって言ったでしょ。
でも、二人とも手を離してくれない。ふざけながら「やろうやろう」と戯れてくる。
「萌ちゃん、お姉ちゃん困ってるわよ。もういい加減になさい」
長身の女の人が突然現れたように、珠子には思われた。グラウンドでは見ていない顔だ。でも、なんて綺麗な人だろう。
「ふんだ、困ってなんかないよねえ。遊んでるだけだよねえ」
萌子が珠子の顔を覗き込むように言った。萌子の顔をよく見ると、どことなく女の人に似ている。目元など、そっくりそのままだ。
「せっかく楽しく遊んでるのに! あっち行ってよ!」
萌子が手で追い払うようなしぐさをした。千尋は黙っている。女の人は悲しそうなかおをして、萌子を見ている。珠子は困った。
「今津君のお姉さん、あっち行こ!」
萌子は珠子の手を引いて、奥にでんと建つ洋館に向かって歩き出した。珠子は萌子の手をほどくわけにもゆかず、女の人に作り笑いを向けながら、萌子に引っ張られていった。千尋も黙ってついてきた。
「あたし、あの人、大っきらい!」
洋館に着くと、萌子は吐き棄てるかのように言った。夕方のまだ青みが残る空に、ぽっかりと月が浮かんでいた。
「萌ちゃんのお母さん?」
「サイッテーなの、あの人」
萌子の顔が歪んだ。千尋は何も言わず、洋館の玄関に通じる幅広の石段に腰掛けた。視線を芝の上に落としている。珠子は戸惑うばかりだった。
「あのさ」
珠子は話題を変えようと思った。
「二人はどうして野球をしようと思ったの」
萌子は黙っている。
「千尋ちゃんは?」
珠子は千尋の目線に合うように、石段に座る千尋の横にしゃがんだ。
「あたしね、ボール遊びが好きなの。でも、大きなボール投げるの大変でしょ。小さなボールだったら、簡単に投げられるから、お母さんと一緒によく第三公園で遊んでたの。そしたらね、新在家コーチが来て、上手だねって褒めてくれて。だからね、タイガースに入ったの」
「新在家コーチって、あのお髭がもじゃもじゃ生えてる?」
「そうそう、でもね、前はお髭なんてなかったんだよ」
あのコーチ、そう言えば、あたしにも「上手い」とかって言ってたなあ。もしかして、誰にでも上手い上手いって言ってるんじゃないの。
「お姉さんはどうして今津君に野球させようと思ったの?」
おもむろに萌子が言った。
「今津君って、どうしても野球がしたかったわけじゃないでしょう」
萌子がまっすぐ珠子を見下ろしていた。
「どうして?」
「うーん、どうしてもってわけじゃないんだろうけど、あの子も興味がないわけじゃないのよ。でも、あの子、決心ができない子でね、いつまでもうじうじしてたから、引っ張ってきちゃったの」
萌子は黙っている。
「なんでそんなこと聞くの?」
「・・・」
困ったなあ。あたし、なにか機嫌損なうようなこと言ったかなあ。この子、難しいなあ。
「ねえっ!」
今度は千尋が言った。
「お姉ちゃんはコーチになってくれるんだよね」
また、その話?
「お姉ちゃん、もう決心してコーチになってよ」
えー、決心してって。。。
「お願い」
そんな両手合わせて、見つめられても。
だいたい、バカな男をたぶらかすような、そんな安っぽいしぐさ、どこで覚えてきたの?
「たまちゃーん、たまちゃんもこっちに来て、お肉食べなよー!」
杭瀬ママが大きな声で珠子を呼んだ。助かったあ。
「さ、二人とも、戻ろ。まだまだごはん食べられるでしょう」
「ねえ、コーチ、コーチィ」
千尋はうるさくまとわりついてくる。萌子は黙って歩いている。珠子は二人の手をつなぐと、突然走り出した。
「あははははは」
千尋が笑い出した。珠子も愉快になってきた。萌子はまだ気分が戻らないようだ。
お母さんがいても、お母さんとうまくゆかないこともあるんだ。あたしなんか、お母さんがいればと、何度思ったかわからない。珠子はふと、母に手を引かれて幼稚園に行った冬の朝を思い出した。凍える手に息を吹きかけたら暖かくなるよと言われたことだけが、なぜだか鮮明によみがえった。
三人がバーベキューの場所に戻ると、他のお母さんたちが子どもを引き取ってくれた。萌子ちゃんのママが「ごめんなさいね」と辛そうなかおを珠子に向けた。
「じゃあ、わたしたちもそろそろいただきましょう」
福島の一声で、ママたちが集まった。
「たまちゃんはまだ高校生だから、お酒はダメよね」と福島が言うと、
「ちょっとぐらいいいんじゃないの?」と、杭瀬がビールの入ったグラスを珠子に差し出した。
「いいわけないでしょ」と横から三宮が口を出した。
「ですよねえ」
でんにの先輩たち、面白い。
「ほらほら、これなら大丈夫だから」
別のお母さんがトプトプとノンアルコールビールをグラスに注いで、珠子に差し出した。住吉さん、だったかな? ちょっとワルそうな感じの人。
「裕子もこっちの方がいいんじゃない? 飲み過ぎるとワケわかんなくなっちゃうから」と福島。
「えー、ひどーい!」と杭瀬が頬を膨らませると、
「てゆーか、いつもワケわかんないけど」
三宮が横から口を挟んだ。
「先輩、言っていいことと、わるいことがあります」
福島がパンパンと手を叩いた。
「じゃあ、今津さんも新しく入ってくれました。乾杯をしま〜す」
「かんぱーい」
「よろしくねえ」
あー、にが〜い。アルコール入ってなくても、あたしビールなんて飲めないよ〜。珠子はひとり渋い顔。
「ほらほら、お肉焼けてるから、どんどん食べて食べて」
福島が珠子の皿に三切れほど肉を乗せてくれた。肉厚で絶妙の焼き加減に、思わず笑顔になる。
「タイガースにでんにの子が入ってくるなんて、想像もしなかったわ」
珠子は福島の顔を見た。
「ね、難波先生、面白いでしょ」
難波先生? ていうか
「福島さんも、でんになんですか?」
「そうよ。裕子とは三年のとき、クラスも一緒だったの」
またまたOG出現! そこに杭瀬が乱入してきた。
「たまちゃん、たまちゃん、なんば知ってるー?」
難波先生、人気なんだ。でも、珠子にはまだわからない。
「なんだー、なんば知らないなんて、たまちゃんもまだまだだなあ」
なこと言われても。
三宮交えて、でんにOG三人は先生ネタで大いに盛り上がっている。そのうち、あの輪の中に参戦することになるのかなあ。なるんだろうなあ。珠子はそんな将来を想像しておかしくなった。
「ねえねえ、たまちゃん。今度、制服着てきてよ」と杭瀬が絡んできた。
「制服、ですか?」
「知ってる? あの制服を着たくて、あたし、でんににしたんだからね」
でんにの制服は、卒業生の某有名デザイナーがデザインしたというセーラー服で、県内では人気の制服のひとつだった。
「たまちゃんも制服ででんににしたの?」
「単純に、家から近いからです」
遠くの学校で、帰りが遅くなるわけにはゆかない。珠子の頭の中にはいつも大翔の面倒があった。
「さ、さ、たまちゃん、食べなさいよ」
福島がまたお肉をよそってくれる。珠子は賑やかな先輩の話を聞きながら、頬張った。