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お風呂 肆

 なに話してた? たわいもないことばっかりだけど、えーと。

「颯太くんって、ピアノやってるんだって?」

「そうなのよ、どう思う? たまちゃん」

 どう思う?

「なにが?」

「男のくせに、ピアノなんて」

「いいんじゃない? カッコいいよ、ピアノ弾ける男の子」

「だって、あの子、運動ぜんぜんできないんだよ。キャッチボールひとつ、まともにできないんだから。信じられる?」

 はあ。

「男なら、もっと身体動かせっつーの! ピアノなんか弾いてる場合じゃないって」

 萌子の暴論を聞きながら、珠子は、大翔を思った。キャッチボールひとつできない。それは大翔も同じだ。もうタイガースに入ってふた月以上になるけど、まだ投げたボールはどこに行くかわからないし、投げられたボールを捕ることもおぼつかない。

「颯太くんは何年生?」

「二年生」

「まだそんな小さかったら、キャッチボールできなくても仕方ないよ」

「なに言ってるの、たまちゃん。ちいちゃんだって、瑞穂だって二年生からキャッチボールくらい、フツーにできてたよ」

 ちいちゃんとは千尋ちゃんのこと、瑞穂は九条瑞穂くんのこと。ともに三年生だけど、Bチームではレギュラーに名を連ねるほど上手な子たちだ。

「あの二人と比べるのはかわいそうだよ」

「どうして?」

「だって二人ともすごく上手じゃない。あの二人は特別だよ」

「特別? 特別ってなあに? ちいちゃんだって一生懸命、練習してるから上手になるんだよ。練習もしなくて上手くなるわけないじゃない」

 それはそうだろうけど。

「なのにあの子、下手なくせに練習もしようとしないんだよ。上手くなるわけないじゃないよね」

「萌ちゃんは、キャッチボールとかしてあげたんだ」

「そうよ、いろいろ教えてやったんだよ。ちゃんとしたボールの投げ方も、捕り方も。なのにあの子、人の言うことぜんぜん聞かないの。教えてないことばっかやって、それじゃ捕れないって何回言ってもダメなの。そのうち、もうやだって泣き出すし。あたし、もう腹が立って、腹が立って」

 あらあら、萌子ちゃん、厳しいのね。

「ピアノなんていくら弾けたって、なんだって言うの? 指を痛めたら大変だから、キャッチボールなんかしなくてもいいって、ママまで言うんだよ。だから、あいつ、ますます運動しなくなって、愚図が輪をかけて愚図になるんだから。もう信じられない」

 萌子の酷評は、お昼休みの間、延々続いた。珠子は相槌を打ちながら、萌子の気がすむまで話を聞いていた。


 Aチームが遠征に出たので、その日の午後はグラウンド全部をBチームで使うことができた。内野と外野に分かれてノックから始まった。

 珠子は大翔と一緒に外野でノックを受けた。九条コーチがポーンとフライを打ち上げる。それを捕って返球するだけなのだが、空から落ちてくるボールの距離感を掴むには、数をこなす他ない。珠子も最初はぜんぜん捕れなかった。コツは半身になって、左右の目の位置をボールからずらすこと。けれど、子どもの中には、それさえすぐにしなくなる子もいる。大翔もまたその一人だった。

「だからあ、まず半身になるの」

 珠子が大翔の両肩を掴んで、身体を横に向ける。ふと、お昼の萌子の言葉を思い出した。

「なのにあの子、人の言うことぜんぜん聞かないの。教えてないことばっかやって、それじゃ捕れないって何回言ってもダメなの」

 コーンと音がした。白球が青い空に高々と上がってゆく。大翔があたふたしながら、ボールを見上げている。やがてボールが落ちてきた。

「半身なって! もっと後ろ!」

 正面を向きながら、よたよた後退する。ばんざーい。両手を挙げた大翔のすぐ後ろで、ボールが跳ねた。転がるボールを追いかける大翔を見ながら、珠子は思った。

「ほんと、下手ねえ!」


「脱帽!」

 六年生の主将の声が響く。

「礼!」

「ありがとうございました」

 子どもたちが全員、大きな声を出して、深々と頭を下げた。

 午前中は重い雲に覆われていた空も、午後からは徐々に晴れ間が顔を出し、今は強烈な西陽が射している。じっとりした暑さがまとわりついてくるようだ。汗がじんわり滲む。珠子がユニフォームの上を脱ぐと、下の黒いTシャツはところどころ粉を吹いて白くなっていた。

「萌子お」

 耳慣れない野太い声がした。

「パパ!」

 萌子が弾んだ声を上げて駆けたところには、身体の大きな人がいた。厚い胸板、太い首と腕、見るからにスポーツマンといった風情だ。

 お母さんたちは「石屋川先生」などと言ってるから、学校の先生なんだろうか。

 萌子は「パパ」にくっついている。

「サイッテーなの、あの人」

「男のくせに、ピアノなんて」

 それまで家族のことをよく言わない萌子しか知らない珠子には、父親にじゃれる姿は奇異な感じがした。その様子をぼんやり眺めていると、大翔がリュックを背負ってやってきた。

 さ、あたしたちも帰るとすっか。


 そこに、新在家上京がふざけた調子でやってきて、ニタニタと珠子を見ながら、大翔に言った。

「ねえ、ちゃんと風呂入ってる?」

 珠子は目が点になった。大翔が息巻いた。

「入ってなんか、いないよー!」

 すると、上京は嘲るように言った。

「えー! 今津って風呂入らないんだー! きったねー!」

「風呂ぐらい入るよ!」

「今、入ってないって言ったじゃんよお」

 と走り去ろうとした上京。その頭をむんずと掴んだ者がいる。るな、だった。

「ねえちゃんと風呂入ろっか?」

 驚愕の上京、声が出ない。

「一緒にどう?」

 るながしゃがんだ。目線を上京に合わせると

「野球ってさあ、チームみんなで助け合ってやるんだよ。助け合う仲間をからかったりしたら、チームはどうなる? それにあの子は、下の学年の子だよね。このチームでは、下の学年の子を大切にしなくてもいいって教えられてるのかな?」

 上京は瞬きもせず、るなを見ている。

「今日、試合に負けたよね?」

 るなの目がまっすぐ上京に向けられている。

「仲間をからかったりするチームが勝てると思うかな?」

 すると、様子を見ていた萌子が、横から上京を指さして大きな声を出した。

「そうだよ、だいたい上京って、余計なことばっか言いすぎなんだよ」

「もえちゃんは黙っておこうね」

 るなが大きな声を出した。そして萌子に顔を向けると、「この子と今しゃべってるのは、わたしだから」と笑った。萌子は「はい」と答えた。萌子のお父さんが柔らかな笑顔を見せた。るなが上京に顔を戻した。

「どう? どう思う?」

 上京が下を向いた。るながにっこり笑った。

「ほら、わかったら、あの子に謝っておいで」

 下を向いたまま、るなに背を押された上京が、大翔と珠子の前に進み出た。そして微かな声で言った。

「ごめんな」

「はい、よく言えたね。ひろちゃんも、これで許してあげるんだよ」

「うん」


 珠子は大翔を連れて、るなと並んで歩いた。夕陽が長い影を作っている。生暖かな風が時おり吹いた。

「るなって、すごいね」

「なにが」

「やんちゃな新在家くんを、素直にさせちゃうんだもの」

「チーム入ってたらさあ、いろいろあるんだよ。みんなそれぞれ考えてること違うからね。でもさ、イザコザって、あったほうが結束するんだけどね」

「中学のとき、県大会へ行ったって聞いたけど。そのチームでもイザコザってあったの?」

 るなは、ふふっと笑った。

「あったなあ。力もないくせに、エースになりたくて監督に噛みついた奴とか、いたなあ」

「へえ」

「もうね、圧倒的な力の差があるの、わかってるんだよ。なのに、意固地なって、ひとりバリア張ってんの。ばっかみたい」

「そうなんだ。あたし、スポーツやってる人って、みんな、るなみたいに、サッパリしてる人ばっかだと思ってた」

 るなは、あっはっはーと笑った。

「遊びだったら、そうかもね。部活を真剣にやってる人ほど、案外、執念深いかもよ。どうにかしてレギュラー取ろうと、汚かったりするかもだし」


 るなと別れて、自宅マンションに着いてから、珠子は大翔を見た。

「ひろちゃんも、試合に出られるようになりたくない?」

「・・・なりたい」

 あまり、なりたそうな言い方ではなかったが、珠子は続けた。

「じゃあさ、打てるように、ここで素振りしてみよか」

「・・・うん」

 リュックを下ろしてバットを出すと、大翔はぶんぶんと振りはじめた。あまり力感のある振りではなかったが、そこをどうこう言っても始まらない。それでも、顔つきは真剣だ。しばらく様子を見てから、珠子は言った。

「その調子、あと五十回振ってごらん。声に出して、しっかり数えるんだよ。お姉ちゃん、先に戻っておくからね」

「うん、わかった」

「・・・よんっ、ごっ、」

 大翔の数を数える声が響く中、珠子はひとり、部屋に戻った。手にした大翔のリュックを置くと、お風呂のスイッチを入れた。そして、着ているものを全て脱ぐと、一人でさっさとシャワーを浴びた。


 その日はお夕飯を食べてから、珠子がリビングで勉強をしていると、大翔が隣に座って、本を広げた。しばらく経って、珠子がひと段落ついた頃、大翔が「お姉ちゃん、耳見て」と甘えてきた。探るような目をした弟を見て、ふっと息が漏れた。

「じゃあ、耳かき持っておいで」

 膝枕をした珠子の素足の上に、小さな頭が乗った。さらさらした髪の毛が耳に被っている。指で毛を分けて耳を出しながら、「そろそろ髪も切ったほうがいいね」と珠子は言った。

 右耳の中から、ごっそり大きなのが取れた。表に垢が溜まっている。

「あんた、お風呂でちゃんと耳のまわり洗ってないでしょう」

「洗ったよお」

「洗えてないから、ばっちいんだよ」

 ほらと見せられ、大翔は「うわー」と言った。最後にふわっとした綿で、耳の中を撫でてやる。大翔はこれが好きで、「も一回やって、も一回」といつもうるさい。この日も同じだった。しょうがないなあと思いながら、珠子は三回ほど繰り返してやった。


 その夜、大翔が布団に入ってから、ランドセルの上に置かれた日記帳をパラパラっとめくってみた。

 土曜日。

「今日、ぼくは野球のれん習をしました。朝は晴れていましたが、お昼になって急に雨がふってきました。九条コーチの車で家までおくってもらいました。こんな日でも、おねえちゃんは、ぼくのためにごはんを作ってくれました。おいしかったです」

 珠子はふっと笑った。

 今日は。

「今日、ぼくは野球の試合がありました。きたざとジヤイアンツとやりました。ぼくはしあいに出ませんでした。また、まけました。ぼくは、ぼくが試合に出て、勝てるようになったらいいなあと思いました。れん習のあと、家にかえってから、すぶりをやりました。マンションの下でやりました。さいしょはおねえちゃんがそばで見ててくれました。そのあとはぼくが一人でやりました。さいごは、つかれました」

 タタミ部屋に行くと、大翔はすごい寝相だった。あらぬ場所の弟を戻してやって、夢の世界にいるその頭を、珠子はそっと撫でてやった。

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