お風呂 弐
その日の大翔は意固地だった。
食事の支度ができて、珠子が「ごはんだよ」と呼んでも、部屋の片隅で三角座りをして固まっている。仕方ないので、ひとり済ましてから、もう一度呼んだ。
「いらない」
「いい加減にしてくれる? 片付かないでしょ」
「いらない」
「そんなこと言うなら、もうごはん作ってあげないから」
「いい」
「ほんとに知らないからね」
「いらないったら、いらない」
大翔はタタミ部屋に行って、押入れからタオルケットを引き出すと、それを被って丸まってしまった。
結局、その日は作った料理を冷蔵庫にしまって、自分だけ布団を敷くと、ぐずぐずしてる弟をそのままに、珠子は横になった。しばらくして、遠くから猛スピードで疾走するバイクの爆音が響いてきた。夜の静かな時間をつんざく騒音。こんな時間にそんな音を立てる神経がわからない。思わず、叫んでいた。
「ばっかじゃないの!」
珠子がふと目を醒ますと、豆球だけの薄暗い部屋の片隅で、ぐしぐし泣き声がする。
今、何時?
目覚ましを引き寄せて見ると、十一時過ぎだった。
姉の気配に気づいた大翔が「お姉ちゃん、おなか空いた」と情けない声を出した。
珠子はため息をついた。
あんたがいらないって言ったんでしょうが。
無視して目をつぶっていると、「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とうるさい。
あー、もう!
珠子はがばっと起き上がると、弟をぐっと見据えた。
「なんであんなわがまま言ったの?」
大翔は俯いたまま黙っていたが、姉の視線に耐えられなくなって、小さな声で「ごめんなさい」と言った。
「雨降ってユニフォームもみんなどろどろになって大変だったの、あんただってわかるでしょ。それなのに、お風呂に入ろうとしないわ、ごはんいらない言うわ、お姉ちゃん、どんだけ大変だったかわかる?」
大翔は口もとをもぐもぐさせるだけで、なにも言わない。
「一生懸命やってるのに、なんでお姉ちゃん困らせるようなことばかり言うの!」
大翔の目には涙が溜まっている。
「お姉ちゃん、なにかわるいことした?」
「・・・ぶった」
「それはあんたが言うこと聞かないからでしょ。その前にお姉ちゃん、なにかした?」
大翔は下を向いたまま、首を横に振った。
「お姉ちゃん、間違ったこと言った?」
大翔は大きく首を横に振った。
「わかってるよね、あんたがごはんいらないって言ったんだよ」
大翔はおいおいと泣き出した。
「ごはんほしいなら、謝りなさい」
大翔はぐしぐし言うばかり。
「なに? 聞こえない。きちんと謝りなさい。でないと、もう二度とごはん作ってあげない。お姉ちゃん、絶対に許さない」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさあい」
珠子は大きくため息をついた。
仕方がないので、ダイニングの電気をつけて、作った料理を冷蔵庫から取り出し、レンジでチンした。炊飯器からごはんをよそって弟の前に茶碗を置く。大翔は泣きながら置かれた料理を食べはじめた。よほどおなかが空いてたらしく、おかわりまで求めた。その姿にまたため息が出た。
ふと、壁時計を見る。十二時前だ。明日も野球があるから、もう寝かさなきゃいけない。なんて考えてしまう自分は何なのだろうとも思って、また、ため息が出た。
「イヤなことでもあったの?」
珠子が何気なく発した言葉に、大翔の顔が歪んだ。涙がぼろぼろ溢れ出す。
なんかあったんだ。
「もう野球なんかやめる?」
と言いそうになって、思わず口元に手を当てた。
なにかあったからと言って、一度はじめたことをすぐにやめる人間なんてろくなものじゃない。あたしから水を向けてどうする? 苦い思いが胸の奥でざわめいた。
大翔にもう寝るよう言って、珠子は食器を洗った。布団に入ると、大翔が寄ってきた。
「暑いから、あっち行ってくれる?」
そう言われた大翔は、しばらく息をひそめて姉の機嫌をうかがっていたが、やがて寝息を立てはじめた。
この弱い子の面倒を、あたしはいつまで見ないといけないんだろ。
天井の豆球を見つめながら、長い息が漏れた。
でも。
この弱くて頼りない弟を何とかしたくて野球チームに入れたのは、あたしなんだ。意気地のない子に引きずられて、あたしまで意気地をなくしてどうする?
豆球のか細い光を見ながら、またため息が出た。
「ため息をつくと、幸せが逃げるよ」
ふと、どこかで聞いたフレーズが頭に浮かんだ。余計なお世話だと思った。