表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/56

お風呂 壱

 夏休みも近くなった七月のある土曜日。

 期末テストが終わったばかりの珠子は、大翔と一緒にタイガースに行った。お父さんは出張で昨日からいなかった。

「珠子お、キャッチに入ってえ」

 六年生や五年生相手のバッティング練習のキャッチャーに、るなが珠子を指名した。この暑い中、汗臭いキャッチャーマスクとプロテクターをつけて、キャッチャーミットを手にバッターの後ろにしゃがむ。最初は全然捕れなかったるなのボールも、この二ヶ月ほどで平気になった。左の人差し指の付け根が紫色になったりもしながら。

 バッティングピッチャー、るなの凄さは、珠子の構えたところに寸分違わずボールが投げ込まれること。春には当てるだけでも大変だった子どもたちも、いつしかど真ん中なら、きれいに打ち返せるようになっていた。だから、るなは外角高め、外角低め、内角高め、内角低めの四つにボールを投げ分けるようになっていた。

 お昼にお弁当を広げてから、珠子はるなのピッチング練習の相手をしていた。その間、低学年の子どもがなにか騒いでいるなとは思った。けれど、あまり気にはしなかった。


 その日は、午後から急に雲行きが怪しくなって、二時ぐらいからポツポツと降りはじめた。やがて、音を立てるほどになった。

「天気予報、雨降るなんて言ってたあ?」

「洗濯物干したままなのに」

 ママたちが口々に文句を言っても、どうにもならない。

 その日の練習は取りやめとなって、珠子と大翔も九条コーチのクルマでマンション下まで送られた。

「あー、もう、なんて天気よ!」

 玄関前に広げた新聞紙の上に、泥だらけの荷物を置いて、泥だらけのユニフォームを脱ぎ捨てると、珠子はさっさと風呂場に向かった。季節がら寒くはないものの、泥にまみれて汚いこと、この上ない。ふと、大翔が来ないことに気づいた。

「ひろちゃーん、早くおいでー」

「僕、お風呂、あとで入る」

 はあ?

 玄関まで戻ると、大翔はリュックを下ろしただけで、ユニフォーム姿で突っ立っている。泥だらけのユニフォームはぐっしょりしていた。

「そんな汚い格好のままでどうするの? 早くおいで」

「やだ、お姉ちゃんと一緒にお風呂入りたくない」

「なに言ってるの! ばっちいでしょ」

「あとで入る」

「ずぶ濡れなんだから、風邪ひいちゃうよ! 早くなさい!」

「大丈夫だよ、あとで入る」

「だいたいあんたねえ、一人で体も洗えないじゃない」

「洗えるもん」

「洗えたためしもないくせに」

「洗えるもん」

「いい加減にしてよ! 片付かないでしょ」

「やだ、やだ、絶対にやだ!」

 その場から寸とも動こうとしないので、珠子は思わず大翔の頬をぱちんと張っていた。

「いい加減にしてって言ったでしょ! 」

 それまで姉に手を出されたことのなかった大翔は、びっくりして珠子を見つめた。時間が止まったような気がした。姉は大翔を睨みつけている。

「誰のために、こんな汚い格好をしてつきあっていると思ってるの!」

 大翔の目から涙が溢れた。

「お姉ちゃんがぶったあ」

 涙とともに、心の中から悲しさが次々と湧いてきた。大翔は声を上げて泣き出した。

 珠子はため息をついた。ぐちゃぐちゃになった弟を、半ば抱えるように風呂場まで運び、ユニフォームからなにから着てるもの全てを脱がせると、頭からシャワーを浴びせた。涙と汗と泥が流れてゆく。珠子は桶に湯をためて、タオルと石鹸を涙涙の大翔の目の前に差し出した。

「自分で石鹸つけて洗ってごらん」

 きつい口調で言われて、大翔はぐしぐし言いながら、タオルに石鹸を擦り付けた。

「一人で洗えるんでしょ」

 大翔は姉の前でひととおり体を洗ってみせたが、

「足の裏も、指の間も、ぜんぜん洗えてない」

「耳の裏もまっくろ」

 と容赦ない指摘を受けて、情けなくなって、また涙が落ちた。

「いつまで泣いてるの」

「お姉ちゃんが、ぶった」

「あんたが言うこと聞かないからでしょ」

「お姉ちゃんが、ぶったあ」

 珠子はもう一度ため息をついた。

 お風呂から上がっても、大翔はベソをかき続けた。珠子はため息をつきながら、洗濯をしてから、夕食の準備をはじめた。

「ひろちゃんはいいわよね、そうやって泣いてりゃいいんだから。お姉ちゃんなんか、これからごはんだって作るんだよ、あんたみたいな泣き虫のために」

「僕、ごはんいらない」

 はあ?

「ごはんいらないって、じゃあどうするの」

「僕、いらない」

 珠子はため息しか出ない。

「あっそ、じゃあ、好きにすれば?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ