お風呂 壱
夏休みも近くなった七月のある土曜日。
期末テストが終わったばかりの珠子は、大翔と一緒にタイガースに行った。お父さんは出張で昨日からいなかった。
「珠子お、キャッチに入ってえ」
六年生や五年生相手のバッティング練習のキャッチャーに、るなが珠子を指名した。この暑い中、汗臭いキャッチャーマスクとプロテクターをつけて、キャッチャーミットを手にバッターの後ろにしゃがむ。最初は全然捕れなかったるなのボールも、この二ヶ月ほどで平気になった。左の人差し指の付け根が紫色になったりもしながら。
バッティングピッチャー、るなの凄さは、珠子の構えたところに寸分違わずボールが投げ込まれること。春には当てるだけでも大変だった子どもたちも、いつしかど真ん中なら、きれいに打ち返せるようになっていた。だから、るなは外角高め、外角低め、内角高め、内角低めの四つにボールを投げ分けるようになっていた。
お昼にお弁当を広げてから、珠子はるなのピッチング練習の相手をしていた。その間、低学年の子どもがなにか騒いでいるなとは思った。けれど、あまり気にはしなかった。
その日は、午後から急に雲行きが怪しくなって、二時ぐらいからポツポツと降りはじめた。やがて、音を立てるほどになった。
「天気予報、雨降るなんて言ってたあ?」
「洗濯物干したままなのに」
ママたちが口々に文句を言っても、どうにもならない。
その日の練習は取りやめとなって、珠子と大翔も九条コーチのクルマでマンション下まで送られた。
「あー、もう、なんて天気よ!」
玄関前に広げた新聞紙の上に、泥だらけの荷物を置いて、泥だらけのユニフォームを脱ぎ捨てると、珠子はさっさと風呂場に向かった。季節がら寒くはないものの、泥にまみれて汚いこと、この上ない。ふと、大翔が来ないことに気づいた。
「ひろちゃーん、早くおいでー」
「僕、お風呂、あとで入る」
はあ?
玄関まで戻ると、大翔はリュックを下ろしただけで、ユニフォーム姿で突っ立っている。泥だらけのユニフォームはぐっしょりしていた。
「そんな汚い格好のままでどうするの? 早くおいで」
「やだ、お姉ちゃんと一緒にお風呂入りたくない」
「なに言ってるの! ばっちいでしょ」
「あとで入る」
「ずぶ濡れなんだから、風邪ひいちゃうよ! 早くなさい!」
「大丈夫だよ、あとで入る」
「だいたいあんたねえ、一人で体も洗えないじゃない」
「洗えるもん」
「洗えたためしもないくせに」
「洗えるもん」
「いい加減にしてよ! 片付かないでしょ」
「やだ、やだ、絶対にやだ!」
その場から寸とも動こうとしないので、珠子は思わず大翔の頬をぱちんと張っていた。
「いい加減にしてって言ったでしょ! 」
それまで姉に手を出されたことのなかった大翔は、びっくりして珠子を見つめた。時間が止まったような気がした。姉は大翔を睨みつけている。
「誰のために、こんな汚い格好をしてつきあっていると思ってるの!」
大翔の目から涙が溢れた。
「お姉ちゃんがぶったあ」
涙とともに、心の中から悲しさが次々と湧いてきた。大翔は声を上げて泣き出した。
珠子はため息をついた。ぐちゃぐちゃになった弟を、半ば抱えるように風呂場まで運び、ユニフォームからなにから着てるもの全てを脱がせると、頭からシャワーを浴びせた。涙と汗と泥が流れてゆく。珠子は桶に湯をためて、タオルと石鹸を涙涙の大翔の目の前に差し出した。
「自分で石鹸つけて洗ってごらん」
きつい口調で言われて、大翔はぐしぐし言いながら、タオルに石鹸を擦り付けた。
「一人で洗えるんでしょ」
大翔は姉の前でひととおり体を洗ってみせたが、
「足の裏も、指の間も、ぜんぜん洗えてない」
「耳の裏もまっくろ」
と容赦ない指摘を受けて、情けなくなって、また涙が落ちた。
「いつまで泣いてるの」
「お姉ちゃんが、ぶった」
「あんたが言うこと聞かないからでしょ」
「お姉ちゃんが、ぶったあ」
珠子はもう一度ため息をついた。
お風呂から上がっても、大翔はベソをかき続けた。珠子はため息をつきながら、洗濯をしてから、夕食の準備をはじめた。
「ひろちゃんはいいわよね、そうやって泣いてりゃいいんだから。お姉ちゃんなんか、これからごはんだって作るんだよ、あんたみたいな泣き虫のために」
「僕、ごはんいらない」
はあ?
「ごはんいらないって、じゃあどうするの」
「僕、いらない」
珠子はため息しか出ない。
「あっそ、じゃあ、好きにすれば?」