グラウンド整備
サイン、コサイン、タンジェント。
正弦定理に、余弦定理。
メラニウスの定理に、チェバの定理。
「こんな三角形の性質なんて、なあんの役に立つんだろね」
数学の授業が終わって、クラスの誰かがぼやいている。
「あたしはなんの役にも立てずに一生終える自信あるな」
「ほんと、大学入試のためだけだよねえ」
そんな会話が、珠子の頭に残っていた。
よくわからないけど、測量なんてたぶんしないだろうから、あたしの一生にも関わりがないんだろうな。でも、それを言えば、世界の地理をどんなに知っていたからって、一生行くこともない国のほうが多いだろうし、国内だってどれだけ回るかわからない。歴史、文学、外国語、みな、そうだ。
梅雨入りして、傘の手離せない日々が続いていた。
なのに、なぜか土日になれば、天気が回復した。晴れないまでも、雨さえ降らねば、野球はできる。
「なんで週末に限って、雨上がるかなあ」
空を見上げてぼやきながらも、珠子は二人分の弁当を拵えて、ユニフォーム姿で大翔と一緒に公園に通った。
いったん公園に着くと、子どもたちと一緒にグラウンドの準備に入る。いつも大変なのがライン引き。メジャーをぴんと伸ばしてラインカーで石灰の白線を引くだけ、なのだが。これがなかなかうまく引けない。
「もっとちゃんと引っ張って」
いくら大人が言っても、子どもはわかっていなかったりする。とても直線とは形容できないガタガタが引かれたり、斜めになったりして、やり直すことも少なくない。
六月下旬のある朝、いつもとは違う場所を使うことになった。ダイヤモンドを作るため、少年野球のベース位置を、一から全て決めなければならない。
少年野球は普通の野球よりひと回り小さなダイヤモンドで、マウンドからホームベースまでが十六メートル、塁間が二十三メートル。
「一路日産って、覚えておけばいいんだよ」
と言ったのは、六年生の魚崎君のお父さん。
「いちろにっさん? そのままですね」
「あれ? そうか、最近のCMじゃそんなフレーズ使ってないか」
魚崎コーチによれば、ある自動車メーカーが以前に使っていたフレーズに、そんなのがあったらしい。
「魚崎さん、古いなあ」
魚崎コーチは他のお父さんたちから突っ込まれて笑った。
ホームから二十三メートルの位置に一塁ベースが置かれ、ホームと一塁を結ぶラインのホームから直角に二十三メートル先に三塁ベースが置かれるわけだが。
一塁ベースと直角方向の位置に三塁ベースを置くことは案外むずかしい。正方形のはずのダイヤモンドが菱形になったりする。そのため、ダイヤモンドの対角線に当たるホーム、二塁間のコンパスと、一塁からの塁間のコンパスとの交点で二塁ベース位置を決める必要がある。
けれど。
「対角線の距離って何メートルでしたっけ」
九条コーチがメジャー片手に、隣にいた野田コーチに訊ねた。
「対角線、さて、何メートルでしたか、三十メートルほどでしたか」
「誰か知ってる人いないかなあ」
そばにいた珠子は、なにを悩んでいるんだろうと思った。
「塁間は二十三メートルでしたよね」
「塁間はわかるんだけどさ、対角線まで覚えていないんだよね。珠子ちゃん、覚えてる?」
「覚えてないですけど、塁間が二十三メートルなら、対角線はそれかけるルート2で出るんじゃないですか?」
コーチ二人が顔を見合わせた。
「ルート2? どういうこと?」
珠子はグラウンドに小石でさらさらと三角形を描いた。
「ホームと二塁間の二乗は、ホーム一塁間の二乗と一塁二塁間の二乗の和に等しくなります。塁間距離はどこも一緒ですから、塁間を1とすれば斜辺に当たるホーム二塁間は√2です。塁間は二十三メートルですから、それに√2をかければ斜辺の距離がわかります」
珠子の説明を黙って聞いていた野田コーチは、
「これって、三角関数?」
「なんかあったよね、サインコサインとかってやつでしょう」と九条。
「あれって、こんなふうに使うんだ」
「√2って、ひとよひとよだから、1.414を23にかけりゃいいわけか」
珠子が縦の計算式を地面に書いた。
「三十二メートル五十二センチが対角線のだいたいの長さですね」
コーチ二人は目を丸くしている。
「さすが、でんに」
「珠子ちゃんって、理系?」
いやいや、こんなの基礎の基礎ですって。珠子は苦笑するしかなかった。
「それにしても」
代表の元町が、グラウンドを見ながら、言った。
「あの女子高生、すっかりコーチになっちゃったねえ」
監督の梅田が答えた。
「子どもの練習にも一緒に入ってくれるんで、普通の守備なら子どもの手本にもなりますしね。あと、川崎まで連れてきてくれました」
「悠一郎もまたいい子を連れてきてくれたものだ」
二人が談笑するところへ、グラウンドから珠子が駆けてきた。
「監督う、グラウンドの整備終わりましたよー!」
梅田は大きく頷いて、声を張り上げた。
「集合!」