中間テスト
六月の第一週は、高校初の中間テストだった。
その試験週の前の土日になって、試験勉強を理由に少年野球から解放された珠子は、朝に大翔を送り出すと、がらんとした家の中で大きく伸びをした。
「さあ、勉強、勉強」
と言ってから、ソファにごろりと横になった。なんとなくスマホをいじった。なにものにも追われない時間に、えも言われぬ自由を感じた。あくびが出た。
気がつくと、部屋に差し込む光が強くなってる。しかも、暑い。汗が流れてる。時計を見る。
「十時?」
いっけなあい!
少年野球に行かなくていいのは、月曜からの試験勉強をしなければならないからであって、ぼーっと、なにもしない自由を満喫するためではない。
珠子はソファから飛び起きると、「あー!」と大きく叫び声を上げた。
そして、ぼーっと霞む頭を覚まそうと、洗面所でザバザバと顔を洗った。洗顔が終わると、身体じゅうが汗にまみれて、ねちゃねちゃしていることに気づいた。
「あー、もおっ!」
珠子は、かなぐり捨てるように服を脱ぐと、浴室でシャワーを浴びた。
なんでさっき顔を洗ったんだろ?
どうでもいいことにムカムカした。シャワーを済ますと、ロールパンをかじってミルクで流し込み、「さ、勉強、勉強」と机の前に腰掛けた。
英語、数学をまず重点的に。地理は明日、徹底的に頭に叩き込む。生物、地学は合間合間に問題集を解く。いざ始めると、そこはさすがに名門、でんにに入った優等生。脇目もふらず、集中して取り組んだ。
ふいー。
ひと段落ついた頃、
「ただいまー」
大翔が帰ってきた。
夕陽が烈しく部屋の中に差し込んでいて、壁を家具をまぶしいほどに暑く照らしている。
もうそんな時間かあ。
玄関まで迎えに行くと、泥だらけのユニフォーム姿の大翔が、土のついたリュックを背負ったまま、靴を脱いでいるところだった。
「おかえり、どうだった?」
「うん、楽しかったよ」
大翔をお風呂場にやって、「ちゃんと洗うのよ」と声をかけると、「うん」と大きな返事がした。
このところ、大翔は機嫌よく野球をしている。未だボールを投げればどこに行くかわからないし、ノック受けてもまともに捕れることはほとんどないし、バット振ってもまるで当たらないけど、おどおどしなくなったように見える。行くの行かないので愚図ることもなくなった。
珠子は冷食を解凍し、昨日作っておいたほうれん草の湯煎と冷奴、レタスにトマトを冷蔵庫から取り出した。
ほどなく、大翔が風呂場から出てきた。フルチン姿の足首には、まだ土がこびりついている。
「ひろちゃん、あんたぜんぜん洗えてないじゃない」
「洗ったよお」
「そんな汚いまま、家の中、歩くんじゃないの! 誰が掃除すると思ってるの!」
背中を押されながら大翔が風呂場に戻されると、耳の裏、顎の下、脇、足首と、念入りに洗われた。姉の白い指が、せわしく足の指の間を動く。くすぐったい、くすぐったい。
きゃきゃきゃきゃ
「こらっ、暴れない!」
あは、あは、あは
「おとなしくなさい」
きゃはははははは
珠子は弟の足をきれいにした。ふかふかしたタオルが大翔の足を包む。なんとも気持ちいい。大翔は真剣な姉の表情を見つめた。
「今日、るなのお姉ちゃん来てたよ」
お夕飯のとき、大翔が言った。
はあ?
「お姉ちゃん、試験あるから勉強しなきゃいけないんでしょ? るなのお姉ちゃんは勉強しなくていいの?」
るなは、ちょいちょいタイガースに顔を出すようになっていた。
「運動部が日曜オフなんて、信じられます? いつ練習するんかっつうんですよ」
監督の梅田に毒を吐くるなの表情は、しかし明るかった。
そりゃそうだ。
タイガースに来れば、みんな「すごいすごい」言ってくれる。
六年生の子どもたちは「るなさん、バッティングピッチャーやってください」と最敬礼で、豪速球にキリキリ舞いしながらも、とても楽しそうだった。
「るなは朝から来てたの?」
「うん」
「すぐ帰ったんでしょ」
「ううん、お弁当も持ってきて、最後までいたよ。明日も来るって」
えー、信じらんない。あの子、中間テストどうするつもりよ。
でんには、このあたりの県立高校では女子ナンバーワンの進学校だけに、授業の内容も進み方も半端じゃなかった。日々の復習をやっておかなければ、途端についてゆけなくなる。
「これから、各教科の昨年度の一学期中間テストの問題を配る」
週末のホームルームで担任が配布した問題は、「基礎」「応用」「難問」と三区分されていた。
「えー、わたし、基礎もわかってないじゃん」と誰かが言ったら、
「基礎で間違えがあったら、点数に関わりなく即追試だからな」担任は、即返答した。
つまりは、勘違いやうっかりミスは許されないということだ。基礎を叩き込んだ上で、応用への対応も必要、という状況で、少年野球に興じている場合ではないはずなのだが。
月曜になって、珠子にとって高校初の中間テストが始まった。
「大翔に聞いたんだけど」
珠子はるなに声をかけた。
「土日、ずっとタイガースに行ってたんだって?」
「うん、そう言えば、珠子来てなかったね。なんか用事でもあった?」
「だって、試験でしょ」
「珠子、試験勉強してたの?」
「ふつう、するでしょ? 部活だって試験一週間前は活動休止になるし」
「わたし、直前になってジタバタするのって、やなんだよね」
と言った、るなの結果は凄かった。
学年三番。
校門脇の掲示板に張り出された成績上位者名簿に、しっかりその名が記載されていた。特に数学はトップだった。
ほー。
あとでもらった書類では、珠子の席次は五十一番だった。ひと学年、二百四十人いる中で、上の方であることに間違いはなかったが、直前にガリガリ詰め込んで、底上げしただけのことだから、素直に喜べなかった。
まあ、仕方ないっか。
うちはお母さんいないし、弟の面倒みなきゃいけないし、毎日けっこう忙しいし。
そこまで考えて、珠子は、ふっとため息をついた。
ばか、なに言い訳してんの。
あたし、カッコ悪すぎ。