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3-③



 やめます、と言おうと思った。

 救急車に乗って運ばれていく坊主頭の男子の姿を見送りながら。持久走の合間、東間が「なんで救急車来てたの?」と言うのに「よくわかんない」と答えながら。給食に出てきた飴玉みたいに固い大学芋の表面を齧りながら。五時間目、やたらに暗い理科室で、身体を九十度横に向けた奇妙な姿勢でノートを取りながら。ときどき、曇り空に雨の気配を感じたりしながら。そして六時間目になると本当に雨が降ってきて、うん、と決心した。今日限りで、旧校舎の掃除は辞めさせてもらう。

「今日はあいにくの雨だけど、よろしくね」

 なのに、いざ伊三島を目の前にすると、何も言えなかった。

 だって、何と言って説明するというのだ。この旧校舎には生首を抱えた大猿がときどき現れて私たちを閉じ込めてくるんです。そして昨日見たあの生首は今日救急車で運ばれていった野球部の人そっくりだったんです。というかそのままだったんです。首に痣までついていたんです。こんなところにいたら呪われます。呪われて見えない猿の霊に首をねじ切られて死ぬ羽目になるんです。私はまだ十三歳なんです。死にたくないんです。というわけで旧校舎の掃除はやめさせてもらいます。冗談じゃありません。こんなことにとても命は懸けられません。ここは江戸時代まで首切り処刑場として使われていたんだそうですけど、内申書の成績が悪いって首を切られるほどの罰と釣り合う罪ですか? 私はそうは思いません。こんなところにいたら呪われて死にます。嫌です。

 自分以外が言ったとしたら、間違いなく救急車を呼ぶ。

 どう考えても、正気を失った人間の物言いだから。

 田舎の学校の人間関係は狭く、一人が「あいつはおかしい」と言い出したらいつの間にかみんなから「あいつはおかしい」と認識されるようになる。さすがに友達から急に「あっ、頭のおかしい人は山に帰ってもらって……」なんて言われるようになるとは思いたくないけれど、職員室で「あいつはちょっと頭がアレだからな……」とコーヒー片手に教員が語る姿は本当に容易に想像がつく。そう思われたが最後、テストの採点にすら影響が出て、さらに成績は下がり、母は怒り、今度こそ本当に二度と生きては帰れないような地獄の冬期講習に叩きこまれる。今度はきっと冬の雪山に放り出されて、真っ白な毛並みのタイリクオオカミの舌の上に書かれた三角形の相似の証明問題を解かされる羽目になる。そういう未来が予想できてしまう。

 だから、伊三島には言えなかった。

 教室の扉を閉めて去っていく姿に、待ってください、とも言えなかった。

 取り残されたのは、雪松と二人で。

「……じゃあ、やろうか」

 どういうわけか、何事もなかったかのように平然としている雪松と、二人で。

 昨日の続きから始めるらしい。鹿野が着いたときにはすでに雪松は水を溜めたバケツを用意していた。床に膝をついて、薄汚れた空雑巾を、それに浸している。細い指で引き上げると、ちゃぱぱぱ、と吸い上げたはずの水がしたたり落ちた。

 旧校舎の木造は降りしきる雨に軋んでいる。水の中にいるような湿気が満ちている。雨音の体温が肌に纏わりついている。今にも雨漏りしてもおかしくなくて、どこかの床板にぽとぽとと水滴が落ちている様を幻視してしまう。

 雑巾を手に取るよりも先に、鹿野は言った。

「今日のお昼にさ、」

 遠慮がちに雪松が振り向く。何を考えているんだか、表情からはわからない。

「救急車来たの、知ってる?」

「……うん。音は、してたけど」

「あれに運ばれていった人、昨日、私たちが見た生首と同じ顔してた」

 単刀直入。

 これ以上なく、わかりやすく伝えたはずだった。

 なのに、雪松の表情は、まるで変わらなかった。

「……そうなんだ」

「え」

 何事もなかったかのように掃除に戻ろうとする雪松に、思わず鹿野は一歩近寄って、

「そ、そうなんだで済む? だって、その人、首に痣が、」


「――――そんなの、関係ないでしょ」


 冷たい声だった。

 夏の名残の大雨よりも、ずっと。

 にべもない。取り付く島もない。あなたの話には全く興味がない――そんな声。

「いや……え?」

 困惑してしまう。何も言葉にできなくなってしまう。

 関係ない? こんな状況で?

 だって、他の人たちならともかく。

 旧校舎のことを何も知らない生徒や教員ならともかく。

 だって、昨日。

 二人であんなにくっきり、変な猿を見たのに。

 閉じ込められたのに。生首だって見たのに。

 それで関係ないなんて言葉、どうしたら――――

「関係ないって、そんなわけ、」

「掃除しに来てるんでしょ」

 べしゃ、と壁の汚れの上に、濡れた雑巾を被せながら。

 雪松はこっちを見ることもしないで、こう言った。


「真面目にやらないなら、帰ったら」




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