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3-②



「おう、みどり」

 最悪の二乗。

 我が身の不幸を嘆きながら、鹿野はそう思った。三時間目と四時間目の間。次の時間は体育。持久走。天気が崩れたら体育館で卓球になるはずだったのに、崩れ切らなかった。持久走は疲れるし暇だしあんまり好きじゃない。しかも九月の残暑はまだ続いている。それでも体育祭の練習よりはマシだとか、曇ってるからまだいいはずだとか、頭の中で理屈をこねくり回して、自分を勇気づけてグラウンドに向かっていたところだったのに。

 昇降口を出てグラウンドに向かうには、ぐるっと校舎を周らなければならない。そしてその途中に職員向けの勝手口がある。狙っていたのかたまたまなのかは知らないし、どっちにしろ嫌なことこの上ないが、そこで鹿野は大山に遭遇した。

 英語教師、大山。

 現在の悲惨な状況の元凶の、生徒のノートに赤字を入れることに興奮を覚えているとしか思えない男。

 生徒を下の名前で呼んでくるから、顔を見なくても一発でわかってしまう。わかりたくもないのに。

 こんにちは、と頭を下げるしかない。それがこの学校のルールだから。教師とすれ違ったときに会釈の一つもしなければ呼び止められて説教される。それがこの箱庭の法律で、当然向こうから話しかけられたとなってはもう立ち止まって高尚なお話にお付き合いさせていただく以外の選択肢は存在しない。

「お前最近、真面目になったらしいな」にやにやと、半笑いで。

 誰のせいだよ、と思う。何ならとっととくたばってくれくらいのことは思っている。けれど人間は外面と内面を分けて生きていかなければならないということを最近よく思い知らされた鹿野は、にっこり笑ってこう答える。「はいっ」どうだ可愛かろう。

 ようやくわかったらしいな、と大山は笑いながら言う。「先生のことくらいはちゃんと尊敬しなきゃ将来どこでもやっていけんぞ、ん? 世の中にいる上司なんていうのは、学校の先生と違ってもっと常識がないし理不尽なものなんだからな」

 滅べ、そんな世界。

 これまでは「なんか嫌な人だなあ」くらいで止まっていた印象が、あの内申評価を食らってからさらに下落している。今は「早く死んでくれないかなあ」としか思えない。というか話しかけないでほしい。こっちは友達でもなんでもないのだから。

「旧校舎の清掃やってるんだって? 里保と」

「はいっ」里保って誰だよ、と思ってから即座に思い出す。雪松の下の名前が里保だ。

「あいつはお前と違って優等生だからな。可愛げもあるし、お前もしっかり傍で見習えよ。な!」

 残念ながらたった今、鹿野の中で雪松里保に対する評価が下がった。嫌いな人間の好きなものを嫌いになる。こういうことを繰り返していくと世界はいずれ本当に荒廃したものになっていく。が、自分ではなかなか止められない。

 でもまあ、幸いだった。

 そう、鹿野は自分に言い聞かせた。

 これが昼休みだったりしたらもっと最悪だった。そのまま二十分間拘束されるというパターンもありうる。けれど今はそうじゃない。授業が始まるまではもうほんの僅かな時間だし、クラスメイトたちは「ご愁傷様」みたいな顔をしてどんどん通り過ぎていくし、前の時間に体育をやっていた生徒たちもどんどんグラウンドから校舎に移動していく。その中に一人見知った顔があった。班目の友達だ。一瞬隣にいた友人との会話を止めて「なんか可哀想なもの見ちゃったな」という顔をして通り過ぎていく。気持ちはわかる、と鹿野は思う。自分だって同じようなザマになっている生徒を見かけたら、同じような顔をして過ぎ去っていくことだろう。

 とにかく、時間を理由にしてこの場を去れるというのは、この上ない喜びである。

「あの、もう授業始まるんで」

「その言い方一つとってもなんだよなあ、お前は」

 しかし大山は引き下がらない。いかにも「まったく最近の若いやつは」という顔で、ただでさえ突き出た腹をさらに突き出して言う。

「普通なあ、先生との会話を切り上げるときは『すみません』とか『失礼します』とか言うもんなんだよ。それが何だお前。『もう始まるんで』って。そういうところが帰宅部のダメなところなんだよ。運動部の奴らはちゃんとしてるぞ? お前はいっつも挨拶も小さいし……」

 叫びたい衝動にかられた。「うっす!!! すんませんっす!!!」とこの曇天いっぱいに爆音を響かせてやりたい。でも仕方ないから笑って言う。「すみません」「謝るときもへらへら半笑いだしな、お前は」学校辞めようかな。

「こういうときはな、もっとおどおどするくらいでいいんだ。同じ帰宅部でも里保なんかはもっと可愛げがあるぞ。『すみません』とか『申し訳ないんですけど』とか言いながらちゃんと頭を下げて、」


 きゃあっ、と声が響いた。


 思わず鹿野も振り向いた。声のした方。

 もう休み時間もギリギリになったから、それほどの生徒の数がいるわけではなかった。そこにいたのは数人。ずっと先の方まで行って「一体何事か」と振り向いているクラスの男子たちを除けば、上級生らしい女子生徒が三人。

 それと、上級生の、坊主頭の男子生徒が一人。

 両手で首を抑えて、コンクリートの上に膝をついている。

「うえっ、何?」

城川(きがわ)どうしたの?」

「え、ヤバくない?」

 ものすごく嫌な予感がした。

 その男子生徒――城川の様子に怯えて、女子生徒たちは固まって後ずさりをしている。介抱しようと試みる余裕はないらしい。

 だからというわけではなくて、もう勝手に、鹿野は動いていた。

「大丈夫ですかっ?」

 大山のことなど見向きもしない。城川の下に駆け寄って、背中に手を当てる。固い感触。筋肉が緊張しているのがわかる。それだけで何か、ただごとではないような気がしてくる。

「か、あッ――」

 城川は首を必死に抑えている。一体何なんだ。喉に何かを詰まらせたのか。目に涙が浮かんでいる。顎を落とすように口がぱっかり開いている。軟体動物のような真っ赤な舌が出口を求めて先端を迷わせている。つー、と唾液が糸を引いて、コンクリートの上に垂れていく。

「何か詰まらせたんですか?」

 背中を叩く準備をしながら、大きな声で鹿野は城川に訊ねる。そうとしか見えない。けれど城川は首を横に振る。

「く、るし……」

 苦しい。

 呼吸困難?

 へは、と奇妙な、細い息だけの咳を城川は吐いている。首や喉そのものに問題があるわけじゃないのか? 抑えているのは単にそのあたりが苦しいからで、外からはどうにもできないのか。病気? 喘息。そうだ、確か小学校で、一年生のときに転校していってしまったクラスメイトが一時期それで入院していたはずだ。いやでもあれは咳が出るんだっけ。何もわからない。そんなの当たり前だ。だって医者でも何でもなくてただの中学生で――――

「保健の先生呼んできてください!」

 そう声を上げれば、ようやくバタバタと足音が動き出した。それを聞きながら、大丈夫、と自分に言い聞かせる。保健室は一階にある。職員室とも近い。すぐ来る。でも保健の先生っていつも学校にいるんだっけ。自分にできることを一つでもしなくちゃいけない。何ができる? 何か何か何か。何かないのか思い出せ、

 記憶力が良くて助かった。

「先輩、身体倒してくださいっ」

 背中に手を当てる。向こうも必死だ。鹿野の指示をまるで疑うこともせずに身体を預けてくる。そのままゆっくり仰向けに倒す。コンクリートの上。

 水泳の授業だ。中学校じゃない。小学校の。何年の頃だったかは忘れた。着衣泳の授業のときにやった。あのときジャージの繊維にアレルギーでも起こしたのか背中にめちゃくちゃな発疹ができた。そんな思い出はどうでもいい。あのときに習ったのは蘇生の方法だ。心臓マッサージ、要らない。人工呼吸、確か要らない。

 気道確保。

 城川の顎に指を当てて、くい、と持ち上げた。肩のあたりに手を差し込んで、姿勢を支えた。

 ハーッ、ハーッ、と掠れた息が、喉を通っているのが見える。

 肺が膨れたり縮んだりして、胸が動物みたいに大きく上下するのがわかる。

 なんとかなった、と思った。へなへな腰を抜かしそうになるほどの安心感を覚えた。

 だから、気付いてしまった。

「おい、どうした!」

 野太い声が職員室玄関の方から聞こえてくる。顔を上げると、知らないでもない顔がいた。確か、野球部の顧問。いくらなんでもサイズミスだろうと言いたくなるようなピチピチのTシャツを着た。

「城川大丈夫か、お前! 一体どうした!」

 駆け寄ってくる。城川の傍に屈みこんで訊ねる。

 もちろん城川に、その質問に答えるだけの余裕はない。顧問の方に黒目を僅かに向けるくらいがせいぜいできること。だから、代わりに鹿野が答えた。

「突然喉を抑えて、倒れて、息ができなかったみたいで」

「アナフィラキシーか?」深刻そうに、眉を顰めて。「大丈夫だ、今救急車を呼ぶからな。踏ん張れよ」ポケットから携帯を取り出して、迷いなく119を押す。

 先生こっち、と女子生徒の声が聞こえてくる。かしゃんかしゃん、と玄関前の泥落としを踏みながら、白衣を着た養護教諭が上靴のままで走ってくる。

「どういう状況ですか?」養護教諭が訊く。

「呼吸困難を起こしてます。アレルギーなのか病気なのかはわからんですが」野球部顧問が答える。

「ありがとう、代わるからね」

 養護教諭はそう言って、鹿野の肩を叩く。お願いします、と立ち上がって場所を交換しながら、けれど茫然と、鹿野は考えている。

 アレルギーだとか、病気だとか、そんなのじゃあ、絶対にない。

 だって。


 城川の顔は、昨日旧校舎で見た生首そのものだったし。

 目の前のその首には、人に絞められたような深い痣があったのだから。


 いつの間にか、校舎の廊下の窓が開いている。

 なんだなんだ、と生徒たちがかぶりついて、それに野球部顧問が「お前ら教室に戻れ!」と怒鳴り散らす。

 暗灰色の雲が立ち込める曇り空の下、救急車を待ちながら、鹿野は思っていた。

 本当のことを知っているのは、自分だけだ。




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