3-①
「で、どうだった? 旧校舎の掃除は」
「……顔見てわかんない?」
わはははは、と東間は笑った。
九月二日、早朝。ホームルームよりも前の時間。朝練に出ている生徒たちが教室にどかどか入ってくるのより、まだ先の時間。
テニス部に朝練なんてものはないから、すでに東間は自分の席に着いていて。
帰宅部にはもっと朝練なんてものはないから、鹿野はもっと自分の席に着いていた。具体的に言うと、ほとんど突っ伏した状態で。
汚かったでしょ、と東間は言う。
「あそこ、開かずの旧校舎だから。汚いからって毎年だーれも掃除しないで、どんどん汚くなってくの。負のスパイラル」
「なんでそんなの知ってんの~!」
「いや、普通こういうの、部活の先輩とかから聞くでしょ」
鹿野の頭の中に帰宅部の先輩の、長髪の美少年が現れる。そして言う。「訊かれなかったら言わないよ」天使の笑顔。
結局、あのあとは、何も見つからなかった。
階段下の部屋は見つからなかったし、猿はいなかったし、まさか生首なんてなおさらどこにも見当たらなかった。扉も窓も、嘘のように簡単に開いた。
伊三島相手に必死に訴えかけるという道もあった。いや先生信じてくださいさっきまで猿と生首があって私たちを襲ってきたんです証拠はないんですけど信じてください。けれど、それをしている自分を想像したら完全に頭のおかしくなった人間以外の何者でもなかったので、口を閉ざしてしまった。
だから、今日も昨日のように、旧校舎の掃除に行く羽目になりそうで。
気分は窓の外の曇天と同じくらいに落ち込んでいる。今すぐに雨が降り出したっておかしくない。
はぁあ、と溜息を吐いた。
「知ってたならさぁ……止めてくれてもよかったじゃん」
「だってみどり、止める前に自分で立候補しちゃうんだもん。何あの手の挙げ方。軍人?」
「『先生! 鹿野みどりさんの部屋の汚さを知っていますか!』って対抗して手を挙げてくれたら未然に防げた可能性はあったよ」
「それ私が大切なものを失うよね」
「何?」
「内申」
大丈夫だよそれくらい、と鹿野が言うと、「大丈夫だよそれくらい、の精神で日々を過ごしてきた人の末路がこちら!」と東間に指を差される。ぐうの音も出ない。
でもまあいいじゃん、と東間は励ますように言った。
「どうせ一ヶ月なんだからさ。帰宅部っていっつもヒマでしょ?」
「帰宅部ってヒマが好きな人がなるものなんだょ」
「甘えるな」
「はい…………」
ごちん、と額を机に打ちつける鹿野の後頭部を、東間はぽんぽん、と撫でながら言う。たまにはいいでしょ。頑張りな。
「古いだけで、まさか本当に生首が出るってわけでもないだろうし」
「くっ…………!」
思わず、顔を勢いよく上げてしまった。当然東間はものすごく驚いた顔をしている。何? どしたの急に? 狂った?
「え、や、」口ごもりつつ、「何、首って」
「知らない? うちの学校って、昔首切り場だったんだってよ」
「クビ……首切り?」
「そう。首切り処刑場」ピッ、と首元に指で一本線を引いて、「時は江戸。罪を犯した人間をバッタバッタと斬り倒しては井戸の外に埋めておったそーな」
「絶対嘘じゃん」信じたくない。
「それは嘘かもしんないけどね」意外にも、東間はそれを軽く受け止めて、「でも、なんか昔、あそこで怪我人が出たから立ち入り禁止になったっていうのは本当らしいよ」
それだけはマジで気ぃ付けてね、と東間は言う。
それだけはマジで気ぃ付けてね、と言われても。
「いや、それも嘘じゃん。絶対嘘」
「これは嘘じゃないよ。うちのママが『中学生の頃にねー』って言ってたやつだから」
「でもうちのお父さんも『サンマっていうのはな、常に三匹一緒になって行動するからサンマって名前がついたんだ』とか平気で嘘教えてくるよ」
「よくその環境でその成績まで上り詰めたね」
「ムカついて何でも自分で調べるようになったからね」家に反面教師はいてほしくない、と溜息。
溜息。
「あ~~~~~~骨折した~い!」
わかるわかる、と東間は笑った。鹿野の大声は教室中に響いて、触発された陸上部の赤尾と鈴本が「骨折したら今日の雨練休めっかな」と微かな希望に賭けた沈鬱な雑談を始める。
どたどたどた、と急に廊下が騒がしくなる。朝練を終えたクラスメイトたちが、汗の臭いと一緒になって教室に駆け込んでくる。予鈴が鳴る。もうすぐ担任の荻がやって来る。東間が前を向いて座り直そうとする、その直前。どさくさに紛れて鹿野は訊いた。
「東間さ、」
「ん?」
「いきなり人間大の猿が目の前に現れて、首ネジ切ろうとしてきたらどうする?」
「諦める」
だよねえ、と言えば本鈴が鳴る。
そうして今日も、学校生活が始まってしまう。