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2-③



 嘘だあ、と言ったのは本当に嘘だと思ったわけではなくて、単に認めたくないがための悪足搔きだった。

 雪松の代わりに扉に手をかける。これもまたあまり普通の扉ではない。現代に生きる学生が一般的な昇降口としてイメージするようなスチールフレームではなくて、やっぱり木枠。襖みたいにして開けるスライドの扉。だいたい腰の上くらいからは大きなガラスが嵌めこまれている。

 指を引っかけて、「ふんっ」と力を込めた。

 開かない。

「……開かないよね?」おずおずと、雪松は。

「うん」鹿野はもう一度力を込めて、「悲しいことに、びくともしないね」

 背中にものすごく嫌な汗をかいている。まさか、と思っている。まさかそんなことはないだろう、と自分に言い聞かせている。言い聞かせる必要があるということは、あまりその主張を自分で信じられていないということだ。

「雪松さん、窓閉めた?」

「え?」

「教室と、廊下の」

 戸惑っている。演技ではない、と思う。演劇でも齧っているなら知らないけれど、少なくとも鹿野の目にはそう見えた。

「ううん、閉めてないけど……」

 最悪の想像が頭を過っている。

 本当に倒壊するのではないか、というのがまず一つ目。誰が何をしたわけでもなくいきなり扉や窓が開かなくなったというのなら、建物全体がものすごく歪んだんじゃないか、というのがわかりやすい説明だと思う。この汚れた建物に巻きこまれてぺしゃんこ。校舎を墓標に模範的な学生として葬られてしまう。そんな予想。

 そうじゃないだろう、と囁く声もある。建物の歪み? そんなシンプルな話なわけがないだろう。建物が歪んでいるから窓が閉まりましたって? まさか自分で覚えてないわけじゃないだろう。お前が開けたとき、窓の滑りはそんなに良かったか? 都合よくちょっと建物が傾いたくらいでスパッと閉まって、挙句の果てに棒鍵までくるくる締まってくれるような都合のいい窓に見えたのか?

 もちろん、そんなわけがなくて。

「誰か、見た?」

 旧校舎の中に、自分たち以外の人間がいるのかもしれない。

 そういう想像が自然だと、いくらなんでも妥協した。

 けれど雪松はまだそれに気付いた様子もない。どういう質問をされたのだろう、と困惑したような表情で「誰も」と答えるだけ。

「もしかして、私たち以外にこの校舎、誰かいない?」

 念押しにもう一度鹿野が言っても、まだあまりピンと来ないらしい。それとも自分が気にし過ぎなのだろうか、と鹿野は不安になってくる。

 扉も窓も開かなくて。

 中に、自分たち以外の誰かがいて。

 普通、そういうのって、怖いと思わないんだろうか。

「外に出られる場所、探そうか」

 しかしこんな場面で「あなたには恐怖心とかそういものがないのですか」と質問を始めても仕方がない。事は一刻を争うんだか争わないんだかわからない。そういうときはとりあえず急いで行動するに越したことはない。明日が期限か明後日が期限なのかわからない宿題はとりあえず今日のうちにやっておく。そうすれば大変なことにはならないのだから。

 廊下に出て、窓を一つずつ確かめる。雪松は初め、不思議そうな表情でそれを眺めていたけれど、鹿野が三つ四つと窓を移動して一つも開かないとなれば、さすがに顔色が変わり始めた。悪い夢でも見ているのか、という具合に眉をひそめて、嵌め殺しのように動かない窓に指をつけて「なんで……?」と呟いている。

 教室の中に入って、そこも同じ。職員室、保健室、理科室。二階に行くのはまだ少し怖い。水道の奥の高い位置の窓にも、ぐっと腕を伸ばして。開かない。トイレの中も、とりあえずは放っておく。どうせトイレの中に人が出入りできるような大きな窓があるわけがない。

 もう一度、教室に戻った。内線電話がついている。受話器を取る。1とか11とか、適当な数字をプッシュする。無音。どこにも繋がっていないらしいが、元からなのか、この状況だからなのかわからない。

 お手上げだった。

「どうしよう……」

 雪松がぼそっと零す。もちろんそれは、鹿野がたった今口にしたい台詞でもあった。

 どうしよう。

 どうした方がいいんだろう。

 まずもって、ここからは出られない。それはいま確かめた。そして外と連絡を取る手段もない。携帯禁止の学校だからだ。いまどき子どもにスマホくらい持たせろ、と生徒たちはみんな思っているし、なんなら保護者会からもそういう声が出ているらしいけれど、学校側は決してそれを容認しない。代わりに近くのコンビニに公衆電話を設置して子どもたちのなけなしの小遣いから十円を巻き上げることを生きがいにしていて、しかも電話のついでにそのコンビニで買い食いでもしようものならその場で熱烈な教育的指導を始める。

 つまり、逃げ場はなく、能動的に助けを呼ぶこともできない。

 残された手段は、ただ座して死を待つのみ。

 というわけでも、当然ない。

「伊三島先生が来てくれるの、待つしかないよね」

 鹿野がそう言えば、雪松も「ああ」と頷いた。

 ついさっき言っていたばかりではないか。清掃の始まりと終わりのタイミングには顔を見せる、と。壁の時計は止まっているが、百円ショップで買ってきたのだろう手のひら大のデジタル時計が教卓の上に置いてある。もう結構な時間が過ぎていた。伊三島が忘れていない限り、そろそろ現れる。よしんば外から開けられなかったとしても、異常事態だ、ということくらいはわかってくれると思う。

「昇降口の方行って、待ってようか。帰ったと思われて放置されちゃったら嫌だし」

「あ、でも、」雪松は戸惑うように、「掃除、やらないと……」

 え、と思わず声に出た。掃除? この期に及んで? こんな状況で?

 場を和ませるつもりの冗談なのかと思ったけれど、どうも真剣らしい。目線は完全に掃除用具に向いている。外に出られなかった以上、まだ指の怪我だって水洗いしていないだろうに。

 どういう人なんだ、この人は。

 本当に異星人に出会ってしまったような気持ちで、「ああ、うん……」と鹿野は頷いた。それ以外に言葉が見つからなかった。「じゃあ、私だけちょっとそっちで人来るか見てるね」とさりげなく別行動に移ろうともした。別に雪松もそれを止めるでもなく「うん」と頷いた。

 そのときだった。

「――――なんか今、音しなかった?」

 耳に届いた。

 ドスンとか、バンとか、そんな音。建物の木造フレームが軋んだのとはまた違う音だったと思う。人の気配、というか。足音。そんな風に聞こえる音がした。

 その音が雪松にも聞こえたのか、聞こえなかったのかはわからない。

 その直後に一際大きく音がして、意識がそっちに持っていかれてしまったから。

「したよねっ?」思わず鹿野は箒を握る。

「うん……」雪松は一歩、その音のした方から遠ざかる。

 どたんどたんどたん。立て続けに、何かが暴れているような音が立つ。ネズミ? 野良猫? どっちでもない、と鹿野は思う。それにしては音が大きすぎる。クラスの男子が休み時間にやるプロレスくらいの激しさはある。

 やがて、音は止んだ。

「…………ちょっと私、見てくるね」

「えっ!」

 雪松が驚くのにも構わず、鹿野はその場にあるものを物色した。座敷帚よりも、長柄のワイパーみたいなやつの方が良い。軽いし長い。叩いたらたぶんこっちの方が痛い。細いから折れてしまわないか心配だし、金属バットがあったら絶対にそっちの方がよかったけれど、とにかくこの中にある選択肢の中では一番良い。

「か、隠れてた方が……」

 雪松の言うことにも、もちろん一理あった。のこのこ出て行って何になる。剣道部でも何でもないのに。運動部でもないし、筋力に自信があるわけでもないのに。

 けれど、と鹿野は思ってしまう。隠れてやり過ごす。そういう消極的な行動は、心臓に悪い。昔からそうだ。何でも早めがいい。さっさとやって、さっさと終える。どっちが難しいかよりも、どっちの方がストレスが溜まるかの問題なのだ。

 どうかこっちに来ないでください、と何億年も祈るくらいなら、こっちから行ってやる。

「ここで待ってて」と言えば、「わ、私も行く」と言って雪松もついてきた。箒を握ってすらもいないから、本当にただついてくるだけのつもりらしい。

「たぶん、こっちの方だったよね」

 ただの独り言で、特に答えを期待したわけでもなかったけれど、「うん」と雪松も応えたので、自信を持って進む。進んで、誰の姿も見当たらない。

 聞き間違いだった、ということはないと思う。

 確かに音がしたのだから、どこかにはその正体があるはずだ。廊下の真ん中で立ち止まって、ぐるりと辺りを見回して、

「――――こんなところに部屋、あった?」

 今度は実際に、雪松に訊ねたつもりだった。

 二階へ続く階段の下。つまり、二階から一階に降りてきたときに、ちょうど背後になるところ。折り返しの部分。

 そこにもう一枚、扉が増えている。

 そんな気がする。

「なかったよね? さっき」

「なかった……かな?」

 記憶違いかもしれない。本当は階段のボロさに気を取られて見逃しただけなのかもしれない。けれど、どうも見覚えがない気がする。ありえないことだとは思うけれど、ついさっきまでなかったもののように感じてならない。

 ここまで見てきたスライド戸とは毛色が違う。わかりやすくドア。引き戸だ、ということまで見た目からわかる。この旧校舎の扉はほとんどすべてに大きなガラス窓がついていたけれど、この扉だけはそれがほとんどない。ただ鹿野の身長の少し上のところに、すりガラスが嵌めこまれた郵便受けくらいの大きさの小窓が開いているだけ。

 どん、と中で音がした。

「っ!」

「ひっ――!」

 どん。どんどんどんどん。ばたばたばた。何かが崩れ落ちる音もする。

 待てよ、と鹿野は思う。倉庫か。

 音の感じでそうわかった。中には物が残っている。それが崩れている。そういう音。

 だったら、と気が強くなった。だったら、本当にただネズミが暴れているだけ、という可能性だって考えられなくもない。

 一歩進んで、ドアノブを握った。

「開けるの……?」

 雪松が不安げに訊いてくるのに、「うん」と短く答える。これだけわかりやすく変なことになっていて、見て見ぬふりをするのは無理だ。

「怖かったら、雪松さん、隠れてていいよ。危ないかもしれないし」

 言えば、少しだけ雪松は迷ったような素振りを見せて、けれど結局、その場に残った。何かを決めたからそうした、というより、何も決められなかったからそうなってしまった、という仕草だった。

 ふーっ、と細く、長く、息を吐く。その間に、覚悟を決めて。

 いざ。

 がちゃり、と。

 開けた先に。

「――――猿?」


 真っ黒な、猿がいた。


 開いた扉から差し込んできた夕日に、その真っ黒な毛並みを照らされて。

 自分たちの背よりも少し大きな、猿が立っていた。

 大型類人猿、というほどがっしりした体つきをしているわけではない。太った中年の男くらいの肉付き。けれど肩のあたりは妙に盛り上がって、背中の反りも動物的なアーチを描いて、人間ではないということはよくわかる。

 全身にみっしりと、鋼のように黒い毛が生えている。耳と顔の肌だけがその毛に覆われず剥き出しで、黄土色に煤の混じったような奇妙な色合いをしている。口はほとんどその顔を横断するほど大きく、唇がめくれて、腐ったような黒い歯茎が剥き出して、尖った細かな歯がびっしりと上下に生えそろっているのがわかる。鼻柱は太く、小鼻は両足でも開いたかのように大きく広がっている。地肌の表面は平らではなく、ぼこぼこと岩のように隆起して、眉はない。僅かな黒目と、今にも飛び出しそうな丸い白目が眼球の全てで、どう見ても意思の籠もった目で、こちらを見ている。

 嗤っていた。

 その手に、人の生首を持ちながら。

「ひ――――」

 人の首。猿の節くれだった手がそれを掴んでいる。恐怖に見開かれたようなその首の瞳と、鹿野は目を合わせてしまう。

 それほど自分たちと年が変わるとも思えない、少年の目。

 わあっ、と叫んで、咄嗟に扉を閉じた。

「逃げるよ!」

 バン、と猿が扉に激突する音を背中に聞きながら、鹿野は雪松の手首を掴んだ。「あ、え――」とうわごとのように呟くだけの雪松は、どう考えても事態に頭が追い付いていない。もちろん鹿野だって追い付いていない。けれど、じゃあどういうことなんだろう、なんてこの場で考えていたら何もかも手遅れになる。走るしかない。とにかく、遠くへ逃げるしかない。

 遠くって、どこへ?

 ゆっくり考える時間はない。頭の中にひたすら単語が浮かんでくる。旧校舎、猿、生首、なんでこんな、私が、内申、夕日、出口、

 出口。

 昇降口まで、走ってきた。

「ダメだって――!」ようやく我に返ったらしい雪松が言う。「ここ、開かないって、さっき――」

 ふん、と気合を入れて、扉を蹴りつけた。

 一発、二発、三発。びくともしない。知るかそんなこと。もっと。六発、七発、拳を握る。ガラスを殴る。それでも動かない。両手で叩く。目いっぱい叩く。骨が折れても構わないというくらいに叩く。思い切り助走をつけて体当たりまでするようになれば、自分が出している音の合間に聞こえてくるものがあることに気付く。

 廊下。

 猿の、足音。

「わ、私も!」

 雪松が言うのに「お願い!」とだけ返す。同じ場所まで下がって、せーの、を合図に走り出そうとして。

 走り出そうとして。

「――――え」

「あ」

「おや」

 がらり、と。

 扉が、開いた。

 さっきまで、玄関扉のガラスの向こうには誰の姿もなかったはずなのに。急に外からガラリと扉を開けられた。立っているのは少し背の低い、白髪に眼鏡の老教員。生徒二人が昇降口で待ち構えていたのに、目を丸くしている。

「どうしたんだい? こんなところで」

「猿が――――!」

「猿?」

「そうです!」必死で鹿野は言う。「なんか、すごく大きい猿が――」

 伊三島は怪訝な顔で、ほお、と頷く。二人の間を通りすぎる。靴を脱いで、危ないですよと鹿野が引き留める前にすたすた歩いて、廊下の方に首を出してしまう。

 そして、言った。

「何もいないみたいだけれど」

「え」

 そんな馬鹿な。

 鹿野も伊三島の後ろから、恐る恐る廊下を覗いた。

 確かに、いない。

「いや、でも、さっき、」

「どのあたりにいたんだい?」

 いたよね、と雪松に同意を求めるけれど、どういうわけか目を合わせてこない。だから仕方なく鹿野は一人で伊三島を案内する。二階に続く階段の、折り返しのところ。


 そこには、扉なんて跡形もなく。

 ただの壁しか、残っていなかった。



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