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2-②



「雪松さん、指に傷とかある?」

「え」

 思いのほか驚かれたので、かえってこっちがびっくりしてしまった。

 ただでさえ人形みたいに大きな目をさらに大きく見開いて、雪松がこっちを見ている。意味もなく慌てて、鹿野はバケツを指差した。

「いや、なんか水道の水が汚れててさ」

 だからなんだというのか、と言いたげな顔。さらに続ける。

「傷から変なばい菌が入っちゃったらあれかな、って」

「ああ」

 そこまで言えば雪松は納得して、けれどその直後に困った顔をする。無意識なのか知らないが、右手を腰の後ろに回した。

「…………えっと」視線はまっすぐではない。左隣の床に注がれたまま。「さっき、怪我しちゃって」

「さっき?」思わず声も大きくなる。「なに、どしたの?」

 教室の入口から奥の方まで歩いていけば、「そんな、大したほどじゃないんだけど」と言って、雪松が人差し指を胸の前に立てる。その腹から、ぷっくり血が出ていた。

 確かに大したものじゃないな、と鹿野は思う。けれど、大した怪我かどうかと痛そうかそうじゃないかというのは、案外別の話だったりする。

「いたそー……。え、どしたの。これ」

「雑巾で窓枠、乾拭きしてたら」

 このへんに、と雪松が振り返る。夕日の明かりが強すぎて見えづらいが、確かにそこに、木のささくれができていた。うっかり雑巾から指が外れたタイミングで、ブスッと刺さったのだろう。考えただけで背筋に寒気が走る。爪の間なんかに刺さった日には、どんな人間でも悲鳴を上げるに違いない。

「洗ってきなよ」

 鹿野は言った。

「それ、水で流した方がいいって。ここの水は汚かったから、外の水道で」

「でも、」

「でも?」

 純粋に疑問だった。でも。その先に何が続くのだろう。不思議に思って、雪松を見て、けれど彼女はその先を口にしない。ただ目を伏せて、「うん、そうする……」と掠れた声で呟くだけ。歩き出すときには「ごめんなさい」とおまけまでついてくる。

 そのジャージの背中が教室の戸をくぐっていくのを見送って、それからぼんやり、鹿野は思った。

 なんか、暗い子だなあ。

 やっぱりこんな薄暗い場所の清掃に立候補してくる人なんて、どこか変わっているのかもしれない。自分が言えたことではないとわかっているけれど、どうしてもそう思ってしまう。

 かといって、そんなことばかりをあんまりうだうだ考えていても気分はよくならない。切り替えていこうじゃないか。そう思って、せっかく汲んできたバケツの水に雑巾をつける。水の汚さなんていうのは、よく見ればこの雑巾だって新品ではない、ということに気付いてから急にどうでもよくなる。どこで使われていた雑巾なんだろう。トイレとかだったら普通に嫌だな、と思って、そして「あ、トイレ」と思い出す。

 その話をするのを忘れていた。「なんかヤバそうな感じがひしひしとするんですけど、本当に私たちはトイレ掃除をするんでしょうか」そういうことを、雪松に相談しようと思っていたのに。まあいい、戻ったら訊いてみよう。

 いや待て。本当に訊くのか?

 コーラを溢した跡に二時間くらいアイロンをかけたのか、というくらいに黒ずんだ染みをごしごし擦りながら、鹿野は考えた。

 本当に訊くのか?

 怪我をして、「ごめんなさい」と言いながら掃除から抜けていく子を相手に?

 二階に続く階段と違って『危ないかもしれない』みたいなわかりやすい障害がない場所を、掃除するかどうかを?

 返ってくる答えは分かり切っているんじゃないか。「当たり前だよね」「それが私たちの使命だものね」「まさかやらないつもりでいるの?」「奉仕精神が足りてないんじゃない?」「そんなことだから先生たちも毎日困ってるんだよ」そして逃げ場をなくした自分はこう言うに違いない。「はい、おっしゃるとおりです。これから贖罪の念を込めてこのトイレを素手でごしごし掃除させていただきます」

 うん、決めた。

 黙っておこう。

 この一件はとりあえず自分の胸の中にしまっておく。何か自分が自棄になるような出来事がこの一ヶ月の間に起きたら、そのときに突然打ち明けて、勢いで掃除することにしよう。もしそんな日が訪れなかったら、そのときはそのときで。

 うん。それがいい。そうしよう。

 ところで。

「……あー、落ちない!」

 もう百回以上擦っているのに、まったく汚れが落ちない。本当にこの掃除に終わりは来るのだろうか? そんな疑いが頭を過らないでもない。知らない間に自分は賽の河原にでも叩きこまれているのではないだろうか。なんだか拷問みたいな温度と湿気だし、

「――――あれ?」

 いつの間にか、窓が閉まっていた。

 さっき開けたよね、と鹿野は思う。埃が舞うし空気が汚すぎるから、と。水を汲みに行っているあいだに、雪松が閉めたのだろうか。ありえない話でもない。窓のあたりを掃除していたのなら、ガラスを拭いていた可能性だって普通にありうる。

 でも、今はいないから。換気を優先したい。

 だから鹿野は、窓辺にもう一度寄っていって。さっき自分が開けたのと同じ窓を、再び開こうとして。

「ん。あれ?」

 ネジが回らない。

 さっきはくるくると簡単に回ったネジ鍵が、まるで動かない。そういう飾りみたいに、ぴくりともしない。力はしっかり込めている。鍵を挟み込む指が白くなるくらいには、しっかりと。

「……ふんっ!」

 やっぱり開かない。壊れた? まさか。ついさっきは開いたはずなのに。ひょっとすると雪松が見かけによらない怪力で、ものすごい力でネジを締めたのかもしれない。

 そう思ったから、隣の窓に移って、そっちを開けようとした。

 開かない。

「……ほんとに壊れてる?」

 試しに窓枠を持ってガタガタ揺らそうとしてみる。建付けの問題だったらそれで上手くいくかも、と思って。結果としては、揺らすことすらできなかった。一ミリの隙間もなく嵌り込んでしまったように、窓はぴくりとも動かない。

 なんでぇ、ともう一度呟いて、仕方ないから諦めた。窓があるのもこっち側だけではない。廊下の方を開けることにしよう。ちょっと遠くはなるけれど、全く開けないよりかはずっとマシだ。

 そして、そっちも開かなかった。

 そろそろ鹿野も、これは偶然じゃないらしいぞ、と勘付き始めている。

 だって、開けようとしたところが全部、ことごとく開かないのだ。一つや二つだったら偶然で済ませるけれど、三つも四つもになれば、さすがにそれ以外の可能性を考え始める。

 元々開くようにできていなかった。あるいは経年劣化で全部揃って開かなくなった。それが最初に浮かんだ推測。けれどこれはないだろうな、とすぐに打ち消す。だって、さっきはそこまで苦もなく開けられたわけだから。

 まさか、と鹿野は思う。まさか、急激に倒壊しようとしているわけじゃあるまいな。閉ざされていた旧校舎は実はすでに耐久年数の限界を迎えた、風が吹けば崩れる砂の城のような建物で、うっかり自分たち哀れな生贄が入り込んできたばかりに急速に倒壊を始めているわけじゃ、その倒壊の予兆のために建物が軋みに軋んで窓すら開けられなくなっているわけじゃあるまいな。

 そう思ったら、怖くなってきた。

 まさか妄想だよね、と自分で自分の考えを否定するべく、辺りをきょろきょろ見回した。壁に罅が入っていたりしないだろうか。そう思って。

「…………?」

 そして、見つけた。

 歩み寄ったのは、一つの窓の手前。心当たりがあった。この旧校舎に入ってきて、伊三島に呼びつけられる前。あまりにも空気が淀んでいるからと開けたはずの、廊下の窓。

 それが今、閉まっている。

 さすがにこんなところまで雪松だって閉める理由はないだろう、と思う。教室の掃除から始めよう、と合意が取れていたのだから。極度の窓掃除好きとか、密室好きというわけでもない限り、こんな場所まで閉める必要があるとは思えない。

 じゃあ、なんで?

「…………いや、怖」

 なんだか薄気味悪くなってきた。

 自分の考え過ぎだとは思う。思うけれど、思っているだけでは恐怖は消えてくれない。とにかくここは人の気配がないし、薄汚れているし、電気も点けていないから夕日がものすごく濃い陰影を作っているし、怖がるだけの材料が多すぎる。しかも今は、雪松がいないから一人きりだ。

 そうだ、と鹿野は思う。雪松なら何か知っているだろう。訊いてみればわかる。「窓閉めた?」とか、そのくらい気軽に。戻ってきたら、いや戻ってくるよりも先に、こっちから訊きにいこう。窓が開かないと困る。それは全くその通りだと思う。夏休みが終わったからといって熱中症がこの世から消えてなくなったわけじゃない。うん、それがいい。外に出て、水道のところにいるだろう雪松に訊いてみよう。

 そう思って、昇降口まで来たのに。

「…………何、やってんの?」

 声をかけられて、彼女は驚いたように。

 そして、困ったように。

 扉を指差して、言った。


「――――開かないの。押しても、引いても」



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