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2-①



 結構珍しいことだと思う。同じ学年で、ろくに話したこともない相手というのは。

 大して人数もいない中学校だ。三クラスしかない。そのうえ一クラスしかない小学校で六年間を一緒に過ごしてきた同級生だって、それなりにいる。友達の友達は友達なんて水増し理論を採用すれば大抵の人間は友達になるし、廊下やトイレで知らない顔を見るとかえって目に留まる。そして勝手に名前を覚える。

 雪松里保。

 完全に見た目のイメージしかない。

 パッと見、背が高い。けれど近くに寄ってみると実はそれが錯覚だということがわかる。顔が小さいから高く見えるだけだ。顎のラインが冗談みたいに綺麗に出ている。お高い美容室でやってもらってそうなボブカット。目元に泣き黒子。大人びているというか、完全に大人に見える。学校指定のジャージが何かのコスプレみたいに似合っていない。そのままシンデレラの舞台に出したってそこまで違和感はないと思う。もちろん、継母たちにいじめられているシーンで。

「あ、えっと……」声は掠れて、やや低い。「どこから始める?」

 ものすごく正直な話をすると。

 一人の方がよっぽど気楽だったな、と鹿野は思っていた。

 だって、どう見てもタイプが違う。そもそもが清掃ボランティアなんかに顔を出す人間なのだ。地元の川べりを歩かされてゴミを拾わされるような、レクリエーションと大して変わらないボランティア活動とはわけが違う。自分の自由な時間を一時間、一ヶ月分捧げる、ほとんど悪魔との契約みたいな仕事なのだ。そういうものに参加してくる人間の気が知れない。自分だって、自分の気が知れない。

 内申書の点数を気にしてるんだとしたらものすごい媚の売り方だ、と思うし。

 自主的に参加しているとしたら、ほとんど異星人レベルで自分とは違う生き物だ。

「あー……。えっと、まずはここがどのくらい広いか、確かめておいた方がいいんじゃないかな。ほら、全体的に、って先生も言ってたし」

 が、もちろんそんな態度を前面に出すわけにはいかない。そのくらいの社交力は誰にでも備わっている。無難に、無難に。一ヶ月なのだ。ほとんど永遠といってもいい期間。二人きりで一時間を過ごすのだから、まず優先するべきは、息苦しくない程度の関係を築き上げること。つかず離れず、上手く距離を取っていこう。

「……うん。そうだね。じゃあちょっと、中、回ってみようか」

「うん」

 二人で一旦、教室を出た。校舎をぐるぐると周る。

 教室の数は六つだった。一階にある分だけで。加えて職員室に、校長室、保健室。それと水道の備え付けられた、元理科室らしき特別教室。階段もあったけれど、とりあえずここは、と今日はやめておくことにした。床板を踏み抜いたらとんでもないことになる予感がする。二階もやらなくちゃダメですか、と後で伊三島に聞くことにしよう。二人でそう決めた。

 そして、特にそれ以外会話もないまま、最初の教室に戻ってきた。

「……じゃあ、まあ。とりあえずこの教室から掃除します?」

 一日一箇所。そのくらいでも全然間に合うだろう、とわかった。昇降口だとか、廊下だとか、確かに多少面倒そうなところはあるけれど、それだってササッと教室の掃除を終わらせられれば、十分余裕を持って当たれるだろう。そう思って。

 鹿野の提案に、雪松は「うん」と小さく頷いた。本当に小さな声だった。天気の悪い日だったらひょっとすると聞こえなかったかもしれない。この古臭い校舎で、窓枠は風が吹きつけるたびにガタガタと揺れているし、ガラスはぴしぴしと奇妙な音を立てている。透明人間が手のひらで建物を叩いているみたいで、なんだか気味が悪かった。

 とりあえず窓を開けて、上から掃除する。はたきがあったので、二人でぽんぽんぽん、と天井近くの壁を叩く。すぐに後悔した。くしゃみ四連発。雪松も咳をした。「すごいね、これ」と鹿野は雪松を見たけれど、彼女はこちらを見ることなく、ジャージの袖で口元を押さえながら、さらに埃を散乱させていた。

 ちょっと取っつきにくい人だな、と思いながら鹿野も掃除を進めた。

 はたきが一通り終わったら、次は黒板と棚。軽く箒で掃いて、それで虫の死骸くらいはぽろぽろのけられたけれど、こびりついた汚れは落ちない。なんだかよくわからない染み。カビ。お化け屋敷じゃないんだから、と鹿野は溜息を吐いて、空っぽのバケツを手に取る。雑巾を使わなければ落ちない。雑巾で落ちてくれたら儲けもの、くらいの汚れだから。

「水汲んでくるね」

「うん」

 廊下に出ると夕焼けが広がっていた。目のおかしくなるような鮮やかな橙色がくすんだ床板を焦がしている。水道の位置もさっき確認した。六つある教室のちょうど真ん中のあたり。左右に女子トイレと男子トイレがあって――――と、そこで気付く。もしかして、トイレの中まで掃除しなくちゃいけないのか。

「うわー……。やだー……」

 どう考えてもしなくていいわけがない。ものすごく嫌な気持ちになった。トイレ。頼む。誰も使わないでいてくれ。もしもトイレという単語から想像されるとおりの汚さがここに待っているとしたら、もういっそ学校を辞めたって構わない。そのくらいの嫌さが心の中に生まれている。

 やっぱり、手なんか挙げなきゃよかった。

 水道には十近くの蛇口が並んでいる。流し台は馴染みのステンレスではない。石っぽい、ということくらいしか鹿野にはわからない。ところどころに罅割れがあって、ここで焼殺事件でもあったのかというくらいに黒ずんでいる。

 バケツを置く。もしかして出ないんじゃないか、と思いながら蛇口をひねったら、ぶぶぶ、とくぐもった音がしてからザーッと流れ始めて、ズドドドドと激しく金属バケツの底を叩き始めた。

「いっ……!?」

 ものすごく赤い水だった。

 目を疑ったし、思わず二三歩後ろに跳び跳ねた。けれどその赤い色は一瞬だけのことで、すぐに透明に変わった。一旦蛇口を捻って止める。バケツに溜まった水を眺める。まさか本当に血でも出てきてホーンテッドスクールが始まるわけじゃなかろうな、とまじまじ目を凝らす。

 ただの赤錆だった。

 アホか、私は。

 ジャッ、とその水は捨ててしまう。もう一度水を入れ直す。今度は透明……のはずなのだけれど、どことなく赤く見えなくもない。どうしよう。汚いだろうか。外の水道まで行って入れ直してこようか。それともどうせ汚れるし、と開き直ってしまってもいいのだろうか。掃除用具の中にゴム手袋はなかった。職員室に行けば貰えるだろうか。いや、でもトイレを素手で掃除させてくる時代だ。なんと軟弱な、なんて言われてかえって内申を下げられかねない。今日のところは我慢して、家にあるのを持ってきた方がいい。手袋、あとマスク。あとで忘れないように手の甲にでも書いておこう。母も父もまさか嫌とは言うまい。進学のためにあらゆる媚を売れ、と言ったのは他ならぬあの二人なのだから。

 とりあえず、水は溜め終わった。

 まあ、とりあえず今日のところはいいか。

 元々そんなに綺麗なバケツというわけでもなさそうだし、このままで持っていくことにした。雪松にそういう汚れを気にするかどうかを訊いてみて、「ふざけんなバカ」と言われたらすごすご外まで歩いていけばいいだろう。あとついでに「トイレもやるつもりありますか?」とか訊いてみよう。そう思って。

 教室まで戻ると、雪松は窓の方を向いてじっ、と立っていた。

 何をやってるんだ、と一瞬、ものすごく不気味な気持ちになる。橙を通り越して赤黒く染まり出す教室で、ほとんど身動きもしないで、背中をこちらに見せつけて。ジャージだからまだいいものの、これが制服だったりしたら三十年前に死んだ女生徒の霊か、と怯え散らかすところだった。ジャージで助かった。三十年前の女生徒の霊はおそらくジャージを着ないだろうし、仮に着ていたとしてもジャージだから大して怖くはない。

 わざと大きな音を立てて、バケツを置いた。

 ゆっくりと、雪松が振り向く。




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