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1-③



「今から帰り?」

 旧校舎という存在を、実は今まで鹿野はろくに認知していなかった。そもそもが、普段使っている校舎だって隅から隅まで把握しているか、と訊かれたらそんなでもないと思う。無駄に広いのだ。校庭の外に謎の芝生のグラウンドまで抱えていて、どこまでが敷地なのかすらよくわからないような学校なのだ。今日もグラウンドでは陸上部が走り周り、その横では伸び伸びと野球部が球を投げては打ち投げては打ち、その向こうの芝生のグラウンドではサッカー部がサッカー漫画の必殺技の練習をしたり鬼ごっこをしたり後輩に無意味な空気椅子を強いてげらげら笑ったりしている。

 旧校舎は、駐輪場から回って、体育館を通りすぎたずっと先にあると言う。東間から聞いた。にやにや笑いながら「がんばってね」なんて言ってきたのが気にかかると言えば気にかかるが、まあ、感謝。

 そして今は、その途中で呼び止められたわけになる。

 相手は、ジャージ姿だとますます男女の区別がつかないと噂の長髪の美少年。

 自転車に跨りながら同級生らしき男子たちとへらへら笑っていたのを、こっちを見つけるやいなや、パッと顔を向けて声をかけてきた。

「んじゃ一緒に帰ろうぜ」

 足で地面をてこてこ蹴りながら近付いてくる。いつ見ても信じられないほど通学ヘルメットが似合わない。学校指定のカバンも似合ってない。いっそ没落した貴族を目にしているような哀れさすら漂う。生まれる場所が違えばもっと華やかなりし人生を送れただろうに、と鹿野は思う。ここでは精々が、アイドル好きのミーハーな女子生徒たちに口ばかりのファンクラブを作られたり、同級生の友達からお前はあの俳優に顔が似てるいやあのアニメキャラだとちやほやされてその人やキャラクターの名前をあだ名にされるくらいだ。

 いつもは一緒に帰る。家が同じような方向だから。だらだら喋りながら、自転車でシャーッと坂を下って、上り坂になればすぐさま降りて歩いて、今朝ここでイタチ死んでなかった?とか言いながら家路を一緒に辿る。そういうのがいつものルーティーン。夏休み明けでも、もちろんそれは変わらない。

 はずだったけれど。

「ごめん。先帰って」

「え」

 そんなに自分に放課後の予定があるのがおかしいだろうか。班目は目を丸くして驚いている。その後ろでは男子が「フラれた」と呟く声がする。

「今日から一ヶ月、ボランティアだから」

「ゴミ拾い?」

「ううん。旧校舎の掃除」

 え、と呟いたのは班目だけではなかった。後ろの男子たちも。さっきまでどうでもいい会話をしながらこっちにバレバレの聞き耳を立てていたのが、今は違う。話を止めて、じっとこっちを見ている。

 え、となるのも、今度は鹿野の番だった。

「何?」

「いや、あれだろ? 旧校舎の清掃ボランティア。夏休み明けに希望者取られるやつ」

「そうだけど、そんなにきつい?」

「きついって言うか……」

 班目が振り返る。こっちを見ている男子に訊ねる。「あれって、去年うちの学年から誰もやってないよな?」

 え、ともう一度鹿野は呟いた。「俺の兄貴の代から誰もやってないって聞いたけど」なんて半笑いで答える男子がいれば、さらに「えぇっ?」と驚いた。

「なんで? 何かやばいの? 放課後一時間くらいって聞いたんだけど」

 それだって、自分の中では結構大きな選択だったのに。だって、一日一時間。たかが一時間などではない。まさか一時間も、なのだ。

 世の中の自分以外の人間は時間というものを甘く見ているのではないか、と鹿野は常々思っている。一日一時間だって、一生継続したら人生の二十四分の一になるのだ。社会の時間に習った「人生百年時代」なんて図々しい言葉がこれからの真実だとすれば、人生における二十四分の一というのは四年に値する。四年。四年も掃除して過ごすのか。中学校生活を優にオーバーランするだけの期間を。給料が貰えるわけでもないのに。特別な奉仕精神があるわけでもないのに。そしてこの考え方は一ヶ月というスパンにももちろん応用できる。一ヶ月、平日毎日一時間。だいたい二十時間。学校にいる時間が朝八時から夕方四時までの計八時間だと考えると、だいたい三日分。三日間、掃除だけをして過ごすのに等しいのである。しかも、普段は存在も知らないような、誰が後生大事に取っておいているんだかわからないような建物を。一体これから自分は人に媚を売るためにどれだけの時間を無償で売り渡す羽目になるんだろうと気が遠くなる思いだったが、次の内申書もボロボロだった場合に訪れる監禁生活のことを思えば、肉を斬らせて骨を断つ。浅い傷で済ませようという理性が感情を超克し、ようやく自分の中で整理をつけられた。すでに夏の塾ですべて理解した内容が並ぶ黒板を機械的にノートに写し取りながら、今日はそればかりを考えていた。

 だというのに、まだあるのか。

「やばいのかは知らないけど。たぶん、めっちゃ大変だと思うぞ」

「一日一時間でも?」

「学校って、始まりの時間はきっちりしてるけど終わりの時間はだらついてること多いからなあ……。特に放課後は」

 うんうん、と後ろで男子たちが頷いている。さすがに普段からだらだら放課後を過ごしているらしい面子が言うと説得力がある。面倒な用事を投げられて帰るのが三十分遅れたときも、班目の友達のこの男子たちは、まだ駐輪場にたむろっていた。自分のことを下校のチャイムか何かと勘違いしてるんじゃないか、と思うこともある。

「まあ、がんばれ」

 内申のために、と言いながら、班目が拳を出してくる。咄嗟にその下に手のひらを差し出すと、指が開いて、そこから水色の包装の飴玉が出てくる。「ありがと……」と言いつつ、さすがに今から口に入れるなんてことはできないから、鞄の取り出しやすいところにしまい込む。

 待ってようか、と訊かれれば、さすがに先に帰って、と答えた。





 かなりきつい。

 そういうことを、パッと感じた。旧校舎に足を踏み入れた瞬間に。昇降口で上履きに履き替えたときに、下駄箱に外靴を入れることすら躊躇った。埃の被り方に年季が入りすぎているし、蜘蛛の巣まである。うへえ。よほどでっかい蜘蛛が現在進行形で住み着いているのか、それとも太古の昔にここに張られたものが誰にも取り除かれないまま今この時まで残っているのか。どちらにしろ嫌だ。

 廊下を歩くとぎぃぎぃと音がする。鶯張りとか、そんなこじゃれたものじゃない。明らかな経年劣化。うっかり床板を踏み抜いたら膝まで埋まりそうな気がする。そしてそのまま白骨化してしまう気もする。人の気配が全くない。ほとんどお化け屋敷に近い。夏場じゃなかったらこの時間にはすっかり暗くなっているはずだし、その点ひとつ取れば今がまだ九月でよかった、という気持ちも浮かぶけれど、ずっと閉ざされていただろう建物の中に籠った熱気と湿気は噎せ返るような匂いになって鼻まで届く。

 かなりきつい。

 近くの窓をとりあえず開けながら、改めて鹿野は思う。なんとこの窓も驚くべきことに、慣れ親しんだクレセント錠ではない。それどころかフレームがアルミですらない。木製。どう開けるのかも最初はよくわからなかった。木枠の真ん中あたりに金具がついていて、そこにオルゴールの巻きネジに似た突起がぴょこんと飛び出している。ネジみたいだしネジみたいに回すのだろう、と思って回してみたら、本当にそれでよかった。棒状の鍵が飛び出してくる。がたがたと滑りの悪いそれを両手で持って、開けて、それでちょっとは空気も良くなった。

 勝手に始めてしまってもいいのだろうか。

 鹿野は辺りを見回す。そもそも、掃除道具はどうすればいいのか。まさか自分で調達、というわけではないと思うけれど――

「鹿野さんかな?」

「あ、はいっ」

 反射で返事をした。廊下の先、教室の中から顔を覗かせている人がいる。誰だっけ、と記憶を探った。廊下で見たことはある。別の学年の国語の先生。綺麗な白髪で、背が低くて、一周回ってお洒落に見えるフレームの太い黒ぶちの眼鏡をかけている。

 がたがた窓を揺らしていたから、その音で気付いてくれたのだと思う。ラッキーと思いながら、早足で近づくと、「伊三島(いみじま)です。どうぞよろしく」と深くお辞儀をされる。教員から頭を下げられる、なんて体験はなかなかないものだったから、思わず「鹿野です、よろしくお願いしますっ」と勢いよく頭を下げ返してしまって、翻った髪の毛が顔に当たった。

「それじゃあちょっと、全体の流れを説明するからね」

 伊三島は国語科の教員らしい、ほとんど平安時代からタイムスリップしてきたような穏やかな声で説明を始めた。ボランティア清掃に手を挙げてくれてありがとう。基本的に僕も職員室にいるからあまりずっとは見ていられないんだけれど、始まりのところと終わりのところだけは来るから、わからないことがあればそのときか、職員室に来るかして訊いてほしい。期間は一ヶ月ということだけれど、おそらく隅から隅まで徹底的にというのは難しいだろうから、なるべく全体的に取り組むようにしてもらえると嬉しい。掃除用具はそこに用意しておいた。もし何か必要なものがあればできる限り準備するので言ってほしい。校舎が古くなっているから、怪我なんかはしないように十分に気を付けて。危ないと思ったらそこは触れなくていいから。今年は二人も参加者がいることだし、お互いに補い合って進めてほしい。

 二人もいることだし。

 確かに、鹿野の他にも、もう一人、教室にいた。

 じゃあそういうことで、と伊三島が去っていけば、ようやくそのもう一人と、言葉を交わすことになる。

「……ども。一組の鹿野みどりです」

「三組の雪松里保、です」

 おずおずと、気まずげに。

 つまり、面識が一切なかった。




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