7-①
結局泣いた。
そして雪松が「こすると腫れちゃうよ」と教えてくれたときにはもうベッドサイドのティッシュをもらって散々目元を拭いた後だったから、明日の顔がものすごいことになるだろうことも大体確定した。
でも、すっきりした。
「あー……三年分泣いたかも……」
「私は十年分……」
雪松は、涙の跡を服の袖で乾かしながら笑った。
最初の印象とは、まるで違う顔で。
「でも、その……今度は本当に、嫌みとかじゃなくて言うんだけど、鹿野さん、もう旧校舎の掃除はやめた方がいいと思うよ」
おずおずと、怒られないかな、という口調で。
もちろん怒らない。自分だって、散々雪松に言ったことだから。危ないよ、やめた方がいいよ。そういう気遣いなら、大歓迎。
でも。
「一回来ちゃってるから……もう手遅れなんじゃないかな」
「そうなのかな。でも、旧校舎に近付かなければ……」
「でもほら、倒れた野球部の先輩。あの人とか、絶対旧校舎に近付いてないじゃん」
いや待てよ、と鹿野は思う。
班目はあのとき何と言っていたんだっけ。『そうかあ?』『あれ、なんか隠してたろ』……なんだか、今になってみると、班目の勘はほとんど当たっているような気もする。
でも、と二重否定。
「それに、私のは、家にも来たし」
「あ、やっぱりそうなんだ……」
「雪松さんも?」
「うん。一回目は家」
「やっぱり、何回も来るんだ」
「うん。あの、鹿野さんに連れられてロッカーに入ったときには、もう、一回見てた。……あのときに猿が抱えてた首、鹿野さんは見た?」
「ううん」けれど、その訊き方から想像はついた。「雪松さんだったの?」
そう、と彼女は頷く。
鹿野は思った。どれだけ怖かったことだろう。
自分とは違う。雪松はきっと、たった一人であの猿に襲われていた。班目に付き添ってもらって城川を訪ねたり、そういう下準備も何もない。投げ出そうと思えばいつでもそうできた自分と違って、もっとがんじがらめにあの場所に縛られていて、それを誰にも打ち明けずにいたのは、誰にも悟らせずにいたのは、やめずに続けようとしたことは、どれほど怖いことで、強いことで、苦しいことだったのだろう。
「もしかして、その頃私にやめろって言ったのって……」巻き込まないように?
「ううん」雪松は、羞恥と後悔の混じったような顔で、「わかんない。自分でも。だから、気にしないで」
そう言うなら、やっぱり気にしないことにするしかない。
話を続ける。
「……あれ、もしかして、雪松さんって、二回だけ?」
「え?」
「猿に襲われたのって」
うん、と戸惑ったように雪松は頷く。
もしかして、と鹿野は思った。
てっきりもう、自分だけの問題になっているのだと思っていた。あれから城川が倒れたという話は聞かないし、一度ここまで打ちのめされれば、雪松を猿が狙うことはもうないのだろうと思っていた。
笑えるくらいの楽観だった、と今では思う。
だって、どうして向こうに、命を取らない程度に手加減してやろうなんて気持ちの湧く余地があるのか。
学生同士の喧嘩でもないんだから。
行くところまで行く可能性だって、あるんじゃないか。
「……城川先輩、三回来たって言ってた。あの野球部の、倒れた人。あれが三回目だって」
「それって……」息を呑む。雪松も理解した。
つまり。
「雪松さんはあと一回、私はあと二回残ってて……」
城川が三回目、雪松が二回目で昏睡ということは。
「段々、エスカレートしてる……」
問題は、いっそう単純になった。
猿が襲ってくる。自分たちは、それから生き延びなければならない。雪松は残り一回。自分は残り二回。
状況が悪いのは、もちろん変わってはいないのだけれど。
一人じゃないと思えば、どういうわけか、呼吸は楽になる。
「なんか思いつく? 雪松さんは」
「えぇっ。そういうの、鹿野さんの方が……」
そう言われたら頭を絞る。うむむむむ、と腕を組んで、眉間にしわを寄せて。
まだ終わっていない。どこにでも出てくるから逃げ場はない。段々エスカレートする。思えば、あの猿の大きさも、初めに見たときから段々、大きくなっているように感じる。
得意技がある。
「あのさ、」
「うん」
「こっちから行かない?」
「え」
一度は良くないと思ったことではあるけれど、性格なんてそんなに簡単には直らないし、それに、場合によっては元のままの方がいいことだってある。
ここがきっとそのときだ、と鹿野は思って。
「ぶっ倒しちゃおうよ。私たちで」
悩みは、さっさと解決するに限る。




