1-②
九月一日の教室は大抵浮足立っているし、どいつもこいつも日焼けしているし、どこそこに行っただの誰それと遊んだだの明るい話題ばかりが出てくるし、とにかく居場所がない。二年一組。夏服のシャツとほとんど色の変わらないような真っ白な二の腕を引っさげて、鹿野は自分の席に座りこんだ。突っ伏した。ごん。額を机に打ちつけて、制服の下に着込んだ体操着が背中に張り付いて気持ち悪かったからちょっとだけ指でつまんだ。何が夏休み明けだ、と心の中で毒を吐く。九月の間はまだ夏だ。
「宿題やった?」
声をかけてきたのは、前の席に座っている東間だった。突っ伏した姿勢のまま、鹿野は顔だけを上げる。日焼け止めを海に投げ捨ててから南の島にホームステイでもしてきたのか、と訊きたくなるようなこんがり焼けた肌。ソフトテニス部。さぞ充実した八月を送っていただろうことは想像に難くない。にっ、と笑った唇から覗く歯が白くて、あまりにも眩しい。
「超やった」うっかり人を殺してしまいました、という声で鹿野は言った。「隅から隅まで、今なら全問正解できる」もう後戻りはできません、という声。
「それマジで言ってる?」
「マジで言ってる。たぶん私、いまこの学校で一番……」脳裏にちらっと班目の顔が過った。「二番目くらいに頭いいと思う」
「言うねえ」
「言いますよ」
東間との付き合いはそんなに長くはない。二年生に上がってから。つまり三ヶ月程度。もちろん、中学生にとっての三ヶ月というのは仲良くなるには十分長い期間だけれど。
「え、何々。マジで言ってる?」蝉の死骸を見つけた猫のような好奇心を瞳に溜めて、東間は椅子に逆向きに座る。完全に話し込む体勢。「てか何。色、白っ。どこ行ってたの? 軽井沢別荘お嬢様?」
「そう。白いワンピースを着てね……」実際には半分以上は学校指定のジャージで過ごしていた。「そして白馬に乗って……草原を駆け抜けながら……勉強をしてた」
「塾?」察しがいい。
「塾」諦めて頷いた。「超スパルタ」
えー、と感心半分、気の毒半分の苦笑いを東間は披露してくる。「まだ二年なのに? しかもみどり元々頭いいじゃん」
「人間じゃダメだー!ってお母さんがキレて脳を改造された」
「どうなった?」
「一度限りの中学二年生の夏が……終わった」
可哀想に、と言って東間が鹿野の伸ばした両手を取る。意味もなく揺らされる。あああああ、とそれに連動して嘆きの声を揺らしながら、さらに鹿野は言う。己の身に起こった不幸について。
「一日十時間だよ?」
「え?」ぱちくり、と東間は瞬きをして、「ごめん何? 怖すぎてよく聞こえなかった」
「一日十時間」
「一インチハンディカム?」
「え、すご」驚いた顔で。「今の韻踏めてない? 東間、ラッパーになった方がいいよ」
特にそれには取り合わないで、
「いや何、一日十時間って。塾にいた時間がってこと?」
「休憩時間含めないで、純粋な勉強時間が。朝八時からスタートして、夜八時に終わり」
「中世ヨーロッパの処刑法?」と東間が訊いてくるのに「そうです」と答えながら、あの残虐な時間のことを思い出して鹿野は背中に鳥肌を立てている。あの異常な空間。朝八時のちょっくらラジオ体操でも始めてやろうか、という爽やかな時間帯からエアコンのガンガンに効いた部屋で始まる授業。黒板を叩く音。誰一人として眠らない他の塾生たち。やたらにピカピカな机。昼休みが来て近くのコンビニにぞろぞろと歩き出す青少年の群れ。泣き喚く蝉。埋まりきった駐輪場。小学生たちが爆速のチャリンコで歩道を走り抜けていく。机の上でシャーペンの匂いを嗅ぎながら食べた総菜パン。午後からの授業。ひたすらに空腹。トイレに行くためだけの休み時間。ペン回しをしているだけでやたらにキレる塾講師。誰も喋らない成績上位者クラス。今ごろ他のみんなはもっと楽しいことしてるんだろうなあとか、こんなことをしてるくらいなら水質調査キット片手にそのへんの川にばしゃばしゃ入っていって模造紙に自由研究でもまとめていた方が百倍楽しいとか、ひょっとするとこれからの人生ってこういう時間の連続なのかとか、そういうことを思って虚しくなっていた自分。
得るものがなかったとは言わないが、もう一度やりたくはない。
「私、決めたんだよね」
だからきっぱり、東間に宣言しておくことにした。
「何を?」
「二学期は媚売って内申めっちゃ上げる」
「今さら?」
かなり刺さった。
もう一度ごん、と額を机にぶつけると、「うそうそうそ。ごめんごめんごめん」と東間が肩に触れてくる。「信じればきっと、夢は叶うよ」完全に馬鹿にしにきている。
「私だってやりたくないけどさ~! お母さんめっちゃキレるんだもん~!」
「かわいそうに」
元気を出すがよい、東間に頭を撫でられれば、ちょうど予鈴が鳴った。担任の荻がクールビズのポロシャツのままで教室に入ってくる。何度見てもあれはずるい、なら制服もポロシャツ可にしろと思いながら鹿野は席に座る。すでに東間は前に向き直っている。ホームルームが始まる。
心底嫌だな、と鹿野は思っていた。もちろん、媚を売るのが。えへえへへと笑って揉み手して、別に尊敬も何もしていない相手に下手に出るのが。
でも、そうするしかないと、わかってもいる。
だって、割に合わない。
たかだか一つの質問に本音を見せたくらいで夏休みを丸ごと潰されるのは、どう考えても罪と罰の重さが合っていない。ラスコーリニコフみたいに殺人でも犯したというならまだわかる。でもこっちは、質問にイエスで答えただけなのだ。それでこんな不利益を被る道理は、どう考えても、ない。
そんな質問をしてくる方が悪いとすら思う。相手に回答の自由を与えたくないなら、初めから命令で伝えればいいのだ。あたかも相手に選択の権利を与えたように見せかけてその実ただ思い通りにしたいだけ、という小賢しさが本当に気に入らない。小賢しい人間の小賢しい行いのためにどうして十三歳の貴重な時間を奪われなくちゃいけないのか。この国の大人たちは子どもの未来を潰すことに生きがいを感じているのか。とにかく疑問は尽きないが、どうせ何を言っても通じないか、より状況が悪くなっていく一方に決まっている。
だったら、我慢するしかない。
『自分のやりたいようにしようと思ったら、何かは犠牲にしなくちゃなんねーの』と班目が言ったとおりだ。その逆も然りで、何かを犠牲にしたくないなら、自分のやりたくないことをしなくちゃならない。
そのことは、いくらなんでもわかっているのだ。
「まあそんなところで、お前らももう二学期なんだから、来年は最高学年になるって自覚を持って過ごすように」
荻がぺらぺらと「地域住民のみなさんもお前たちの行動をよく見ている」と監視型ディストピア世界にありがちな台詞を吐いているのを背筋を伸ばして聞きながら、そんな悲しい諦めに鹿野は襲われていた。これからずっとこんな風に、背筋を伸ばしてつまらない話を聞かなければならないのかもしれない。校長先生のお話みたいな地球温暖化以外に何の効果があるのかよくわからない行事すらきっちり起きていなければならないのかもしれない。そんな不毛な人生は自分の代わりに人工知能にでもやってもらいたい。
「それから、最後に。ボランティアの募集がある」
教室中の生徒たちの目線が上がった。珍しいことだったから。ほとんど定型文と化した説教と、お決まりの連絡事項以外の話がホームルームで出されるのは。
「毎年、旧校舎の清掃を二年生の中から募ってる。毎日放課後に一時間程度、一ヶ月」
ほとんど全員が目を伏せた。当然のことだった。誰がそんなことをするか、という空気が教室に満ちている。それを荻は厳しい目で見ている。
「言っておくが、お前たちの先輩たちはみんな、自分から進んでやったんだぞ」
そして独りよがりに話し出す。ついさっき最高学年になるのに相応しい自覚を持てという話をしたのになんなんだお前らは情けない。自分たちの使う学校くらい自分たちの手で綺麗にしようとは思わんのか。お前たちほど奉仕精神に欠けたクラスは初めて見る。俺が前に受け持っていたクラスではこの話をしたらみんな僕が私がやりたいやりたいと言ってきかなかったぞ。なんて情けないんだ。お前たちだけだそんなのは――――
「はい」
ぴしっ、と一本、手が挙がっていた。
「それ、私、やります」
驚愕の表情で、教室中がその手の主を見ていた。なんなら荻ですら同じような目線で見ていたし、事前に予測できていたらしい東間だけが、机に突っ伏して、肩を震わせて笑っている。
いつまで経っても荻がうんともすんとも言わないので、改めてもう一度、手をぴん、と伸ばしたまま、言った。
「鹿野みどり。旧校舎清掃ボランティア、やります」
内申書のために、という部分だけは、綺麗に胸の中に飲み込んだ。