4-③
「掃除もしないで、何をしてたんですか」
気圧された。
教室に戻って一歩目、いきなり雪松から飛んできたのが叱責の声だったから。
「何、って」時計を見る。まだいつもの開始時間より少し前だけれど、「ちょっと、この間のところを見て来ただけなんだけど」
「その人と一緒にですか」冷ややかな目で雪松が班目を見る。
班目は何も気にした様子はないけれど、もちろん鹿野は落ち着かない。こっちはついてきてもらったのだ。それでこんな風に邪険に扱われたら、やっぱり申し訳ない。
「私が来て、って頼んだんだよ」
「なんなんですか」掠れる、低い声で。「遊びに来たんだったら、早く帰ってください。邪魔です」
「ちょっと、」
いくらなんでも、と思った。
「あのさ、雪松さんだって見たでしょ? この校舎に、変な猿がいるところ」
「まだそんなこと言ってるんですか?」
「まだそんな、って。何も終わってないでしょ、その話は」
きっ、と雪松の目が鹿野を刺す。「馬鹿なことを言ってないで、ちゃんとやることをやってください。ここを遊び場にしたいって言うだけなら迷惑です。出ていって」
「んな――――」
「あーあー、わかったわかった!」
二人の間に、班目が割り込んだ。「出てくよ。邪魔して悪かったな」そう言って、すたすたと教室を出て行ってしまう。
追いかけた。さすがに、来てもらっておいてこの終わり方はあまりにもひどいと思ったから。
けれど追い付いても、「いいって、」と班目は言うだけで、
「あれ、なんかキレてるだろ。今日はやめとくよ」
「でも、」
「またタイミング見計らうよ。毎日出るってわけじゃないんだろ? 俺のことは気にしなくていいから、掃除に戻れって」
あんまり気まずくても嫌だろ、と言って去っていく。
もちろん、あんまりにも気まずい状態で、鹿野は雪松のいる教室に入っていく羽目になる。
向こうはこっちを見もしない。わざとらしいくらいに背中を向けて、いかにも「私は一生懸命掃除をしていますよ」というポーズを取っている。
腹が立った。
「あのさ、何、今の」
「…………」
だんまりで、だから、鹿野ばかりが喋ることになる。
「雪松さん、変だって思わないの? ここのこと」
「……掃除をしてください」
「するよ。するけどさ、ここが変だってこと、わかるでしょ?」
わからないはずはない、と思う。自分と一度、完全に同じ体験をしているのだ。城川の姿は見ていなかったかもしれないけれど、それでもあの体験の直後に学校に救急車が来た、ということくらいは確実に認識している。
だったら、おかしいと思うはずで。
そんな風に、内申書目当ての掃除なんかをしている場合じゃないと、わかるはずなのに。
「そうやって人を怖がらせて、楽しいですか?」
「……は?」
「私、ここには鹿野さんとお喋りするために来たわけじゃありませんから。黙ってられないなら、そのうえ何もしないなら、帰ってください。そこで立っているだけで、私がやったことにタダ乗りして内申点を上げようって言うなら、本当に迷惑です」
「な――――」
絶句して、
「伊三島先生にも言いますから。鹿野さんはろくに掃除してないって」
「ちょっと待ってよ」
「嫌なら真面目にやってください」
ところで。
鹿野は小学生のころ、運動会の練習中に「嫌なら帰れ」と言われて、本当に家まで帰ったことがある。
「――――ああ、そう。もういい」
カバンを引っ掴んだ。
ここまで班目を振り回したのにこんな終わり方はあんまりだ、と思う。ボランティアに手を挙げて途中で投げ出したなんていうのは手を挙げなかったのよりももっと性質が悪い。今度の内申書は今以上にボロボロになるに決まっている。テストの採点もノートの採点ももっと悪くなって、平均点だって割るようになるかもしれない。母は怒り狂って、父も呆れ果てて、家族仲がものすごく悪くなって高校にも行けなくなって就職もできなくて中学も卒業できなくて財布の中に残ったお小遣いで行けるところまで行ってそこで飛び降り自殺でもしなくちゃいけなくなるかもしれない。
知ったことか。
「勝手に言えば」
教室を飛び出した。
ずんずんずんずん、馬鹿みたいな大股で進む。もう知るか。何もかも。なんで尊敬も何もできない人間から好かれるためにこんなことをしなくちゃいけないんだ。こんなことを言われなくちゃいけないんだ。自分だって自分なりに一生懸命やってる。やれと言われたら一日十時間だって十二時間だって勉強してやってる。なのに漢字のトメハネハライだとか、大して勉強もしてこなかったような教員が自信満々に語る全然使えない『俺の考えた解き方』だとか、そんなのをノートに書いてるか書いてないかで全部が決められるのか。人の言うことを聞いて、情けなく頭を下げて、可愛がってもらうために生まれてきた子犬みたいに腹を見せなければこの世のどこにも居場所はなくなるのか。
ふざけんな。
「んの……っ!」
玄関まで来た。勢いよく扉を開けようとして。
開かない。
すうっ、と頭が冷えた。
「は――――?」
扉にしっかり指をかけているのに、びくともしない。
こんなことが、つい最近、一度あった。
「嘘でしょ」
なんで、と呟く声はもうか細い。どうやっても動かない。蹴っ飛ばしてみても何も変わらない。ガラスを拳で叩いても。何も。何も変わらない。
閉じ込められている。
「誰か!」
扉を叩く。けれど、これだって無駄なことを鹿野はわかっている。あのとき。外からやってきた伊三島の姿は鹿野には見えていなかったし、その逆も。
もう、外には声は届かない。
「今、何時……?」
また待つしかないのか。班目は帰ってしまった。伊三島が来るまではあと五十分は見なくちゃいけない。その間、ずっとここで待つのか?
猿の声がした。
「ひ――――」
キャキャキャキャ、と。
奇妙な声だった。猿だ、と鹿野が思った理由は、それ以外に考えられなかったから。かかりの悪い車のエンジンを回したときのような、甲高い、擦れた音。
嗤っている。
玄関の、向かって右側。階段の方から、聞こえてきている。
隠れなきゃ、と思った。
「どこに――――」
昇降口に隠れる場所はほとんどない。やけに下駄箱の背が低いから、簡単に見つかってしまう。
ここにはいられない。
飛び出した。
廊下を走る。足音が立つのはある程度仕方ないと割り切る。奥の方へ進む、その途中で、
「雪松さんっ」
「は、」
「来てっ」
説明してる時間はない。手首を取って、走り出す。階段に一番遠いのは、廊下の先を折れて、さらに向こう。理科室。そこを目指して駆けていく。
「な、なんなのっ!」
「静かにっ、来てるっ」
「来てるって、何が、」
ばたん、と扉の閉じた音が、廊下の向こうから聞こえた。
その瞬間、角を折れる。後ろを振り向く余裕はない。このまま走り続けるしかない。
「今の――」雪松が後ろを気にしている。躓きかける。それを無理やり鹿野が引っ張る。「急いでっ」
理科室の扉を開けた。「どこかに隠れてっ」後ろ手に閉める。つっかえ棒になるものがないかを探している。
「隠れて、って――」雪松が困惑している間に掃除用具入れを見つけた。開ける。開かない。でも、ただ歪んでいるだけだから思いきり二度三度と引っ張れば、ようやく「ここっ、使えるからっ」中にあった箒を入り口にかける。随分ボロい。あまり期待はできない。
「鹿野さんは、」
「いいから入って!」雪松を無理やり押し込めて用具入れの扉を閉める。自分も隠れなきゃいけない。どこに――戸棚!
上の段はガラス窓、下の段は木板で囲われている。下を開く。よかった。実験器具は全部抜き取られていて、人一人くらいが入れるスペースはある。身体を折り畳む。なんとか内側から閉める。真っ暗にならないのは、ところどころに穴が開いて、そこから赤黒い夕日が差し込んでいるからだった。
ガタガタと、理科室の扉が揺れる音がする。ばきっ、という音を最後に、がらりと開く。ぺた、ぺた、と足音が近付いてくる。それが、のぞき穴に目をつければ、見える。
猿だった。
生首を抱えた、真っ黒な毛並みの、大きな猿。
どう考えてもこんな校舎にいるのは相応しくない、大型の猿。恐怖からか、この前に見たときよりも大きくなっているようにすら見える。
きょろきょろと、猿は辺りを見回しながら歩いていた。探している。自分たちを。
どうか、と思う。お祈りのポーズまでしてしまう。黴臭い、地下室みたいな戸棚の中で、必死に願ってしまう。どうか見つかりませんように。
猿は、掃除用具入れの前に立った。
息が止まりそうになる。逆にすればよかった、と思う。自分が無理やり入れたせいだ。猿の手が用具入れに伸びる。もう鹿野は飛び出す準備をしている。
がたがたがた、と。猿はそれを揺らした。
汗が、鹿野のこめかみから顎に伝って落ちる。おかしくなりそうな温度と湿度。緊張。息が荒くなる。倒れそうになる。
猿は、結局それだけで、用具入れの前を通りすぎた。
ほっ、と胸を撫で下ろした。よかった。雪松はものすごく怖かっただろうけど、怖かっただけで済んだ。
猿が扉を見ている。折れた箒を。ひょっとすると、と鹿野は思った。あの抑えはしない方がよかったのかもしれない。あれじゃ中にいると伝えているようなものだ。でも、猿にそこまでの知能がない可能性だって十分にあるわけだし。頼む、何も気づかないでいてくれ。必死で祈って、祈りは通じて、
猿が、理科室から出ていく。
そして、何かに気付いたように戻ってきた。
嘘でしょ、と叫びたくなる。歩みは一直線。迷いがない。明らかに目的地を決めている。
鹿野がいる戸棚に、まっすぐに向かってきている。
止まれ、と念じる。帰れ、と祈る。止まりもしないし帰らない。鹿野が入っている棚列の、一番端に手をかける。
がらっ、と勢いよく開いた。
どうしようどうしようどうしよう。猿は近付いてくる。もうこの角度からは見えないけれど、棚を覗きこんでいる気配がする。ロッカーは開けなかったのになんでこっちは開けるんだよ、と恨み言を言いたくなる。どうしよう。中から押さえてみる? この体勢じゃろくに力が入らない。隣の棚が開く音。そもそも猿を相手に力比べなんてできない。
棚の中が暗くなるのは、光を遮る何かが目の前に立ったから。
終わった。
キャキャ、と嗤い声がして。
扉が、開いて。
「――――あれ?」
何も、なかった。
どういうわけか。咄嗟に目を閉じて、開いて、そうしたら、何もいなかった。
幻だった? いやまさか。あんなにはっきりしたものが、ありえない。戸棚から出る。辺りを見回す。でも、やっぱりどこにも猿の姿はない。
「雪松さん」
呼び掛けた。出てこないから、こっちから開けてやった。それだけで雪松は可哀想なくらいに怯えて、けれど目の前にいるのが猿ではないとわかっただろう瞬間には、すごく小さな子どものような、安心しきった表情を見せて、なのに、結局。
また、険しい顔に戻って。
信じられないことを言う。
「――――私、やめない、から」




