1-①
本当だったら、たのしいたのしい、中学二年生の夏休みだったはずなのだ。
八月三十一日。失われたものはもう二度と戻ってこないことを知りながら、あるいは知っていてこそ、鹿野みどりは後悔せずにはいられない。この夏の思い出。それは勉強、勉強、勉強で、ついでに言うなら勉強と、さらに付け足して言うなら勉強。あの輝かしい夏の青空を見つめていた時間よりも、「お前は自分の役割がわかっているのか」と問い詰めたくなるような信じられない低速度でチックタックと時を刻む学習塾の壁時計に恨みのこもった視線をぶつけていた時間の方がずっと長い。日焼け止めの要らない夏だった。今だって、半袖を少しめくってみても何も変わらない。真っ白。信じられないほどに。その代わりにまるで自分の人生に喜びを与えてくれないだろう夏休みの宿題だけはびっしり真っ黒に埋まっている。
どう考えてもあれがいけなかったのだ、と鹿野は思っている。夏休みの二週間前。例の英語教師の大山。あれとの会話がいけなかった。だって、それ以外に原因が思いつかない。そうじゃなかったら、運動は中の上、勉強は上の中、友達付き合いだってそれなりの自分の内申書があんなに悲惨なことになるはずがない。
ノート課題、というものがある。
内容はその名の通り。授業を受けて、そのノートを取る。それを担当教員に提出して、その出来を評価されるというものだ。他の学校でやっているのかどうかは鹿野の知ったことではないけれど、少なくとも彼女の通う中学校ではほとんどすべての教科で実施されている。
馬鹿らしい、とは思っていた。大体、『baseball』という単語を習ったときわざわざその横に『野球』だなんて訳語を書くことに一体何の意味があるというのか。『milk』の横に『牛乳』と書く意味。『blue』の横に『青』と書く意味。そんなことに時間を費やすくらいなら音読でも綴りの反復でも何でもしていた方がよっぽど有意義だと思う。挙句の果てに『pen』の横の『ペン』に赤字で『ボールペンです』なんて書かれてバツ印を付けられた日には、いっそ世界を滅ぼしてしまおうかとすら思う。
今でも覚えているが、『respect』という単語だった。本来は中学二年で習う単語ではない。たまたま教科書の長文に顔を出してきた、おそらくテストには出てこないだろう単語。けれどカタカナで『リスペクト』と聞けばもうすっかり日本語に混じりこんだものだし、簡単に意味はわかる。『尊敬する』。一応辞書まで引いた。すると『尊重する』という意味まで見つかった。へえ。そのまま下まで見ていくとさらに面白い。『注意、関心』『点、箇所』。派生語の『respective』までいけば『それぞれの』なんてものまで出てくる。よくもまあこんなに広い守備範囲を、なんて思っていたらうっかり気を取られて『尊重する』の方でノートを埋めてしまった。
それが悲劇のきっかけ。
ノート返却の時間。大山はわざわざ鹿野のノートを掴んで離さないまま、嫌みったらしく言ったのである。
「お前、俺の授業聞いてんのか?」
「聞いてますけど……」
「聞いてたらこんなこと普通書かないだろ」
広げられたノートの『尊重する』の部分。『重』の字にはいっそ病的なくらいぐしゃぐしゃに赤い取り消し線が引かれていて、その横に再生紙を古代の石板か何かと勘違いしていそうなとんでもない筆圧で『敬』の字が書きこまれていた。ほとんど呪いにすら見えた。
「はあ、すみません」
謝ったのは、自分が悪いと思ったからではなかった。謝っておかないと面倒なことになるとわかっていたから。ただでさえ大山には目をつけられている。その自覚はあった。明らかにクラスメイトたちに比べて自分のノート評定は低い。ほとんど同じ内容を書いた友達が十点中八点もらっているのに自分は六点、ひどいときには五点なんてこともある。それがわかっていたから手早く済ませようと思ったのに、大山はそれを認めなかった。
「なんだ、その面倒くさそうな言い方は」
「すみません」咄嗟に背筋を伸ばして謝った。無意味だった。
だいたいが、と大山は言った。「お前からはやる気というものが感じられん」
そのとき、教室中の人間が自分を見ていることもわかった。あーあ、絡まれてら。そういう空気。もしくは、何やってんだよ空気悪くすんなよ。そういう雰囲気。それが背中に突き刺さっていた。省エネ主義をこじらせた教職員一同によって設定された二十八度の古臭いエアコンはまるで意味がなくて、べたつくような汗もかいていた。
「英語なんか将来の役に立たないと思ってるんだろ。そういう考えが甘いんだ」
「そんなことはないですけど……」
「そうじゃなかったらなんでこんな間違いだらけのノートになるんだ。ん?」大山が顔を近付けてくる。嫌がって遠ざかる。それがさらに癇に障ったらしく、さらに表情が険しくなる。
そしてとうとう、大山は言った。
「英語じゃなくて、俺の授業に興味がないってわけか?」
そして鹿野は、ついこんな風に言ってしまった。
「まあ、はい……」
△
あはははは、と班目律が笑うので、あははははじゃないんだよ、と鹿野は唇を尖らせている。金属バットは握ったまま。他人事だと思いやがって、と不平不満が胸の中。
「ねえ、早く次投げてよー」
「いや待って……笑っちゃって……」
鹿野の住む町は田舎の例に洩れず深刻な過疎化が進んでいる。四つの小学校も二つの中学校もいずれそれぞれ一つずつに統合されることがすでに決定していて、道を歩いて子どもを一人見つける前に四人の老人とすれ違う。そんなごくごくありきたりな、墓場に片足突っ込んだ町。けれどそんな寂れた町にもいいところは間違いなくあって、たとえば今、鹿野と班目の二人が立っているような広大な空き地を、ほとんど誰に憚ることもなくボール遊びの場として存分に使うことができる。九人制の守備を敷いても外野の後ろにまだまだ距離のあるような広さで、しかもその空き地の周囲も草むら。松尾芭蕉が見たら思わず一句読んでしまうだろう壮大さで夏草が生い茂るばかり。だから、二人だけで使うなら、少なくともバッティングが上手くいきすぎて近隣の家屋を破壊してしまうかも、なんて心配をする必要はまったくない。バッティングセンター代わりに使ってストレス解消するのに絶好の場所。
だから、さっさと投げてほしいのに。
「ねえー。いつまで笑ってんの?」
「ごめ、ツボ入った……!」
班目はずっと笑っていた。肩甲骨まであるような長い髪で、えくぼがあって、制服を着ていないときはほとんど女の子に見える。というか、完全に女の子に見える。自分より可愛いかもしれない、とすら鹿野は思っていて、時間の経過とともに『かもしれない』の部分に託された自分のプライドが音を立てて崩れ落ちていくのを感じている。夏休み中ほとんど一回も顔を合わせなかったから、今日はなおさらだった。髪のキューティクルに夕日のオレンジが輝いているのなんかを見ると、ほとんど天使と言ってすら差支えがない。
グローブを嵌めた手で腹をぽん、と叩くと、班目は「失礼しました」と急にキリっとした顔でピッチングフォームに入ってくれる。ところどころに「ふふっ……ぐっ……」と笑い声が混じっているのを鹿野は聞き逃せない。それを咎める気持ちが一割。残りの九割は己の身の不遇を嘆く気持ちを発散するつもりで、彼の放った白球にスイングを合わせる。ぼこん。
ぼてぼてのゴロを、班目は簡単に捕球した。少年野球で多少鍛えられたらしい動きは、野球とほとんど縁のない生活を送っていても、まるで衰える気配がない。ボールをまた、長く細い指で握る。
「それ、マジで言ったの?」振りかぶる。
「言っちゃった」バットを長めに、強く握る。
「どうなった?」投げる。
「C!」振り抜く。後ろの壁にボールが当たる音。空振り。肩を落として。「関心・意欲・態度が……」
ボールを投げ返すと、それをキャッチして班目が言う。
「んじゃ内申書ボロボロ?」
「見るに堪えない。ていうか、英語だけじゃなくて他の教科もなんでか軒並み……」
「そりゃそうだろ」
「なんで?」
「あの項目、職員室で全教科すり合わせて作ってるから」
「え」
なんでそんなこと知ってんの、と訊く前にもう一球飛んでくる。かろうじて当てる。ぼこん。またボテボテのゴロになって、班目はそれがコロコロと自分の足元まで転がってくるのを待っている。
「もしかしてそれ、常識?」
「いや、俺も三年になってから聞いた」
鹿野と班目は小学生の頃からの仲で、幼馴染といえば幼馴染だけれど、学年は一つ異なる。班目の方が一つ上。だから、案外鹿野の知らないようなことを平然と知っていることもある。
「えー。早く言ってよ」
「早く訊けよ」
「知らないことは訊きようがない、じゃんっ!」今度はそれなりに当たった。けれどその打球も班目は「よっ」と軽い調子でグローブの中に収めてしまう。
「…………やばいかな」
不安になって、鹿野は訊いた。
「お母さんにもめっちゃ怒られたんだけど。『あんた、こんなんでどこの学校行くつもりなの』って」
「私立なら別にそんな内申関係ないぞ」
「簡単に言わないでよ~。お金かかるし……」
「特待取ればいいじゃん」
「ねえ、公立が内申書で三割決まるってほんと?」
「場所によっては四割」
「そんなの推薦だけでいいじゃーん!」
「割と同感」
班目が振りかぶる。投げる。空振り。はーあ、と肩を落とす。今日は当たらん。やってられん。
「内申書とか、消えてなくなればいいのに……。おかしいと思わない?」
同意を求めつつボールを投げ返すと、まあな、と班目はそれを捕って言う。
「でもほら、学校は『テストの一発勝負なんかじゃなくて、我々が生徒を三年間見てきて下した、その評価をもっと信じてください!』ってことらしいぜ」
馬鹿馬鹿しい、と鹿野は思う。テストの一発勝負で何がいけないというのか。人間性が見たいなら推薦、それ以外は一般受験でいいじゃないか。学力以外に一体何を基準にして生徒の能力を測るつもりなのか。だいたい大山みたいな教師に当たったら、そのためだけにへーこら頭を下げ続けなくてはならないというのか。それはあまりにも人を馬鹿にした話なんじゃないのか。
「お母さんがもう、怒り狂ってさー。一日十時間だよ? 夏期講習。やりすぎやりすぎ。頭おかしくなるかと思った」
「一日十時間も勉強することあるか? 中学の範囲で」
「いや、なんか中学の範囲全部やらされた……」
あはは、と班目は笑う。めっちゃスパルタのところ入れられてるじゃん。
でもさ、と鹿野は口を尖らせて、
「内申書って、中学三年間のやつ全部使うんでしょ?」
「よく知ってんじゃん」
「じゃあさ、これから頑張ったって別に意味なくない? どうせ挽回できないじゃん」
「こっからずっとオール5にすればいい」投げる。
「しんどすぎ」振る。当たる。「副教科もでしょ? 家庭科とか」
「そうそう」キャッチ。「がんばれ。完璧超人になるんだ」
むりー、と鹿野は、バットを杖にして屈みこむ。あー、と額をその柄の部分に押し当てて、
「お母さんもお父さんも、『二学期からは頑張って媚び売っていけよ』とか言ってさー」
「まあ、作戦の一つだよな」
「超、嫌」
「仕方ない、仕方ない」
「仕方ないことある?」
ちら、と顔を上げれば、班目はボールを持て余したように手の中で遊ばせていた。夕陽が右の顔から当たっている。ゆるやかな秋風に髪の毛が揺れている。そして、もう一度言う。仕方ない。
「自分のやりたいようにしようと思ったら、何かは犠牲にしなくちゃなんねーの。いい高校行きたいと思ったら、内申書を上げるために、嫌いなやつに媚び売るか。それとも親に頼んでそういうのが関係ない私立を受けさせてもらうか」
「内申書とか関係ないくらい本番で点数獲るとか、無理?」
「他の中学のオール5のやつらに大差つけられる自信があるならオススメだな」
「満点獲れなきゃダメっすか?」
「少なくとも狙うくらいじゃなくちゃな」ピッチングフォームに入る。「じゃ、ストレスも発散できたところで、帰ってひいこら勉強しとけ」
「まだ全然なんだけど」
「これだけ打って愚痴ってまだ全然なら、この方法じゃもうどうにもならないってこった。諦めろ」
「えー……」
「俺も受験生だからなー」
あらららら、と鹿野は慌てて立ち上がる。構える。「お忙しいところ大変申し訳ございませんでした」
「いいよ」と班目は笑う。「お前とたまにこれやらないと、身体が鈍ってしょうがないし」
じゃあ最後はちゃんと行くぞ、と班目が言う。鹿野も、これまでも真剣だったけれど、さらに気合を入れる。
なにせ、賭けなのである。
最後の一球勝負。もう五年近く続けている。最後の一球で、班目が勝ったら鹿野から班目に百円を渡す。逆なら千円。十球に一球当てるだけで帳尻は合うはずだけれど、残念ながらこれまで散々負け越している。
でも、今日こそは。
すー、と細く班目が息を吐く。吸う。大きな瞳で、ストライクゾーンを見つめて、振りかぶって。
びゅん、と白球が飛んでくる。
「――――とりゃ!」
気合一発。
本当に見事な、空振りだった。
「…………ストレス、めっちゃ溜まっちゃった」
ぽんぽんぽん、と壁から跳ね返ってバウンドする野球ボール。鹿野ががっくり肩を落とすと、これでおしまい、とばかりにグローブを外した班目が近付いてきて、それを拾う。
「スイングが早すぎなんだって」
いつも言ってるけど、と班目は、
「打とう打とうって気持ちだけがあって、全然ボール見てないからあんな空振りするわけ。もっと、引き付けて打つんだよ」
「言うのは簡単だよね」
「お、じゃあ逆でやるか?」
そのときは千円な、と笑われれば、もう勘弁してください、としか言えなくなる。
「はい、じゃあバッティングセンター代」
班目が手を出すのに、ポケットの中に入れてきた百円を乗せる。そもそも、と鹿野は思わないでもない。初めからこんなものを準備しているような負け犬根性がダメなんじゃないだろうか。今度はいっそ、一文無し状態で来てみようか。案外そっちの方が勝てるのかもしれない。
引き付けて打つ、ねえ。
「あー! なんも上手くいかなーい!」
「そういう日もあるさ」
ぽんぽん、と班目に背中を叩かれて、それがたったいま私をボコボコにしたやつの言うことか、と思いつつ、でも受験生なのに付き合ってくれてるんだよなという気持ちは「先輩、ありがとうございますっ」とやけっぱちな言葉に変換されて。
夕日が沈む。真っ青な夜が、東の空から滲み始めている。
夏休み最後の日。
明日から、また学校だ。