絶望に効く薬
「残念だけど、君の病は治るようなものじゃない」
医者にそう言われて、私は一体何を思ったのだったか。
少なくとも、悲嘆に暮れることはなかったことを記憶している。
「良いニュースだ、君の病は治るかもしれない」
そう言われたとき、私は何を思ったのか。
少なくとも、その感情が憤怒に類するものだったことだけは覚えている。
けれど、そんな感情を出すわけにはいかず、心のうちへと抑え込み、代わりに空っぽな喜びの言葉を吐けていたはずだ。
そして、病を治す手段である薬が、目の前にある。
世界中で1分間に1人は死んでいるという病を治す薬が、目の前にある。
飲めば楽になれる。
病室に入れられて、数年間。
辛い闘病生活に終止符を打てる薬がそこにある。
永く暗いトンネルの出口が、目の前にある。
だというのに、だ。
この病を治すことを躊躇している私がいる。
その薬は高価だ。
もしかしたら欲しくても手が届かない人がいるかもしれない貴重な薬を、私が使っても良いのか。
現代医学の叡智の結晶とも言える稀少な薬を私如きが使っても良いのだろうか。
使うことで社会の役に立てるようになる人に使うべきなのではないだろうか。
そんな考えに囚われて、同意書へのサインを躊躇っている。
目の前の医者はさっさとサインしろよ、と言っているように思える。
「君はこの先の人生を手にすることができるんだ。遊ぶことも、夢を追いかけることも、君次第だ」
医者の隣の男が言った。
いいや、嘘だ。わかっている。
その薬を使うわけにはいかない。
窓に一瞬視線を向ける。
「先生、その薬に副作用は、ないんですか…?」
「適量の投薬ならばないと言えるだろう、君の場合だと」
そう言って手元の資料に周りの視線が集まった瞬間。
私は駆け出した。
窓までは2メートル。
一瞬、部屋にいたすべての人が呆気にとられる。
そして、慌てて私を抑えようと駆け出す。
後ろから制止の声が叫ばれている。
あと少し、もう少し。
生きたい、という嘘を吐く自分から逃げた。
死ぬ理由を外に偽った自分から逃げた。
一度、躓けば元に戻るのは困難な社会から逃げた。
私のためと嘘をつく周りの人たちから逃げた。
逃げて、逃げて、逃げて。
そして、ついに私は逃げ切った。
数秒も残ってない人生の中で、最も達成感に包まれたのは、この瞬間だ。
時よ、止まれ。汝は美しい。などと言うまでもなく、最高の瞬間に死ねるのだ。
あとは、何か思い残すことはあったか、とそこまで考えたところで私は死んだ。