第4話 『衝撃』
「――――ん」
深い眠りから覚めた独特な感覚。プールの奥底を彷徨った後、水の面からそっと顔を出したような感じだ。頭が重く鬱陶しい。
「………?」
意識を取り戻したタツキが、まず目にしたものは天井だった。まだ上手く繋がらない思考回路で、ぼんやりと考えを巡らす。
自分は今、あれほど霧を抜け出して室内に避難できている。どうやら助けて(?)もらい、ベッドに寝かされるというおきまりのパターンらしい。
部屋の中なら、危険種や悪天候に怯えずに済む。そう思うことでやっと警戒を解くことができ、ほっと息をついた。緊張の糸を張り続けるのは疲れる。
体を包みこむ毛布の温もりが、タツキの心をほぐす助けになっていた。
「あ〜、ぬくぬくはマジで偉大だぜ……」
顔を緩けながら、人様の寝室を堪能する。
サイズはダブルベッドに達するほど大きく、体が簡単に沈みこむ。何度か体を沈めては浮き上がらせる感覚を楽しみ、ふと部屋の中を見渡した。
一般市民のタツキでも高価だと分かるような物が、視界一面にずらりと並んでいる。どこかの金持ちの屋敷なのだろうか。
「……ふぁ」
心地よい温かさに考えることを溶け込ませたタツキは、眠気に負けて再び毛布に潜り込む。
ーーーだが、印象強いものは簡単に忘れられないのが人間である。
スイッチを睡眠に切り替えようとした刹那、フラッシュバックしたのは気を失う前の光景だった。
予想外のカウンターパンチで眠気は吹っ飛び、頭が割れるような痛みに襲われる。
「―――あああぁッ!! そうだ、俺、死んでッ……!!」
漠然とした恐怖から、細かな様相が蘇る。胸に染みるのは不快な感情だった。
嫌な獣臭、滴る涎、生え揃った牙、獲物を見定める赤眼ーーーー。意識を失う前の情報が徐々に頭に戻っていく。
「ボス、腹、喰われっ………!」
左眼に十字架の傷を負った狼を思い出し、勢い良く服を捲り上げた。記憶を頼りに、肩と横腹あたりに目を走らせる。
「ない……?」
血眼になりながら眺めるが、あるはずの傷がどこにも見当たらなかった。血はもちろん流れていないし、傷跡があるわけでもない。そういえば服も無事だ。血だらけになったはずの制服は、綺麗さっぱり元通りなっている。まるで狼に襲われたこと自体が嘘だったようなーーー
「お客様、お目覚めでしょうか」
コンコンコン。
三度のノックと、記憶の少女とはかけ離れた無機質な声。扉越しに声をかけられたわけでなく、脳内に直接問われたようだ。
「あぁ、今起きたところだ。入っていいよ」
「図々しい許可ですね……。失礼します」
「対面する前に嫌な印象持たせないでくれる!?」
正論だが手厳しい挨拶に、一気に精神が削れる。
これは対面するのに心の準備が必要だなぁとタツキがのんびり考えているうちに、ツカツカと踵を鳴らして近づいてくる音がした。わざと音を立てている感じだ。広い部屋の角を曲がり、その双眸がタツキの姿を捉えると、
「特殊な趣味をお持ちなのですね……。失礼しました」
「いやいや誤解!誤解だから!これは傷跡を確認してただけで……」
「お客様、間抜けな顔がより一層度合いを増していますよ」
「…………」
歯切れが悪くなっていくタツキに、間髪入れず辛辣な言葉が浴びせられる。
言葉を返せない理由はただ一つ。衝撃に身を貫かれたからだった。傷が疼いたとか初対面だとは思えない態度に驚いたとか、そういうことでなく、その少女の存在そのものに。
膝上辺りの黒系ワンピースに、シワ一つない真っ白なエプロンを合わせたエプロンドレス。それに、春の草原を思い浮かべる深緑のボブに着けられたホワイトブリム。完璧な生メイドの姿に思わず息を呑む。知らぬうちに握られていた両拳が歓喜に震える。
驚いたのは彼女の服装に対してだけではない。完璧なメイド服をこれまた完璧に着こなす当人は、現実を逸して美しかった。すらっしたシルエットはウエストの辺りできゅっと絞られており、ドレスがよく映える。また肌はエプロンと同じぐらい白く、垂れた瞳は大きなエメラルドの宝石が嵌っているようだった。上にはこれまた整った眉があり、下にいけば小さくて可愛らしい鼻がある。整った顔立ち―――では到底片付けられないレベルの美少女だった。
同時に確信する。ここはタツキのいた《世界》ではないと。つまり、《異世界》。狼の異種なら新発見ということで無理やり納得することもできるが、彼女の存在は無理だ。ここまで整った顔立ちの人物を、タツキはテレビの中でも見たことがない。
「わ、悪い………。ちょっと見とれてた」
「安心してください。ルイが可愛いのは当然のことですから」
「……お前に謙遜の文字はないのかよ」
「心外ですね。謙虚さの塊ですよ」
性格は最悪だが、外見は完璧だ。小首を傾げる姿も愛らしく、タツキは怒る気力を失って頬を緩める。
ーーー俺はこの世界でやり直すんだ。
成瀬他月はどこにでもいる人間だった。
普通の家庭に生まれ、普通の子供として育ち、普通の人生を何となく過ごしてきた。
それがタツキの『普通』だったのだ。
今は違う。元の世界に色を感じない。普通なら戻りたいと願うのだろうが、過去の自分は偽物としか思えないのだ。本物の成瀬他月は俺だ。
「君の名前はルイでいいんだよな?」
「……………はい」
「だいぶ間があったな!? そんなに俺が嫌かよ!?」
「はい」
「即答かよ!」
「ルイの名前が穢されてしまいました……」
「いや自分で言ったんだからな」
「一生の不覚です」
初対面だというのに、ルイの態度は崩れない。むしろ他人にここまでズケズケ言えるのがすごい。終始無表情なのが気になるが。
けれど、きっと根がそうなのだろうと、タツキは勝手に納得することにした。自分にだけそんな態度ではないと信じたいが………。それに、感情の欠片が顔の節々に潜んでいるような気がしてならないのだ。ただ自分が気づいてやれないだけで。
悶々と悩むタツキの気も知らず、ルイはベッドの脇に立って一言も喋らなくなった。
こちらから話しかけようか、それとももう一度寝てしまおうか迷っていると――――。
「お目覚めです。頭を打ったのか、少々妄言が目立ちますが」
突然動き出したルイが、扉を開けてそう言った。
「んなっ………!」
「そ、そうなの!? 大変!」
透き通った声を聞き、鼓動が早まり、胸が締め付けられ、頬が熱くなる。扉が閉じる音とともに、胸の高鳴りは絶頂を迎えた。
「えと、おはよう……ございます。思ったより元気そうで安心したわ」
「ーーーぁ」
胸の奥の《何か》が弾けた。
今まで晴れなかった靄が、名も知らぬ《その人》を目にしてようやく消え去った感覚。お前はこの人を求めていたんだと、体が叫んでいるような気がした。生唾を飲み込み、ようやく体に空気が回る。
「えっ……! どうしたの!? もしかして頭でもぶつけた? それとも私、何かしちゃった?」
「俺、そんな変な顔してるかな……」
バカみたいに口を開いたままだったことを自覚し、慌てて顎を撫でて表情を造る。上手く笑えなかったのだろうか。安心させようとしたのに、彼女の眉はさらに垂れ下がってしまった。
「だって、涙がーーーー」
「……うわ。何だよ、これ」
はっとして目元に触れると、じんわりと温かい液体が溜まっていた。雫が紅潮した頬を伝って拳の上に落ちる。止まらなかった。次から次へと流れ落ち、水紋が広がる。
無意識下の出来事に理解が遅れた。自分でも涙の理由が分からない。慌てて袖で粒を拭っても、それは際限なく溢れてきた。
「女の前で泣くとかカッコ悪ィ………。見なかったことにしてくれ」
片手で顔を隠し、泣き顔が見られないよう抵抗しながら、止まる気配のない涙にまた泣きそうになる。
「………いいんだよ」
「え?」
「泣いて何がだめなの? 泣きたい時に泣くのがかっこ悪いって………そんな酷いこと、あるわけないわ。辛い時や悲しい時なら、全然泣いたっていいんだから。笑顔でいる方がずっと危険」
思っても見なかったセリフを前に、あきらかに多い瞬きで返す。すぐに理解することはできなかった。彼女の言葉を反芻し、噛み砕き、脳に浸透させるべく最大限に努力する。
「泣いても………いい?」
バカみたいなオウム返しに、彼女は真面目な顔で大きく頷いた。
―――そんなわけない。あってはならない。泣くのは敗者の印だ。泣くのは負け犬の証拠だ。泣くというのは、弱者の行為だ。どこで生まれたのか分からない固定概念が、タツキの根底には存在する。
自分の常識と真逆の意見に戸惑う。
彼女の言葉を簡単には受け入れられないタツキに、一つの感情がぽわっと灯った。それは少しの水滴で消えてしまうほど小さなものだったが、内側からどんどん膨張していく気配がした。
「ん。もう平気。あんがとな」
ついさっき会ったばかりの他人。
なのになぜ、こうも心が掻き乱されるのだろうか。彼女を見ると胸が熱くなり、感情が暴発し、歯止めが効かなくなる。
「………そう。ならよかった」
「やっぱ美少女には笑顔が似合うね。家に置いておきたいぐらいだ」
「飢えた獣が。それ以上フレシア様に近づかないでください。八つ裂きにしますよ」
「フレシアって言うのか。名前まで綺麗だな」
「………っ!」
純粋な気持ちで固めたタツキの一言が、ルイの警戒心をMAXまで上げた。再びしてしまった失言を悔やんでいるようにも思える。
今まで二人の会話を黙って聞いていたのが、ついに我慢の限界が来たらしい。口を開かなければ人形にしか見えないほど整った顔が歪んでいるのを見て、心がすっと冷える。そして、こうなることを予想できても、やはり自分は呟やかずにはいられなかっただろうと。
それほど《フレシア》という少女は、常識を逸して美しかったのだ。
彼女が前にいるだけで目が眩み、地に伏せたくなるほどに。一応言わせてもらうが、涙の理由は彼女が美少女だったからではない。
光を受けてきらきらと輝きを魅せる黄金の長髪は、見る者の心を強制的に惹きつける。ふんわりとウェーブした柔らかそうな髪に手を伸ばしかけ、僅かに残った理性で止める。
サラサラな髪の一部は、何かの花をモチーフにしたのであろう高級そうなリボンで留めてあり、細いツインテールとして頭の横で揺れている。まだあどけなさが残る顔と合わせて、実年齢より幼く見える。
肌は透き通るほどに白く、体は平均的な身長と比べて細身だ。肌色とは対照的な唇は、タツキの顔ほどに赤く染まり、それが男の欲情を煽っている。
華奢な体には贅肉が一切ついていない。
発展途上の体ながら、胸の膨らみは衣服を通してその存在を主張している。
簡単に折れてしまいそうなくらい手足が細いのは、ルイも同様だ。こちらは痩せすぎといってもいいが。
顔は言わずもがな。卵型の顔に、黄金比とも言える位置で収まるそれぞれのパーツ。瞳は慈愛を詰め込んだような緑。
ルイも現実にいないレベルで綺麗だが、タツキの心を捉えたのは他の誰でもない―――フレシアという一人の女の子だった。それは姿形で選んだのではなく、魂が求めたのだと本気で感じた。
「……飢えた獣は死ぬべきです」
「見てただけで殺されるのかよ!?」
感情を押し殺したルイの眼光が、フレシアに熱い視線をおくっていたタツキを捉える。
「ま、まってルイ。それに私、全然全くほんとに状況が分かってないの」
「焦ってる顔もめちゃカワだな」
美少女はどんな顔でも可愛い。そんな共通認識は、タツキ内辞書にNEWを頭にしてインプットされた。表情をころころ変えるフレシアが、堪らなく愛しい存在に思える。
「初対面相手に何言ってんだって話だけどな……」
至極真っ当な独り言と同時に、自虐的に微笑む。
性格がルイほどにキツかったり、裏の顔が存在したりするかもしれない。人間本当の自分を隠すのには慣れている。私生活で他人を騙すのは、もはや息をするのと同じぐらい自然なことになっているだろう。なのに、この子だけは違うと思った。根拠はないが、タツキはそう確信していた。そして、それが事実であることも。
突如現れた美少女キャラへの対応に困った童貞は、会話の種を探して目線を彷徨わせる。良い天気ですね? 元気ですか? 好きな食べ物は………?
「あ、そういえば。キミの名前は?」