苦労を知らない人々
「大抵の人がしている苦労なんて、本当は苦労でもなんでもないんだよ」
彼はそう言った。
「みんな本当は知らないんだ。というか、経験したことがない。苦労をする環境になんて、生まれてから一度だって置かれたことはないんだから」
「じゃあ」と僕は問うた。じゃあなぜ人々の大半が、苦労の経験があるみたいに、あんな風に苦しそうに振る舞うのかと。
彼は笑いながら答えた。
「それはね。みんな、自分の人生にもそれなりに何かあったんだっていう証がほしいのさ。だって嫌だろ。何の苦労もせずのうのうと生きてるやつ。だから一緒にされたくないんだ。自分は苦労したんですよ、薄っぺらい人間じゃないんですよって周りに伝えたいわけさ」
僕は納得がいかなかった。なぜなら、僕も多少は苦労して生きてきたつもりだったからだ。
彼の意見を素直に受け入れてしまうと、僕は苦労でもなんでもないものを苦労だと勘違いして、実はただ楽して生きてきた人間になってしまう。
だから彼に訪ねた。じゃああなたにとって何が苦労なのかと。
彼は答えた。
「君たちには、一生苦労なんて経験できないし、理解もできないよ。というか、知る必要もない。別に馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。だって、俺と君は違う世界の人間だからね。俺の世界には苦労があって、君の世界には苦労がないだけさ。ただ苦労のない世界に住んでる人間たちが、苦労した、苦労したってあちこちに言い回るもんだから、俺も正しいことを言いたくなったのさ。君たちの世界に苦労なんてないよってね」
言っている言葉は理解できたけど、その意味は理解できなかった。彼の言う苦労を僕が知っていれば少しは理解できたんだろうか。彼は最後にこう言い残して去っていった。
「まあ、苦労してないことが悪いことじゃないんだよ。だってしてなくたって素晴らしい人たちはたくさんいるからね。ただ、苦労をそっちの世界の人間のステータスみたいにしてほしくなかったんだ。だって本当の苦労は決して口が裂けても誰にも言いたくない、酷く辛いものだからね」
僕は最後まで彼の言いたいことがわからなかった。
僕たちの世界に苦労は存在しない。その言葉がなぜか悔しかった。
僕は、苦しい、苦しいばかりを言って、実は本当の苦労など知りもしない愚かな人間なんだろうか。だったらあの時の僕は何に苦しんでいたのか。
しばらくして、僕はようやく歩き出した。そして、「でも仕方ないよ」と去った彼に向けて小さくそう呟いた。
だってこの話を聞いたってどう変わるわけでもない。僕がそこから何かを見出すわけでもない。
今の僕には理解できないのだから。
だから今は何も考えず前に進むしかなかった。その先に苦労ではない、何かが待っていたとしても。