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もふもふ登場。
「な、は、え!? 狼!?」
今までどこかに隠れていたにしても隠れられるような場所はない上に、隠れられそうもないほど大きな獣だ。真っ黒い毛並みは艶やかで、蝋燭の怪しげな光を受けて青色に輝いている。すらりとした四肢にしなやかな肢体。見たこともないほど美しい獣だ。一体どんなトリックで出てきたんだろう。ふわりと微かに風を感じたくらいで物音一つしなかったというのに。
「狼ではない。あんな下等生物と一緒にするな」
「うおっ、喋った!」
狼みたいなのに狼じゃないらしい獣はぱかりと口を開け、鋭い牙を見せながら唸るように喋った。たしかに喋った。耳に心地いい低音は美声と呼べる部類なんじゃないだろうか。低く思慮深い声はこの狼……じゃない獣にぴったりだと思ったけど、いやでも獣が喋るわけないよね、だってほら、獣は骨格の構造的に「あ」とか「い」とか細かい口の形がとれないから喋れないんだって何かの本で読んだし、ていうか人間以外に喋る動物ってインコくらいしか知らないんだけど、喋る狼って実在したのか、ていうか、いやありえないでしょ!
パニックで口を開けたり閉じたりしながらまじまじと漆黒の獣を見つめる。見れば見るほど綺麗なコだ。こんな状況じゃなければもふもふして顔をうずめたい。
「召喚に成功したのか、レイティア・アルバルト」
「見てのとおりだ。予想に反して知能は低いようだが、実験体にするには申し分ない健康体だな」
もやしっ子の受け答えにふんっと獣は鼻を鳴らす。
「<異世界>だと何度言っても理解できないようだからな、クーグルを見れば実感も沸くかと思って」
「そんな理由で俺を呼び出すな」
不機嫌そうにそう言って獣さんはわたしを上から下まで眺めた。さっきのもやしっ子みたいに舐めまわすようにじゃないから、それほど不快ではない。
獣さんの瞳の色はターコイズブルー。鮮やかすぎない綺麗な色。思慮深さの浮かぶその瞳は獣さんが言う通り、普通の獣ではないことをはっきりと示している。近所のタロー(犬)なんて人のこと見るたびに襲いかかってきたからね。女の子が大好きなのよーっておばさん笑ってたけど、あれ大好きってレベルじゃなかった。もう好きすぎて噛み殺しちゃいたい! ってくらいのヤンデレを感じさせる飛びつき方だった。舐められまくって噛まれまくってべちょべちょになった制服の恨みは忘れない。
「えっと、綺麗ですね」
じっと見つめられて困ったので、とりあえずへらりと笑っておく。必殺とりあえず笑っとく。日本人の得意技。「なにがおかしいんだこるぁ」と巻き舌気味に絡まれる可能性もあるけど、基本的にこれでどうにかなる。
するとそんな誤魔化しに、嬉しかったのか獣さんはぴんっと立った耳をひくひくと動かした。ぱたぱたとふっさふさのしっぽが揺れる。なんだ、カッコいい見た目のわりに結構可愛いな。
「そう思うか?」
「はい。ええっと、毛並みが特に」
そのしっぽのふわふわ加減とか手がわきわきしちゃうよね。柴犬のタローにはないふわふわ感だよね。
獣さんはやっぱり嬉しかったらしい。そうだろう、そうだろうと魅惑のふわふわしっぽをぱたぱた振ってわたしの目の前に座り込んだ。
「おまえ、名前は?」
「へ?」
「俺はクーグルという。不本意ながらこの男の使い魔だ」
「ご主人さまにむかってずいぶんな言い草だな。いつおまえが俺に使われた」
なにやら獣さんの後ろでごちゃごちゃやっていたらしいもやしっ子はごちゃごちゃし終わったのか、鉄壁の前髪の奥から呆れた視線を投げかけた。
「黙れ、レイティア。おまえの下についているというだけでも屈辱的だというのに、その喉笛を噛みちぎられないだけましだと思え」
「できるものならやってみろといつも言っている。おまえの力が俺より弱いから使役されているんだろう。俺を殺せるのなら早く実行すればいい」
「……黙れ」
ぐるるとクーグルさん? は唸って、一転わたしに気遣わしげな視線をよこした。
「おまえ、名は? 覚えているか? コイツの強引な術のせいで記憶が失われたということも考えられるからな」
「あ、いえ。森本悠です」
記憶喪失を疑われ、慌てて自分の名前を告げる。こんな怪しげな人? たちに名前を告げてもいいものかと思ったけどクーグルさんは名乗ってくれたんだしこちらも名乗らないと失礼だよね。と、こちらは礼儀を通そうと自己紹介したのに、もやしっ子は礼儀知らずの恥知らず、ついでに女心も分からない大バカ者だった。
「もるもっと?」
おいこら、もやしっ子! 誰がモルモットだ、誰が!
「森本!」
キッと睨んではっきり発音してやるが、ヤツめ少し間を置いてから「もるもっと?」とさっきと全く変わらない発音で首を傾げた。別に可愛くないからな! もやしっ子がそんな仕草しても可愛さの欠片もないからな! ただしイケメンに限るのはどこでも共通なんだからな!
「もりも?」
対して、クーグルさんはきょとりと言いづらそうに首を傾ける。ぱたり、と尻尾が自信なさげに床を叩いた。
くっ、可愛いなもう! モフモフは正義! もやしっ子もこの可愛らしさを見習え!
「あーっと、悠です」
こっちの方が言いやすいのかな、と名前だけ告げるとクーグルさんはひくひくと耳を動かした。
「ハルカ」
「はい」
俺のときとはずいぶん反応が違わないか、とかごちゃごちゃ言っているもやしっ子は無視だ無視。人をモルモット呼ばわりしやがって。いや、別にモルモットが嫌いなわけじゃないんだよ? 実験体にされることの多い彼らだと認識されてるみたいで、嫌だってだけで。もやしっ子、見た目はマッドサイエンティストみたいだし。あ、悪い魔法使いでも可。
「ハルカ、どうせこの男は大した説明もしていないんだろうから俺が教えてやる」
ふんと鼻を鳴らしてクーグルさんは口を開く。ひくりと得意げに動く耳がやっぱり見た目に反して可愛らしい。
「えと、お願いします」
ぺこりと頭を下げてクーグルさんに説明をお願いした。
とはいえ、ようやく冷静さを取り戻したわたしにも状況はなんとなく掴めているのだ。あまりに信じがたいことだけど。
着ぐるみにしても精巧にできすぎているクーグルさん。ちらりと覗く牙は本物っぽいし、なにより鼻づらがしっとりと湿っているのが分かる。いくら現代の科学が進んでいるにしてもそんなところまでリアルに再現はできないだろう。……ということは。
「ここはおまえのいた世界とは異なる座標に位置する世界だ。おまえからすれば<異世界>、ということになる」
なにやら徐々に理解できてきてしまった、非現実的すぎる現実にわたしは「はあ」と気の抜けた返事を返すしかなかった。