2
えー、とりあえず戻って来た冷静さを保つためにも自己確認とこうなった経緯を思い出してみよう。現状把握と冷静さは大事、大事。
わたしは森本悠、17歳。可もなく不可もない普通の公立高校に通うピッチピチ(死語?)の17歳。容姿は平凡、才能も平凡。小さい頃からやっている家事には自信があるけどそれだけだ。残念ながら今のところお弁当を作ってあげるような相手がいたことはないし、特にアピールする機会もないというほとんど誰にも知られていない特技だ。
家庭科だけいつも5点満点の通知表は大した自慢にもならない。なにせ他の教科はアヒルさん(2)の中に時折耳(3)が混ざるような出来だ。あまりに悪すぎて誰にも見せられん。勉強面のみで言うならわたしは平均以下なのだ。
……よし、自己認識、評価共に通常通り。悲しいかな特筆すべきことはなにもない、それがわたしだ。
今日も今日とて五時限目終了のチャイムと共に友達への挨拶もそこそこに鞄を引っ掴んで教室を飛び出した。
授業終了から校門を出るまで3分という我ながらあっぱれな全力疾走を保ったまま近所のスーパーに駆け込んだ。ジャスト4時。数分授業が延びたからどうなるかと思ったけど、だいたい計算通りのゴールだ。
わたしが物心つく前に父親が蒸発。それからバリバリのキャリアウーマンのお母さんとわたしで二人暮らしをしている森本家では多忙な母に代わり、一切の家事はわたしの仕事なのだ。
小さい頃からやっていることだから別に苦痛は感じないが、お母さんは別らしい。毎朝朝ごはんを食べながら広告とにらめっこを始めるわたしに「あのバカ男がふがいないばっかりに、うちの娘は色気づきもしない」と嘆いている。ずいぶんとずれているうえに失礼極まりない感想だと思うが、この家の食事・衛生面・財政管理面等々はわたしがいなければ成り立たないことを忘れないでいただきたい。
広告とにらめっこして得た本日の特売品はお肉と野菜類。なんとしてでもゲットして素敵で無敵なお夕飯を作るのだ! と鼻息荒くおばちゃんたちの集団の中に突入し、「おっ今日も来たね女子高生!」と売り場のおっちゃんに茶化されながらも見事勝利。戦利品のひき肉と玉ねぎをほくほくしながらエコバックに詰め、今日はハンバーグだなとうきうきしながら帰宅した。
ハンバーグは大好きだ。半熟の目玉焼きを乗っけるとさらにうまい。よし、昨日卵を買ってきたことだし今日は奮発して目玉焼きを乗っけよう、とるんるん気分で制服を脱ぎ捨てて部屋着に着替えたら、朝ベランダに干していった洗濯物を取り込む。鼻歌交じりにそれらを分類しながらたたんで。
ここまではいつも通りの日常だった。小さい頃からずっと続けてきたわたしの日常。あえて言うなら晩御飯になる予定のハンバーグにほんのちょっぴり浮かれていたくらいで、それ以外は本当にいつも通りだった。……だというのに。
制服のブラウスにアイロンをかけようと立ちあがったとき、世界は一転した。
ぐらりと足元が揺れ、ジェットコースターに乗ったときのようなお腹の中身が浮く嫌な感じがして(だからジェットコースターは嫌いなのだ)。気付いたときには薄暗い部屋で身一つで床に座り込み、変質者かつもやしっ子、そのうえ電波な男に見下ろされていた。ブラウスが消失したとはこれいかに。
と、これがここまでの経緯だ。
……なるほど分からん。どうやらわたしは誘拐されたっぽいことがかろうじて分かる程度だ。いや、それも十分不可解だけど。しっかし、わたし目を開けたまま寝る特技でも身に付けたんだろうか。そうでもなければと知らないうちにこんなところに誘拐された意味が分からない。というより、美人なわけでもなければ裕福な家庭の出でもないわたしを誘拐する意味もさっぱり分からないけど。
で、結局ここはどこなんだと誘拐犯であろうもやしっ子に視線を向ける。誘拐された被害者のわりに、わたしは縛られているわけでも目隠しをされているわけでもない。
……それは最終的に殺しちゃうという完璧な口封じ方法が存在するからだと推理小説で読んだことがあるけど、わたし大丈夫か。こんな呑気に構えてて平気か。特売日にパワフルな主婦の方々に鍛えられた精神力と忍耐力はこんなもやしっ子に負ける気はしないけどやっぱり男と女には抗いようもない壁があるわけで。
果たして、誘拐犯(推定)は口を開いた。
「ここは第209座標31界に位置するユチェリスタという世界だ」
「……はあ」
だいにまるきゅうざひょう? さんじゅういちかい? ゆちぇりすた? なんじゃそら。
また訳の分からないことを言い出した電波を呆然と見上げる。もしかしてこの人現実と二次元を区別できない類の人だろうか。見た感じもう20歳は超えているだろうに、まさかほんとに悪魔召喚☆ とかやっちゃうイタイ人なんだろうか。
呆然としながら若干どころかだいぶひいたのを隠しもしないわたしを意にも介さず手帳をぱたりと閉じ、相変わらず視線の所在が分からないまま電波男の説明は続く。
「ここはどの国にも属さない<狭間>と呼ばれる場所だから国名はない。近隣の人は<霊の森>と呼んでいるようだが、もちろん本当に霊がいるわけではない」
「……はあ」
言っている単語の一つ一つは分かるんだけど、だからといって文の意味が理解できるわけではない。コイツわたしに理解させる気がないんじゃないか。国名がないって、そんな北極じゃあるまいし。どれだけ漫画の世界に入り込んでるんだ。
いまいちはっきりしない返事を返すわたしに、もやしっ子はイライラしだしたらしい。声を若干荒げて「分かりやすく言い換えよう」と嫌味を含んだ声音で言った。
まったく本当に最近の子はすぐにキレるんだから。カルシウム大事、煮干し食べたほうがいいんじゃないか。と、一応「最近の子」であるはずのわたしの考えが分かったわけでもあるまいに、もやしっ子はこちらを睨んだ。鉄壁の前髪があっても敵意ある視線って分かるもんだ。
「ここはおまえからすれば<異世界>に位置する場所だ」
「……はあ?」
なんだこの男、やっぱり電波か。だって<異世界>って。それは小説や漫画の中だけの話だろう。それともなにかの暗号とか?
「おまえの住んでいた国は?」
「日本、ですけど」
住んでいた、という過去形に顔をしかめながらそれでも答える。住んでいたんじゃなくて現在進行形で住んでいるですけど。不吉なことを言うのはやめていただきたい。
「ここにニホンという国はない」
「は?」
訳が分からない、と眉を寄せる。どういうこと? 漫画の世界に入り込んでいるのはいいんだけど、もう少し分かりやすく説明してもらえないだろうか。
「もう一度言う。ここは第209座標31界に位置するユチェリスタと呼ばれる世界だ。おまえの住む世界から1000と160座標ほど離れた<異世界>。おれたちが今いる場所はユチェリスタにあるどの国にも属さない<狭間>と呼ばれる森の一角にある小屋だ。もっと詳しく言うなら<狭間>はセルディオ帝国とウェロベルク公国の間に位置する巨大な森。魔物は大量にいるが、ヒトは住んでいない。……これで理解できたか?」
「は、え?」
何度説明されても分からないものは分からない。一体なにを言っているんだ。ここが日本じゃないのは百歩譲ってありえるとして、ここが地球じゃないなんてそんなこと突然言われても信じられるわけがない。ここ異世界なんですと言われて、あ、そうですか、と答えられるのはご都合主義の物語の主人公だけだ。
ここ異世界なんですと言われてするべきことは1つ。速やかにその人物と距離をとることだ。まあ、今のわたしはこの魔法陣らしき円に命を握られているらしいから大して距離もとれないんだけど。だって「死ぬ」ってさらりと言われたら、真偽はともかく一応安全っぽい円の中に留まりたい。このもやしっ子はどうやら本気でなにかの漫画の世界観を大切にしてるみたいだし、下手に動いてその世界観を壊したら怒りだす気がする。それで逆上して、殺人とか。……もしかして、そういう意味での「死ぬ」か?
「……予想したより知能が低いようだな」
「あぁん?」
悪口にはしっかり反応するわたしに嫌味なもやしっ子は心底バカにした視線を向けた。
「これを見れば理解できるか」
そう言ってもやしっ子はおもむろにぱちりと指を鳴らす。そのキザったらしい仕草と共に現れたのは、
「……はっ!?」
真っ黒い毛並みを持つ大きな狼だった。