008 :悪いのは誰
木曜日の5時限目を終え、いつものように準備室に戻ったヒナコは扉を開けてそのまま凍りつく。
青白い蛍光灯に照らされた薄暗い廊下と日当たりの悪い準備室の狭間で。
「センセ?どうしたの?」
例のごとく昼食を取ろうとやって来たタツルが、固まっているヒナコの肩越しに室内を見て目を見張る。
ヒナコの机を中心にルーズリーフの用紙がぶちまけられていたのだ。
ご丁寧にもその一枚一枚に「ダサ子!」「キモッ!」「ウザッ!」「死ね!」「帰れ!」など罵詈雑言が赤や黒のマジックで書き殴られている。
背後からそっと触れると、その肩は震えていた。
「取り敢えず、入ろ?」
中へ促すと、入ることを拒否するかのように背中に体重がかかる。
「大丈夫だから。入って?」
耳元で囁きながら優しく押し戻し、数歩前へ出たのを確認して扉を後ろ手で閉めた。
「まずは……座って?」
引寄せた椅子に座らせた後、部屋の隅に置いてあった白い紙袋に、紙片を掻き集め放り込み始める。
ざっと見た限り誹謗文の筆跡は3~4人、女性。
冷然と目を細めたタツルは心当たりを探り、今日の4・5時限目の数Bの時間に中休憩を取った生徒の顔を思い浮かべる。
確信と共に作業を終え振り返ると、ヒナコは座らせた姿勢のまま足元を見据えて硬直していた。
両ひざに乗っている握った手が白い。
紙袋を入り口横に立てかけヒナコの前に跪く。
硬く握り締められた拳をそっと包み込んで下から顔を覗き上げると、目を見開いたまま唇はきつく引き結ばれていた。
その口元が見る見る緩み、クシャっと泣きそうな顔をしたと思ったら、声が絞り出された。
「……ビックリしたの」
「うん」
穏やかに頷き、続きを促した。
「あからさまに悪意をぶつけられたの、初めてで。ショックだった」
「そっか。」
優しく微笑みながらヒナコの手の甲を軽く拍いた。
「ごめんね。みっともなくうろたえて」
「みっともなくはなかったよ?なくなくない……あれ?」
「ふふっ」
おどけて目を白黒させるタツルを見て、ようやく少し笑う。
それに柔らかな笑顔を向け、硬く閉じた手を上に返してゆっくりと解いた。
「中途半端な時期に来た学校で慣れようと頑張っている時に、いきなり拒絶されたら誰だって取り乱すと思う」
ゆっくりと紡がれた言葉を聞いて、再び手に力が入る。
その手が閉じないよう、そっとタツルは自分の手を重ねた。
「でもね。今回のことは、全部俺のせいだから。センセは何も悪くないから」
重なり合う両手同士を見詰めながらの告白に、不審そうに眉をしかめ、屈み込んでくる。
「え?どう言う事?」
その額に、自分の頭をコツンと当てた。猫のように。
「害は無いと思って放って置いたら、仲良くなったセンセに向かって行っちゃって」
「……え?誰が?」
ヒナコの疑問には答えず、目を下に逸らし続ける。
「本当にごめん。やっと授業に手応えが出てきた矢先に、こんなことになっちゃって」
「あの、あのね?ちょっと待って?」
握られた手を逆に握り返し、ヒナコが揺すりながら中断させた。
「はい?」
顔を上げたタツルを見据えて言い含めるように語り掛ける。
「加藤君側にどんな事情があるのかサッパリ分からないけど、聞く限り加藤君だけが悪いわけではないと思う。色んな人に色々な思惑や事情があるのはわかるけど、今回はきっと私の何かが誰かの神経を逆なでした、ってことだよね?シンプルに言えば」
「でも、俺が……」
反論しかけたタツルをきっぱりと遮る。
「だって、加藤君が指示を出したわけではないでしょう?」
「もちろん!」
「だったら、この場合の加藤君は退場して、舞台に上がっているのは私と……加害者になるわけで。加害
者が行動を起こすきっかけは、私が与えたことになるよね?」
「まぁ……そうなる……かな?」
「じゃあ反省するのは私で、加藤君はちっとも謝る必要は無いじゃない」
先程まで泣きそうな顔をしていたとは思えないほどの穏やかな、そして凛とした語り口だった。
困惑したような曖昧な顔で言いよどむ。
「そ、かな……?」
「そうです!」
きっぱりと言い切り、ヒナコの方は破顔した。
眩しそうに目を細めるタツル。
その表情をキリリと引き締め、
「でもさ、やられっ放しっていうのも癪じゃない?」
不敵に微笑んだ。