007 :ペットロスの癒し方
連休が空け、約束の無い待ち合わせにタツルが現れた時、言葉では説明し難く満ち足りてゆく自分にヒナコは困惑した。
軽く朝の挨拶を交わし、いつも通りに隣に腰掛け参考書を開くタツル。
木漏れ陽に輝く彼の髪を落ち着き無く見ていたヒナコは、突然その髪に触れたい衝動に駆られた。
「何?」
手首をつかまれ不思議そうな顔を向けられて、初めて手を伸ばしていたことに気付く。
「え?あれ?私……触ろうとしていた……?」
「そうねぇ。完璧に俺の頭を狙っていたみたいだけど?ゴミでも付いていた?」
鼻にしわを寄せてクッと笑う。しかしその目は優しく微笑んでいた。
「あの……ごめんなさい。無意識に出たみたい」
謝りながら手を引こうとしたが、びくともしない。
「それってセクハラ?」
「え?えぇ?!違うわ。あの、ちょっと猫を……」
「は?猫?」
「昔飼っていた猫を思い出して……陽に透ける加藤君の髪が、日向ぼっこする猫に思えて……」
手をつかまれたままうつむくヒナコの、言い訳がましく響く言葉が尻すぼみになっていく。
「それってオス猫?」
「ええ。ムーンって言って、黒猫だった」
再びヒナコの胸が喪失感で締め付けられる。その掌に乾いた柔らかいものが触れた。
驚いて顔を上げると、タツルに導かれた手が朝日に暖まった髪に添えられていた。
2、3度撫でる仕草を促された後、拘束を解かれる。
「どう?猫を撫でているみたい?」
優しい笑みでタツルの顔がほころび、目を細めながら聞いてくる。
何故かその時、喜びなのか悲しみなのか分からない感情が湧き上がり、泣きそうな気分で一杯になった。
「えぇ。ムーンよりちょっとサラサラしているけど、柔らかい」
梳るように髪を撫で付けると、タツルは猫のように目を閉じ、形の良い頭を預けてくる。
「気持ち良い」
懐かしい重みと感触にヒナコの声が震えた。
「触られているのは俺なのに?」
薄目を開けて流し見る。
「おかしいかな?本当にムーンを撫でているみたい」
感傷が全身を支配し、いよいよ涙声になるヒナコ。
不意にタツルは預けていた頭を軽く離して、ヒナコの手に自分の頬を滑らし、掌の中央に唇で触れた。
思いも寄らないタツルの行動に驚いて、今まで経験した事の無い濡れた感触から逃れるように手を引っ込める。
膝から鞄が滑り落ち、音を立てた。
「猫はこういうことしない?」
「しないわ!」
からかう様な問いにとっさに強く答えたが、むず痒さの残る手を体中で庇い、驚きと動揺は隠せない。
「そう?猫って鼻をこすりつけてこない?」
意図を全く覗わせない薄笑いで、自分の鼻をトントンと叩いた。
「い、言われてみれば……したかも……知れないけど」
「ね?」
自信なさ気に俯きかけたヒナコを、無邪気そうな笑顔で覗き込んでくる。
「でも――貴方は猫じゃない――でしょう?」
どんどん変化する笑顔に翻弄され、おずおずと訊ねた。
「う~ん。何か猫っぽい気分になったんだよね」
「まぁ、それってどんな気分なの?」
とぼけた答えを聞いて、とうとう吹き出してしまう。
その様子をとても穏やかに見詰める顔は、鞄を拾うために屈みこんだヒナコには見えなかった。
失ったはずの愛猫が戻って来たかのような日々に、少し浮かれていたのかもしれない。
また、未だ馴染めない校内で唯一タツルが普通に会話できる相手であり、心を開き過ぎていたのかも知れない。
急激に親しくなった自覚も無いまま、ヒナコは休み明けにタツルに会うと離れていた反動なのかタガが外れたように頭をしきりに撫でた。タツルはそんなヒナコのなすがままだった。
そんなある週明けの現文の時間、教科書を読み上げながら机間指導をしていたヒナコが廊下側の一番後ろに座るタツルの横を通り過ぎる時、何気なく髪に触れた。
それは本当に自然な仕草で、タツルも驚いたり拒否したりせず薄っすらと目を閉じて、その手の平に応える。
クラス中で教科書の文面を追っている時間、誰も見ているはずがなかった。
が、一人だけ窓際の後ろの席から鋭い視線をヒナコに向けた生徒が居た。
その視線に、二人は気付いていなかった。