037 :溶けゆく境界線
「知りたい。けど、聞きたくはないわ」
キュッと引き締まったヒナコの口から返ってきたのは、毅然とした言葉。
緊張感を孕んだ雰囲気は霧散して、二人の間に店内のざわめきが戻ってくる。
挑戦的な薄笑いは、キョトンとした表情に一変した。
「え?」
「だって、店員さんが話す『彼』も、タツルが思っている自身も、どちらも私が見たタツルではないもの」
ヒナコの講釈に毒気を抜かれて、弱々しい苦笑が滲む。
「……いつも聞きたがるヒナコさんが、珍しいね」
「だって、本当のタツルがどんな人かは、聞いて分かるものではないでしょう?」
こてんと首を傾げるヒナコ。
それを見て脱力したタツルの、手にだけ力がこもる。
「……参ったね。ヒナコさん、凄過ぎ」
さざめきに紛れるようにポツリと零したタツルの言葉を拾おうとして、ヒナコの首は益々傾いだ。
「えぇ?」
「素敵ってこと」
言葉に添えたニヤリとした笑みの意図を曲解したヒナコが、頬を紅潮させる。
「またそうやってからかうんだから!」
「からかっていないよ。正直な感想さ」
しれっと言い切ったタツルが、まだ手の中にあるヒナコを引き寄せ、指先に口付けた。
臨界点を超えたヒナコは頭から湯気を出さんばかりに羞恥に燃えて、さらさらと灰になったのは言うまでも無い。
真っ白に燃えつきながら、ヒナコは沈思にたゆたう。
――自分が見てるタツルと、店員の彼女が見ていたタツル。
昼――校内――の顔と、夜――放課後――の顔。
教室でのタツルはもっと存在感が無くて、準備室に来るタツルはいたずらっぽいのに厭世的、レッスンの時は完璧で……
校長から言われたのは全てを黙認せよ、職員室では話題にすら上らない――成績優秀者であるにも拘らず。
彼女が語ったタツルの欠片は、『病みつきになるほど上手』で、普通の高校生ではなくて、『初めての男なら最高に不幸』。
それらの雑多な情報を取り払い、ただ在るがままのタツルを思い描いたとしても、知識、教養、物腰、どれ一つとして思春期中期の高校生というカテゴリーでは括れない、際立った存在になる。
そんなことくらい、ヒナコにだってとっくに分かっているのだ。
それでも、敢えてお互いの立ち位置を明確にしておかなくてはならない、社会的な通念というものがある。
(私に見せてくれているのが本来のタツルだと、思いあがっていたのかな……)
取り留めのない思考の陰からはみ出した寂しげなつぶやきに、ヒナコ自身がぎょっとして我に返る。
これではまるで自分がタツルの特別親しい者になろうと足掻いているみたいではないか。
ましてや一番気になった事が『あの店員』との過去だ、なんてヒナコは口が裂けても訊けない。
(タツルは生徒、私は教師。タツルは生徒、私は教師。タツルは生徒、私は……教師)
胸の内で三度唱える。
言い聞かせなければならない段階であることには目を瞑って。




