020 :義務とレッスン
ヒナコが連れて来られたフロアは行きとは違い、エレベーターの裏側に回るとあたかもホテルのロビーのように開けた空間だった。
タツルに手を引かれて案内されたのはフロント然としており、壮年の男性が柔和な笑みを浮かべて迎えてくれる。
「これは加藤様。本日はお休みでございましたか」
広い空間に響き渡ることなく、しかし二人にははっきりと聞こえる、意図的に抑えられた絶妙な声掛けであった。
「まあね。それより瀬葉さん、この人の登録をお願いします」
「かしこまりました」
そっけない返答に対し気にする風もなく美しく一礼して、カウンターの下から機器を取り出した。
「お嬢様、御手をこちらにお願いします」
促されて広げた手を差し出すと、手の平を下にして機器の上に翳される。
「はい、結構です」
“ピッ”という機械的な認証音の後に、あっさりと手は解放された。
「これで今乗ってきた直通エレベータを利用できるから、明日からは直で部屋に上がって」
「えぇ?」
「来る時、見てたよね?一応、帰りは一般エレベータからの入り方もやってみようか」
「一般エレベーター?」
「そう。さっき乗っていた玄関に直結してるエレベーターは、個人宅で言う勝手口みたいな感じかな。普通のお客さんなんかは、この瀬葉さんの前を通ってあそこのエレベーターを利用する」
言いながら指したのはカウンターの横で、そこには数基のエレベーターとベルボーイらしき制服姿の人が立っている。
「そうは見えないけれど、何だか物々しいのね」
不思議そうに小首を傾げたヒナコに、眼鏡越しでも分かる優しい眼差しが返ってきた。
「慣れれば気にならないよ。それより、お昼なに食べたい?」
訊かれて咄嗟に出て来たのは。
「オムライス?」
「なんで疑問形かな。じゃあ、あそこにしよう」
心底楽しそうに破顔したタツルに再び手を繋がれ連れて来られたのは、近所のこじんまりとした洋食屋さんだった。
「今日は6時くらいまで頑張れそう?」
あらかた片づけたタツルが、ようやく半分を食べたヒナコに聞いてきた。
水で喉を整え、少し考えてから頷く。
「大丈夫デス」
ヒナコの脳裏に午前中のしごきが蘇り口調が堅くなったが、意に介すことなくにこやかに提案してきた。
「そ?都合が悪くなければ夕飯も一緒にどう?」
「えぇ?ご両親はいつお帰りになるの?」
「だれも帰ってこないよ。ってか、言ったよね。俺、高校に入ってから一人暮らしだって」
「えっ?!あんなに広いマンションに一人で住んでいるの?ご飯とか身の回りのことは?」
「園生が手配してくれてる」
「園生さん?運転手さんの?」
「そう、運転手さんの」
「ご両親は、どちらに……?」
自分でも踏み込み過ぎの自覚があるヒナコは、おずおずと訊く。
「両親?ルリさんは昨日のビルの最上階に住んでるけど。父……は、兄と住んでる」
「……そうなんだ」
これ以上聞いていいものかとためらいを見せるヒナコと、食後のコーヒーに視線を落としながら心の中に焦点を合わせているようなタツルの間に沈黙が流れた。
「――そろそろ行きますか」
もそもそとヒナコが食べ終わるのを見計らって腰を上げる。
「あの……加藤君」
「はい?」
「ご飯はいつも一人で食べているの?」
「大概は。月一くらいでルリさんと外食したりするけど。基本は一人」
「寂しくは……ないの?」
「寂しいって言ったら毎日一緒に食べてくれるの?」
表情の抜け落ちたタツルに見下ろされ、ヒナコはハッと目を見開いてからふにゃりと困り顔で眉を下げた。
「冗談。学校の先生にそこまでの義務はないよね」
一転、突き放すような薄笑いを浮かべて立ち上がるタツルの腕を、ヒナコはとっさに掴んでいた。
「毎日は無理、でも、たまに、なら……良い……のかな?」
「また疑問系?」
くっと喉の奥で笑ってから、
「じゃあ、今日から一緒に夕飯を食べてくれる?レッスンも兼ねて」
とてもヒナコには断れない笑顔で言い切った。
結局、夕飯までをレッスンに充てられたヒナコは精も根も尽き果てて真っ白になりかけたが、リビングに用意されていた夕食の美味しさに心持ち復活し、固辞したにも拘らず園生に送られて帰宅した。