016 :明日の約束
「……そろそろですが」
厭味が通じたのかタツルの言葉には何も返さず、歯切れ悪く話題を変えた。
いや、園生にしてみれば戻したのか。
「ヒナコさん、そろそろ家に着くよ?ヒナコさん?」
先ほどの会話など一切無かったかのように優しくヒナコを揺り起こす。
「ん~?えぇ?……いつの間に……?」
眠りの残滓を纏いながら、置かれている状況を把握するために辺りを見回した。
その様子に笑いを誘われて、ついからかうような口調になる。
「ぐっすりと眠っている間に」
話しかけられてようやくタツルに抱き抱えられていることに気づく。
間近に微笑む月光が照り映える整った顔は、寝起きのヒナコにとって刺激が強すぎた。
「あの、あの、あの……」
必死で身を離し、バクバクいう心臓と同じ調子でどもってしまう。
「この場合は『ありがとう』だけで良いんだよ」
あくまで紳士的にヒナコが隣に座り直すのを手伝う。
「……ありがとうゴザイマス」
ぎこちないお礼に吹き出しそうになるのを辛うじて堪え、おどけて見せた。
「いぃえぇ。って、運転しているのは園生だけど」
その言葉に生真面目な訂正が入る。
「いえ。自分がしたことはタツル様がなされたのと同じことですから」
そのタイミングでヒナコの自宅前に到着した。
「本当に堅いよね」
とうとう吹き出したタツルの言葉が、交通の邪魔にならない様に停車させている園生の背中に被さる。
無言で職務を遂行する園生。
「ありがとう加藤君、園生さんも」
二人を交互に見ながら改めて礼を口にして降りようと身構えたヒナコの手が捉まれる。
「足、ちゃんと冷やしてゆっくりお湯に浸かって、できればストレッチして寝ること」
授業中『ここがポイント』と言う時のヒナコのクセを真似て、左手の人差し指を立て唇の横に添えながら悪戯っぽく微笑む。
つられて微笑したオリジナルは素直に頷く。
「はい」
「ふふ。じゃあ、また明日」
「えぇ?!明日は振り替え休日でしょう?」
素で驚かれ、鏡のように驚きが移った。
「ご飯前に約束したよね?!」
「???」
「嫌だな、寝て忘れてしまった?淑女のたしなみをお勉強するって話」
本気で忘れている態の相手に、呆れるよりも可笑しさが込み上げて微苦笑する。
「あ……でも……」
ようやく微かに思い出したのか断りの言葉を探し始める様子に、引き戻すために慌て追い打ちをかける。
「見た目だけ綺麗になっても行動や発言が伴わないのは見苦しいよ。俺はそれを見過ごせないだけ。ルリさんにしても、それで生計を立てているんだから『瑠璃工房』の利用者はすべからく淑女になってもらわないと、築き上げた信用がガタ落ちしちゃう」
「でも……今日のお支払いも……」
言いかけたところで、タツルの人差し指に唇をふさがれる。
「そんなこと気にしないで。俺はただ自分にできること全てをしてあげたいだけだから」
軽い口調とは裏腹の哀願するような瞳で見つめられて二の句を次げなくなる。
「今日の分は家族割とモニターってことで、ね?『やりがいがある』ってルリさんも喜んでいたし、技術とセンスを確かめられる良い機会だったみたい」
誤魔化すように目を細め、笑っているように見せかける。
「でも……」
「本当に気にしないで。それとも明日から立場が逆転することに屈辱を感じるとか?」
極力笑いを含んで軽くしているが、タツルの掌がしっとりと汗ばんでいた。
「そんなことは全く思わないけど……」
「ねぇ、ヒナコさん。綺麗になったヒナコさんが月曜日にどれだけ学校中の関心を集めるかわかる?」
はっと息を呑んだヒナコの表情がみるみる凍りついてゆく。
初めて見た真顔のタツルに薄っすらとした恐怖を感じ、背筋に冷たいものが流れた。
「美しくなるように唆したのは俺だけど、見返すために身を任せたのはヒナコさんだ。それと気付いてる?もう、とっくに引き返せないところに居るんだよ?」
淡々と言葉を重ねてくる。真剣な瞳で。
ヒナコは渇いた喉を湿らせるために、こくりと唾を飲み込んだ。
「だから…毒を食らわば皿まで!ってことで、明日から頑張ろう?」
辛うじて明るい口調に持っていき、ダメ押しの様に覗き込んできた。
もう、ヒナコには頷くしか選択肢は与えられていない。
しかし、承諾したのはタツルの説得によるものだけではなかった。
タツルが何故ここまで自分に献身的にしてくれるのか、聞いたらきっとはぐらかされるであろう素朴な疑問を晴らすためでもあった。
「じゃぁ明日、8時半に10番出口付近で。今日の服装のままなら誰も気づかないと思うから、安心して来て」
「……はい」
園生から渡される荷物を受け取り、まだ迷っているヒナコを残して動き出す車。
「来てくれるまで、ずっと待っているから」
去り際に言われ何か返そうと言葉を探したが、結局ヒナコは言葉を見つけられないまま、車を見送った。
「……だいぶ苦戦されていましたね」
あくまで慎み深く、園生が話しかけてきた。
「うるさい、黙れ」
苛立たしげに窓の外を見ながら、珍しく強い口調で一喝する。
「失礼いたしました」
あっさりと引き下がり、ちらりとバックミラー越しに様子を窺った園生が目にしたのは、車窓に目を向けながら心ここにあらずな居住まいのタツルであった。