012 :変身は実を伴ってこそ
三階までの吹き抜けに波型に張り出した二階のオープンテラスに、ビルの南側全面窓から夕日が斜めに差している。
そこに設けられたくつろぎスペースにはパラソル付きの木製カフェテーブル数脚が配されており、その中の一脚にお茶を飲みながら参考書を読み耽るタツルがもの憂そうに腰掛けていた。
その居住まいは、校内での存在感の薄さが嘘のように、通りすがる人々の視線を一身に集める。
一人のマダムが案内の店員に耳打ちした。
「あの子、何者?」
店員は慣れたもので、微かに口角を上げ答える。
「オーナーの秘蔵っ子です」
そのままの意味に受け止めたのかそれ以上のものを勘繰ったのか、タツルを舐める様に注視しながらしたり顔でうなずいた。
「あぁオーナーの、ねぇ。どうりで……」
まとわり付く視線を、不快そうに持ち上げた参考書で撥ね返すタツル。
不意に近づいてくる人の気配を感じ視線を上げると、会心の笑みを浮かべたルリであった。
その横には――
参考書が重力に引かれ、ばさりと床に落ちる。
ビルの間に沈みゆく太陽が最後の光を投げかけ、タツルの横顔をオレンジに染めた。
目の前には、少し明るくした髪を軽やかにカットし、秋色のメイクを施された清楚なお嬢様。
「加藤君……?変……かな?」
何も感想を言わないばかりか静止してしまったタツルを怪訝に思い、おずおずと声をかけてくる。
追ってルリの揶揄が飛んだ。
「タツルさんったら、急に朴念仁になってしまったの?」
「え?いや、あの……」
目を瞬かせ、思い出したようにゆるゆると参考書を拾う。
「ご感想は?結構腐心したのよ?甘×甘にしたかったのだけれど、学校の先生でしょう?このまま教壇に立っても問題ないように今回はモノトーンでまとめてみました」
澱みなくプレゼンしながら斜め後ろに立っていたヒナコを前に押し出す。
ちらりと向けられた目は、直ぐに手元に戻った。
「あ、うん。さすがルリさんって感じ。綺麗になるとは思っていたけど……ここまでとは」
どうでも良い筈の参考書から目線を離さない。いや、離せない。
「想像以上で、嬉しい誤算かな」
そこまで言って、ようやく頬を緩めヒナコに笑顔を向けた。
やっといつもの調子で動き出した時間にホッと胸をなでおろしたヒナコは、タツルの言葉を反芻して赤面し、何かを言わなくてはと慌てて言葉を探す。
「あの、あの、あの……」
そんなヒナコをルリがたしなめた。
「淑女はどもらない!そして、誉められても舞い上がらない!」
「……はい」
シュンとしょ気るのを見て、いつも通りのトーンでプッと吹き出す。
「これからは、淑女としてのマナーを色々と学んでいかないとね」
「え?」
タツルの言葉に戸惑ったヒナコを押しのけ、ルリが身を乗り出してきた。
「うふふ。ここの講師は優秀よ?それともタツルさん直々?」
「そうですねぇ。瑠璃工房の跡取りとしては、実力を測る良い機会かと」
「『マイ・フェア・レディ』ね。うふふ。このイライザは既に教授の心を捕らえている様だけど」
「さぁ、それはどうでしょう?」
「おとぼけさん。場所ならご提供できてよ?」
「ご心配には及びません」
「あら、そう。残念」
「と言う訳だから、ヒナコさん。明日からね」
「えぇ?!どう言う訳?!」
入り込む隙など全く無かった話はどんどん予期せぬ方向に流れ、やっと振られて咄嗟に裏返った声を上げてしまう。
「「淑女は頓狂な声を出さない!」」
二人同時に訓戒されてしまった。
「……はい……」
再び萎れた様にうな垂れる、そんな様子にお構い無しのルリは、
「何よりも、まずはウォーキングね」
と、言うが早いかヒナコを数歩タツル側に押し出した。
生まれたばかりの子鹿の様な危うい足取りに、思わず手を伸ばすタツル。
確かに学校でのヒナコはフラットシューズばかりを履いていた。
今の足元は5センチのミドル・ヒール。
「ヒールのある靴も……初めて?」
自分に引き寄せ、腰を抱きながら意地悪く耳元で問うと、サーっと首筋まで桜色に染まった。
思わずその耳の下に唇を押し当てる。
腕の中で身を震わせたが声を上げないので不審に思い向かい合うと、唇を噛み締めていた。
「ヒナコさん……?」
優しく頬を揉みさする。
すると、まだ赤い顔がクシャッと歪み涙が滲んでくる。
「……だって、どもったり大声出したら、叱られるでしょう……?」
心細げに絞り出された声を聞いて、堪えきれずヒナコをかき抱いていた。
「ごめん。せっかく綺麗になったのに、そんな思いをさせて。ルリさんと二人で苛め過ぎたね」
きちんとセットされた髪を壊さぬように撫でながら、謝罪する。
縋る様に抱きついてきたヒナコは、きっと慣れぬ場所で不安だらけだったのだろう。
また、変身した自分に戸惑っていたところにレッスンの話。
彼女の許容量を超えていたことに、改めて気付く。
「本当にごめん」
抱き直しながら、再び詫びの言葉を口にした。