010 :山も谷も無い道じゃつまらない?
心なしか歩調が早まる。
「センセ!」
門に寄りかかり、心細そうに足元を見ているヒナコに駆け寄った。
先ほどの人物とは別人のように快活な少年として。
「あ、あの……」
準備室に残された時のままの表情で、また断りの言葉を捜し始める。
「ごめんね。だいぶ待たせちゃった?さ、乗って?」
ヒナコの肩を抱いて門から出てきたタツルを、裏門に横付けされた蒼い車の運転手――園生――が黒のスーツに包まれた巨体を屈めて後部座席のドアを開け出迎える。
「え?いや、だから……」
意味を成さない言葉を繰り返すヒナコを手触りの良い革張りの中に収め、自身の体でさらに奥へ押し込みながら、園生に告げた。
「ルリさんの店へ」
「畏まりました」
静かにドアを閉めた園生は自分の持ち場に窮屈そうに身を収め、車を出す。
「あの、あの、あの……」
後ろへ遠ざかってゆく校門とタツルの顔を交互に見ながらひきつけの様に「あの」を繰り返した。
「まぁまぁ、センセ。落ち着いて」
やや苦笑気味になりながら声をかけたが、一向に治まる気配が無い。
完全にパニックに陥っている様子にさすがに危機感を抱いたタツルが細い腕に触れると、跳ね上がるように振りほどいてきた。
とっさに小刻みに震えている体を抱き寄せる。
「嫌!」
鋭く叫んで身を捩り、戒めを解こうともがくヒナコを抱き竦める。
「ヒナコ?」
耳元で名を呼ぶと、抵抗を止めて体を硬くした。その背を優しく撫でる。
「大丈夫だから、落ち着いて?決して悪いようにはしないから」
抱き締めながらゆっくりと言い含めるように囁きかけると、ようやく体から力が抜けた。
落ち着くのを待って腕を解き、顔を見交わすと目元は少し涙で濡れていた。
それを拭ってきた手に頬を預け、目を閉じる。
甘やかな静寂はヒナコによって破られた。
「加藤君って、いつも意表を突く行動でビックリさせるけど、落ち着かせるのも上手ね」
「そう?」
「振り回される私は感情の波が激しくって、まるで絶叫系を完全制覇させられているみたい」
「それは、楽しんで頂いているようで」
ヒナコは寂し気に吐露したのに、嬉しそうな言葉が返ってくる。
驚いて目を見開くと、本当にそのままの顔をしていた。
「どこが……?」
思わず絶句する。
それに如何にも作り笑いといった面持ちで、宣った。
「え?だって、乗物から下りてくる人達は口々に『あ~怖かった』って言いながら満面の笑顔だよ?」
「皆が皆、笑顔にはなりません!」
「笑顔にならない人は乗らないよ?」
自信満々の返答に、『無理やり乗せた癖に』と心の中で呟きながら、気持ちはすっかり平静に戻っていた。
しかし、普段なら来た事も無いような華やかな街並みに目をやると、せっかく落ち着いた気持ちがまたざわめき始める。
「学校をサボったのなんて、初めて」
窓の外を見ながら、心細げにポツリ呟く。
「センセは初めてだらけだね」
艶やかなチョコレート色の座席に目を落としかけたヒナコはタツルの言葉にパッと顔を上げ、不審そうに尋ねる。
「だらけって……?」
「い・ろ・い・ろ・と」
真面目な問いを茶化すように一言・一言を区切ると、なお食い下がってきた。
「色々って?」
「挙げたら切りないよ?」
「例えば?」
「……男性と密着したのが、初めて」
顎をしゃくって見下ろすようにニヤリと笑う。
一瞬にしてヒナコの顔が茹で上がった。
「あ、あ、貴方って……」
わなわなと震える唇は、金魚のようにパクパクしている。
「俺って?」
ニヤニヤ笑いを崩さず、今度は顎を引く。
「本当に、おませだわ!」
「おませって……子どもじゃないんだから」
やっと紡がれた言葉にがっくりと肩を落とした。
その様子を見て一矢報いた気分になったのか、言い募る。
「子どもでしょう?」
「子どもじゃない」
「少なくとも、未成年だわ」
「試してみる?」
「え?」
「子どもかどうか、試してみる?」
またしても思わぬ展開に付いていけず硬直するヒナコの左手を、右手でグイッと引き寄せた。
膝の上に身を捩るように背中から倒れ掛かった右肩を今度は左手で押さえ、上から被さる様に顔を近づける。
「え?あの……」
「黙って」
逃れようともがく動きを、静かな声と強い瞳で封じる。
マナイタ ノ ウエ ノ コイ。
射すくめられたヒナコの頭に一文がよぎったその時、タツル側の後部座席のドアが開けられた。
「……恐れ入りますが……タツル様、到着しました」
慎み深い園生の低い声。
タツルはヒナコを押さえ込んだまま、苛立ちを取り繕おうともしない口調で言い放つ。
「園生、空気を読め!」
「申し訳ございません。ですが……」
言いかけた園生を遮る様に、今度はヒナコ側のドアが開けられた。