博士と私パート5
「我々科学者は、一般の人々から『何でも知っている』と思われている風潮がある」
「はぁ。ありますね」
「そして我々科学者自身も、時として『自分は何でも知っている』と錯覚してしまう事がある」
「はい、わかっています。私もそう錯覚しないよう、自戒しています」
「うむ。君はわかっているようで安心した。我々科学者は、決して『何でも知っている』わけではない。そして知識の面で言えば、我々は一般の人々となんら変わらないと言っていいかもしれない。我々が知っている事は全て、一般の人々も知る事ができるのだから」
「はい」
「むしろ我々は何も知らないからこそ、こうして日夜研究を続けている。もし全てを知っていたら、誰が研究などしようか」
「はい、その通りです」
「そして僕は先日、また僕が知らない事を見つけた」
「なんでしょう」
「君はこの単語を知ってるかね?」
「『パリー工芸』? …どこかで聞いたことがある気がします」
「そうか。いや、先ほど表を散歩していたら、こう書かれた看板を見かけてな」
「ああ、そう言えばありましたね。これが?」
「気になるだろう」
「なりません」
「なるじゃないか」
「何故ですか」
「この名前。果たして『ぱりい こうげい』なのか、『ぱりいえ げい』なのか」
「はぁ」
「なにかね、その気のない返事は」
「博士。ひょっとして学生時代、『フーリエ解析』を『ふうりこうかいせき』と読んだり、『コリオリ力』を『こりおりか』と読んだりしませんでしたか?」
「何故知っている」
「直感です」
「そうか。…で、どう思う」
「どう思うと私に聞かれましても」
「看板によると、リフォーム業者らしい」
「なら『こうげい』なのでは? 意味からすれば」
「そうかもしれない」
「そうだと思います」
「だが思い込みは危険だ」
「そうでしょうか」
「科学において思い込みは危険だ」
「別に科学とは無縁な気がしますが」
「物理学者として、ここは緻密に論理を積み重ねていく必要がある」
「それはむしろ数学者の考え方です」
「似たようなものだ」
「…。で、物理学者として、どのように結論を出すのですか?」
「僕はその場で考えた」
「はぁ」
「リフォーム業者であるから、『こうげい』。その可能性が高いように、もちろん僕も思った」
「ならいいではないですか」
「しかし。もしかしたら彼らリフォーム業者は、リフォームを芸術と思っているかもしれない。我々素人が気付かないような細部にまで至るこだわり。計算しつくされた配置。なるほどそこにはある種の美を感じるだろう」
「まぁ、部屋の掃除はある種の美でしょうが」
「ならば『ぱりいえ げい』にしても不思議はない」
「はぁ」
「いくら考えても結論が出なかった」
「で、私に聞いたんですか?」
「いや。これはただの世間話であり、実は既に解は得ている」
「そうですか」
「気になるだろう」
「気になりません」
「気になってくれ」
「……で、どうやって得て、どんな解だったんですか?」
「論証が不可能ならば、実証するまで。故に僕は携帯電話を取り出し、その看板に書いてあった電話番号に電話をかけた」
「で?」
「結果、相手は『ぱりい こうげい です』と電話に出た」
「なら解決ですか」
「解を得た僕は速やかに『間違えました』と言って電話を切った」
「よかったですね。では私は研究に戻ります」
「待ちたまえ」
「まだ何かあるんですか」
「この近所に、新しいレストランがオープン予定なのを知っているかね?」
「ええ、知っていますよ。名前は確か…」
「『レストラン プラネチカ』だ」
「よくご存知ですね」
「気になるだろう」
「なにがです?」
「僕はいま無意識に『ぷらねちか』と発音したが、果たしてそうか。実は『ぷらねちりょく』なのではないか」
「……その可能性が無いとは言い切れませんが、99%以上の確率で『ぷらねちか』だと思われます」
「だが論証はできない。故に僕は実証してみたいと思う」
「はぁ。また電話をかけるんですか?」
「いや、実は僕は電話は苦手だ。だから実際にレストランに食べに行きたいと思う」
「行ってらっしゃい」
「………」
「………」
「………」
「………この沈黙はなんですか?」
「一緒に調査に行こう」
「………。要するに一緒にご飯を食べに行きたいんですね」
「いや、違う。調査だ。研究だ」
「はいはい、わかりました。いつにしますか?」
「実はここにオープン当日のみ有効の割引券がある。だから、その日に行こう。研究費用はなるべく抑えた方が良いだろう」
「はいはい、わかりました」
ちなみに「パリー工芸」は、私の実家の近所に実在するお店の名前
2007年初秋のお話




