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継ぎの野

作者: たなかじろう
掲載日:2026/07/25


 街道が村の名を失ってから、三日になる。


 センは足を止めた。暮れかけた野の上、空気が淀んでいる。砂埃でも靄でもない。彼女の目にしか映らない類の濁りだ。


 こういう野では眠らない。それだけは守って歩いてきた。今夜は月のあるうちに、もう少し距離を稼ぐつもりだった。


 だが、淀みの流れが妙だった。野に広がっているのではない。一点へ向かって、ゆるやかに吸われている。街道からわずかに外れた雑木の陰。崩れかけた炭焼き小屋が、そこにあった。


 吸われる先には、生きた体があるはずだった。



 小屋の中で、老婆がひとり、壁にもたれて座っていた。


 旅装だった。しかも上等の、長旅に耐える仕立ての。顔色は土のようで、膝に置かれた両手は、指先まで力が抜けている。


「……ああ」老婆は戸口のセンを見て、掠れた声で言った。「来たのが魔物でなくてよかった」


「もうすぐ来ますよ。このままだと」


「言うてくれる」老婆は薄く笑った。「視えるのか、そなた」


 センは答える代わりに小屋へ入り、傍らに膝をついた。近くで見れば、なおのことよく視えた。老婆の輪郭が、ほどけかけている。ひびの入った器から、中身が糸を引いて滲み出している。滲んだ分が小屋の周りに漂い、野の淀みと混ざり合っている。


「医者は要らない」老婆はセンの目の動きを読んで言った。「これは病ではなく、順番だ。……わたしはイラ。西で井戸を掘って生きてきた。そなたは」


「セン。旅の者です」


「セン」イラは繰り返した。それから初めて、声に苦いものが混ざった。「わたしは順番を間違えた。孫に会いに行く途中だったのだ。東の町まで、あと三日。三日が、遠かった」



 しばらく、どちらも黙っていた。小屋の外で、暮れきった野が鳴いていた。


「ここで独りで果てれば」イラが先に口を開いた。「わたしの中のものは、ぜんぶ野に出る」


「凝りますね」


「凝れば魔物だ。ここは街道沿いだぞ。次に通るのが行商か、東から来る子連れか」イラは窓の外を顎で示した。「そういう死に方は、したくない」


「孫の方を呼びに、走っても──」


「三日と言ったろう。もって、今夜だ」イラはセンをまっすぐに見た。「セン。そなた、受けてみる気はあるか」


「……血の繋がりもない、行きずりの相手ですよ。ほとんどこぼれる」


「血が効くと、思うか」


 センは口をつぐんだ。イラの目が、値踏みするように細くなった。


「うちでは、子が歩くより先に継ぎの稽古をさせる。渡す側と、受ける側と。毎年、冬のはじめに、家じゅうでな。誰も死なぬ年もだ」イラは自分の胸に、そっと手を当てた。「五十年ぶん、渡す側の形はできあがっている。足りないのは、そなたの側だけだ」


「それを、一晩で」


「一割も残れば上等よ。野で凝らせるよりはいい。魔物一匹ぶん、街道の誰かが助かる」イラはふっと笑った。「それにな、そなたには分がある。視えるのだろう、流れが。普通は、視えぬものを手探りでなぞるところから始めて、そこに十年かかる。そなたは、そこを飛ばせる」



 稽古は、拍子抜けするほど地味だった。


 向かい合って座り、手首を合わせる。イラが手首から、糸一筋ぶんだけを押し出す。センはそれを、押し返しも吸い込みもせず、ただ受けて、留める。留めたら、返す。その往復を、何十度も繰り返す。


「井戸掘りと同じだ」イラは途中で笑った。「掘って、汲んで、また掘る。形とは飽きることだ」


 センの目には、糸の太さも、揺れも、掠れも視えた。視えるから、直せた。夜半を過ぎる頃には、糸は途切れずに往復するようになっていた。そのぶん、イラの顔色は確実に悪くなっていった。稽古そのものが、ひびを広げていた。


 夜明け前、小屋の戸口に、それは立っていた。


 人の背丈の、人でない影。輪郭の内側が、センの目には眩しいほど濃い。淀みなどという生易しいものではなかった。湖だ。歩く湖。


 腰を浮かせかけたセンを、イラが手で制した。


「争いには来ぬよ。……久しいな。おまえか、おまえと同じ誰かか」


「わからない」影は言った。低い、乾いた、けれど明瞭な声だった。「わたしは誰の名も覚えていない。会った夜のことも。……こぼれる分を、拾いに来た。あなたが渡し、その者が受け、それでもこぼれる分がある。凝る前に集める。わたしの集めは、こぼさない」


「知っている」イラは言った。


「魔素の行方だけは、間違えたことがない」影は続けた。誰に言うともなく、独りごとのようだった。「どこの家の分がどの野に溜まり、どの野の魔物がどの分から凝ったか。覚えているのとは、違う。わたしがそれで出来ている、というだけだ」


 センは、湖の立てる音のない気配を、ただ視ていた。


「セン」イラが言った。「時間だ」



 渡しは、稽古と同じ形で始まり、稽古とは比べものにならない速さで進んだ。


 手首から手首へ、糸が通る。一筋が二筋、二筋が束になる。イラの側の糸は乱れず、急がず、絶え間なく注ぎ込んでくる。センは受けて、留める。留め損ねた分が、指の間から、肩口から、細かい飛沫になってこぼれる。こぼれた飛沫は床に落ちる前に、戸口の影へ、音もなく吸われていった。


 どれほど続いたか、わからない。


 注がれるものの奥で、一度だけ、別のものが触れた。冷たい岩の匂い。縦穴の底から見上げる、丸く切り取られた空。水脈が近づくときの、土の重さの変わる感じ。


 孫の顔は、渡ってこなかった。東の町までの三日を、イラがどんな気持ちで歩いたのかも。渡ってきたのは、手の癖だけだった。掘って、汲んで、また掘る。その飽き方だけだった。


 糸が、ふつりと絶えた。


 イラの体は、壁にもたれたまま、ただの器になっていた。ひびから最後のひと霧が立ちのぼり、大半は戸口の影へ流れ、ほんの一房だけが、窓から野へ逃げた。影は追わなかった。


「あれは凝る」影は言った。「小さい。鼠ほどだ。三日のうちに、東へ流れる」


「東には町がある」


「町の手前に、猟師の見回り道がある。鼠ほどなら、猟師が落とす。落とされた分はまた野へ出て、いずれわたしが拾う」影の声は、変わらず乾いていた。「魔素は失せない。ただ、回り道をする」


 影は身を屈め、イラの亡骸の前で、何かを確かめるように、しばらく動かなかった。それから戸口を出て、白み始めた野へ歩き去った。影の通ったあとの野が、すうっと澄んでいくのを、センの目は視ていた。



 センはイラを小屋の裏に葬り、井戸掘りの道具袋だけを預かって、東へ発った。


 三日歩いて、町に着いた。イラの孫は、祖母によく似た目をした若い左官だった。センは経緯を話し、道具袋を渡した。受け留められたのは一割ほどだろうということも、残りの行方も、隠さず話した。


「一割」孫は道具袋を膝に置いて、長いこと黙っていた。「……ばあさまは、いつも言ってた。稽古を怠るな、待ってはくれんぞ、と。おれが町に出て稽古をやめたから、ばあさまは自分の足で来ようとしたんだ」


 責める相手を探す目ではなかった。順番を数え直している目だった。


「あんたの中の一割は、あんたのものだ」孫は顔を上げた。「ばあさまが、渡すと決めて渡したんだから」


 センは何か言いかけて、やめた。代わりに、町を出る前に、井戸を一本だけ掘らせてほしいと頼んだ。


 町外れの、水に不自由している一角に穴を掘った。掘りながら、センは自分の手が、自分の知らない飽き方をするのに気づいた。掘って、汲んで、また掘る。土の重さの変わる場所で、手が勝手に止まる。そこから二尺で、水が出た。


 センはその後も、長く旅をした。行く先々で、頼まれれば井戸を掘った。冬のはじめには、泊めてもらった家の子どもらと、手首を合わせる遊びをした。遊びだと言って、教えた。誰も死なない年にこそ、するものだからだ。


 淀みの濃い野に差しかかるたび、センは目を細めて、流れの先を視る。吸われていく先に、たまに、歩く湖が立っている。


 センはそれに軽く頭を下げて、道を続ける。


(了)

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