支えきれぬもの
星響機関を訪れてから、数日が過ぎた。
東京は相変わらずだ。騒がしく、無関心で、人間の目に映らぬものなど存在しないかのように動いている。
影広はいつものようにビルの屋上を歩いていた。
遠くから街を見下ろすその姿は、もうこの世界の一部ではないかのようだ。
何も考えていなかった。
いや……考えることさえ、今の彼には重すぎたのかもしれない。
それでも、彼は歩みを止めない。
約束があるからだ。
それが、彼に残された最後の一つだったとしても。
街を眺めていた彼の目が、ある場所で止まった。
渋谷。
大通りの喧騒から少し外れた、静かな路地。
小さなカフェや控えめなショーウィンドウが並び、人々が穏やかに歩いている。
なぜか、そこから目が離せなくなった。
理由など分からない。
だが、彼は降りた。
音もなく地面に降り立ち、雑踏の中を歩く。
まるでそこに存在しないかのように、誰にも気づかれずに。
そして――足を止めた。
通り沿いの小さなカフェ。ガラス越しに、彼女が見えた。
星響。
座っている。
一人で。
穏やかに。
そこに、実在している。
世界の時間が、ゆっくりと減速していく。
確認する必要すらなかった。
どれほどの時が流れても、彼には分かった。
身体は動かなかった。
だが、内側の何かが――激しく反応した。
微かだが、聞き慣れた、痛みを伴う圧迫感。
立ち去るべきだ。
いつもそうしてきた。
近づきすぎれば、代償を払うことになると知っているから。
だが、この時は足が動かなかった。
その時だ。
星響がふと、顔を上げた。
ゆっくりと。
急ぐこともなく。
そして一瞬――彼の方を見た。
逸らすことなく、真っ直ぐに。
世界が静まり返る。
影広の心臓が跳ね、呼吸が止まった。
肺から空気が根こそぎ奪われたような感覚。
身体が硬直する。
視線を外すことができない。
(……彼女に……見えているのか?)
そんなはずはない。すぐに否定した。
人間には見えない。決して、見えるはずがないのだ。
これは偶然だ。自分の心が作り出した幻影に過ぎない。
だが――。
それは、あまりにも痛すぎた。
心臓が不規則に脈打ち、リズムを失う。視界が歪む。
膝から力が抜け、彼は一歩後ずさった。
(……くそっ……)
胸の圧迫感が増していく。
それは感情だけではない。物理的な、本物の痛み。
内側から心臓を握りつぶされるような感覚。
そして、彼は感じた。
**【エコー】**だ。
近くにいる。
おぞましい気配。
だが、驚きはなかった。
まるで、この瞬間を待っていたかのように、それは必然として現れた。
闇が漏れ出す。
速すぎる。激しすぎる。
影広は胸を押さえ、必死に立ち続けようとした。
「……ホシラ……逃げろ……」
声は掠れ、今にも壊れそうだ。
周囲の空気が重く沈み込む。
通行人たちが、理由も分からぬまま不安げな表情を浮かべ始めた。
「……貴様に、彼女は触れさせない……」
直後、冷ややかな声が脳内に響く。
『代わってやるよ、ここからは俺の番だ』
身体が崩れ落ちそうになる。
だが、倒れはしなかった。
何かが彼を支え、何かが彼を乗っ取っていく。
薄れゆく意識の中で、彼が見たのは――。
カフェの中で、不安そうに胸に手を当てる星響の姿だった。
(……!)
それが、彼を動かした。
自制ではない。絶望に近い叫びだ。
影広は背を向け、人がいない路地へと駆け出した。
だが、もう遅すぎた。
闇はすでに制御を失い、溢れ、呼吸を始めていた。
身体が動く。
技術も、意志も介さない。
そして――。
世界が、弾けた。
凄まじい衝撃波が空気を押し潰し、爆発が荒れ狂う。
足元の地面が陥没し、アスファルトを切り裂き、周囲のビルを内側から引き裂くように亀裂が走る。
建物の外壁が剥がれ落ち、車が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
音は、後からやってきた。
あまりの破壊に、世界が悲鳴を上げる暇もなかったかのように。
エコーは、戦う間もなく消滅した。
塵一つ残さず、虚無へと還った。
だが、破壊は止まらない。
制御を失った力が、器(体)に収まりきらずに膨張し続ける。
悲鳴を上げる人々。
混乱、痛み、恐怖。
その中心に、影広がいた。
あるいは、彼の「残骸」が。
全身が震え、皮膚の隙間から黒い粒子が噴き出している。
瞳は完全に闇に呑み込まれ、周囲の影がどろりと膨れ上がる。
『代わってやる。俺が、全てを終わらせてやる……』
再び、あの声。
空気が呼吸できないほどに重くなる。
最悪の何かが、今まさに産声を上げようとしたその時――。
歌が、聞こえた。
破壊された街のビルにある大型ビジョン。
そこから流れてきた、遠く、柔らかな歌声。
星響の歌だった。
穏やかで、澄んだ、あの頃のままの歌。
影広の瞳が揺れる。
内側の闇が、その声に反応して躊躇した。
圧力が弱まり、黒い粒子が身体へと引き戻されていく。
「……っ……はぁ、はぁ……」
彼は膝をつき、破壊された地面に手を突いた。
まだ、影広のままだ。
かろうじて、彼であり続けた。
周囲では人々が叫び、スマートフォンでその惨状を撮影している。
誰も、何が起きたのか理解できていない。
影広はゆっくりと立ち上がった。
「……何をした」
背後から声が届く。
冷静だが、確かな怒りを含んだ声。
龍前 カイト(りゅうぜん カイト)。
東京の守護者。
「白昼堂々、暴走したな」
影広は答えない。振り返りもしない。
「人間が負傷した。これは、看過できることではないぞ」
影広は一瞬の後、その場から姿を消した。
【星響機関・指令室】
機関内には、重苦しい空気が立ち込めていた。
モニターには渋谷の惨状が映し出されている。
巨大なクレーター、半壊したビル、パニックに陥る群衆。
通信回路を通じて、各地の守護者たちが議論を交わしていた。
「一線を越えたな」
「白昼の渋谷だぞ。隠蔽しきれる規模ではない」
「人間たちに記録された。彼はもう不安定すぎる」
「このままでは……エコーと何ら変わりない存在になるぞ」
沈黙。
その中心で、朝倉光雅は静かに画面を見つめていた。
微動だにせず、ただ思考を巡らせる。
「彼は暴走した」
「リスクだ。排除すべきではないか」
飛び交う声を、朝倉が遮った。
「まだだ」
全員の視線が彼に集まる。
「彼は弱さゆえに暴走したのではない」
一呼吸置いて、朝倉は続けた。
「彼は……すでに限界に達しているのだ」
再び、重い沈黙が流れる。
朝倉はモニターの中の、破壊の中心に立つ影を射抜くように見つめ、低く呟いた。
「……我々が、彼を『始末』することになるだろう」
一つ、また一つとモニターが消えていく。
通信が切れ、声が消え、最後には静寂だけが残った。
暗闇に包まれた部屋で、朝倉光雅だけが、消えかけた画面を冷徹に見つめ続けていた。
第3話をお読みいただき、ありがとうございます。
ついに影広の力が暴走し、渋谷の街が大変なことになってしまいました。
彼の中に眠る「エコー」の存在、そして東京の守護者・カイトの登場……。物語はここから大きく動き出します。
大型ビジョンから流れる星響の歌声が、今の影広にとって唯一の救いなのかもしれません。
たとえ彼女が、そのことに気づいていなくても。
皆さんは、この二人の距離感をどう感じましたか?
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次回の更新も、どうぞよろしくお願いします。




