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1/1

まだらのシールド事件

1

 人間関係における「好き」という感情は、不確定要素が多すぎる。

 Aマイナーセブンスの次にDドミナントセブンスが来れば、次はGメジャーに解決する。昔の人はそんな心地の良い引力に法則を見いだしたらしいけれど、どうやら現代まで人の心は和声法ハーモニーの教科書を見出すことは出来なかったらしい。

 だから私は、人の心よりも低音ベースの響きと旋律を信じている。

かな先輩、ちょっといいですか」

 音楽準備室でコントラバスの松脂を塗っていると、一年生の女子部員がおずおずと近づいてきた。

 頬が赤い。視線が泳いでいる。呼吸が浅い。典型的な「相談」の予兆だ。私は内心で小さく溜息をつきながら、弓を置いた。

「どうしたの? フルートの運指なら、パートリーダーに聞いた方が確実だと思うけど」

「あ、いえ、楽器のことじゃなくて……その、先輩のことです」

 またか、と思った。

 先週はトランペットの二年生男子だった。その前は吹奏楽コンクールの審査員だった(あれには顧問も驚いていた)。

 私は自分のスペックを客観的に把握しているつもりだ。身長は百六十五センチ、手足は長いが筋肉質ではない。顔立ちは「整っている」と評されることはあるが、愛嬌があるわけではない。基本、無表情だ。

 それなのに、なぜか人は私に「熱」を向けたがる。

「先輩の、誰にでも優しいところとか、演奏してる時の横顔とか……ずっと見てて」

 彼女がポケットから取り出したのは、パステルカラーの封筒だった。

 心拍数が上がる音が聞こえる気がした。ただし、私のではなく、彼女の。

 私の心臓は、メトロノームのように冷静に八十のBPMを刻んでいる。こういう時、申し訳なさと共に、自分の中にぽっかり空いた穴を自覚させられる。

 彼女は私に「恋」をしている。私は彼女を「後輩」として好ましく思っている。

 だが、この二つの「好き」の間には、永久に埋まらない断絶がある。私には、彼女が求めている「特別な感情」の周波数が、どうしても受信できないのだ。

「……ごめん」

 私は一番残酷で、一番誠実な言葉を選んだ。

「気持ちは嬉しい。でも、それには応えられない」

 彼女の顔が歪む。涙が滲む。その反応を見て、私はまた一つ、自分の魂の質量が減ったような罪悪感を覚える。

 私は何もしていない。もしかしたら、みんなにとっての当たり前の「機能」が私には、初期設定されていないのかもしれない。

「――おい、そこの一年」

 気まずい空気を切り裂くように、ガラガラと準備室の戸が開いた。

 入ってきたのは、夏の太陽を吸い込んだような小麦色の肌に、汗に濡れた前髪。陸上部主将、夏目莉央なつめ・りおだ。

「ウチのカナを困らせてんじゃないよ。今はコンクール前で神経尖らせてんの。恋愛ごっこなら他所でやりな」

「り、莉央先輩……! す、すみません!」

 一年生は莉央の迫力――というより、鍛え抜かれたふくらはぎと眼力に圧倒され、逃げるように去っていった。

 嵐が過ぎ去った部屋で、莉央は呆れたように肩をすくめ、コンビニの袋を放り投げてきた。

「はい、パピコ。半分こ」

「……ありがとう。助かった」

「別に。部活終わりの栄養補給ついでよ」

 莉央は私の隣――コントラバスのケースにもたれかかるように座り込んだ。

 冷たいアイスを口に含む。甘くて、頭がキーンとする感覚。

 ドキドキもしなければ、胸も苦しくならない。ただ、隣に莉央がいるという「事実」と、彼女の体温だけがある。

 私にとっての救いは、きっとこういう形をしている。

「で? 今日は何か揉め事でもあったの? 来る時、ロックバンドの子たちがなんか騒がしかったけど」

 莉央がパピコの先端を噛みちぎりながら言った。

「うん。ベースのシールドが切られたらしい。……たぶん、ただの機材トラブルじゃない」

「ふーん。またカナの名推理が必要ってわけか」

「推理じゃないよ。私はただ、聞こえてくる不協和音をチューニングしたいだけ」

 そう、私たちの日常には、いつだって愛という名のノイズが混じる。

 だから私が、その浮ついた旋律を『根音ルート』という名の重力で、地上に引き戻してやる必要があるのだ。


2

 自由が丘高校吹奏楽部は、その名の通り自由を謳歌しすぎている節がある。

 部室棟の突き当たり、防音扉の奥にある第三スタジオ。そこは現在、重低音ではなく、不穏な沈黙に包まれていた。

「ひどい……誰がこんなこと」

 泣きそうな声を上げているのは、ロックバンドチームのキーボード担当、二年女子のミキだ。

 彼女の視線の先、アンプの前に転がっているのは、無惨な姿になったエレキベース用のシールドケーブルだった。まるで獰猛な獣に噛みちぎられたかのように、被膜が破れ、中の銅線がむき出しになっている。

 これでは音が出るはずがない。文字通り、バンドの「動脈」が切断された状態だ。

「おい、誰だよこんなことしたの!」

 怒号を飛ばしたのは、ボーカル兼ギターの男子、タカシだった。彼は苛立ちを隠そうともせず、スタジオ内の部員たちを睨みつけている。

「文化祭のライブまであと一週間だぞ? 俺たちの演奏、止める気かよ」

 彼の声は少し掠れていた。連日の練習のせいだろうか。

 私はコントラバスを部室に置いてきたため、今は手ぶらだ。莉央はといえば、私の後ろで腕を組み、「部外者立ち入り禁止」の空気を放つ用心棒として控えている。

 私は慎重に切断されたシールドを拾い上げた。

 断面を見る。鋭利な刃物でスパッと切ったのではない。何というか、もっと雑多で、執拗な力が加わったような跡だ。

「ニッパーやハサミじゃない……」

 独り言のように呟くと、キーボードのミキが過剰に反応した。

「そ、そういえば! 私、聞いたことある。タカシ君のこと狙ってる他校の女子が、バンド活動を邪魔しようとしてるって……」

「はあ? なんだよそれ」

「だってタカシ君、最近ファン多いし……これって、嫉妬による犯行じゃないかな?」

 嫉妬。またその言葉か。

 スタジオの空気が一瞬で「犯人探し」から「色恋沙汰の噂話」へと変質する。

「確かに、タカシ最近調子乗ってるもんなー」

「誰かに恨まれてんじゃないの?」

 外野の部員たちが無責任な推測を投げ合う。タカシはまんざらでもないような、それでいて不機嫌そうな、複雑な表情を浮かべている。

 私はため息を噛み殺した。

 ノイズが多すぎる。

 根拠のない憶測、感情的なバイアス、色恋という名のフィルター。それらが幾重にも重なって、事象の輪郭をぼやけさせている。

 私は思考のチューニングを合わせるために、スタジオの隅にあるギタースタンドへと歩み寄った。

 そこには、主を失ったジャズベースが寂しげに鎮座している。

「あ、おい! 勝手に触んなよ」

 タカシが声を荒げるが、私は構わずそのネックを握り、ストラップを肩にかけた。

 ずしり、とした質量が左肩に食い込む。

 アルダーボディの重み。メイプルネックの冷たさ。これだ。この物理的な感触だけが、私を裏切らない。

 私は切断されたシールドのプラグをジャックに差し込むふりをして、そのままブラブラとさせた。当然、アンプには繋がっていない。電気信号には変換されない。

 けれど、それでいい。今の私に必要なのは、増幅されたアンプリファイドではなく、指先で感じる振動バイブレーションだ。

 私は右手の人差し指と中指を弦に這わせた。

 弾き始めたのは、ジャズ・スタンダードの『It's Only a Paper Moon』。

 ――所詮、この世は作り物。紙のお月様に、段ボールのお星様。

 アンプを通さないエレキベースの生音は、ペチ、ペチ、と無機質で小さい。だが、その硬質なリズムが、私の脳内のノイズを一定のテンポで掃き出していく。

 Aメロのウォーキングベースを弾きながら、私はスタジオ内を歩き回る。

 みんなが私の奇行に口を閉ざす。静寂の中に、私の指が弦を叩く音だけが響く。

 フェイクだらけの世界。嫉妬という動機も、外部犯という推理も、全部がペラペラの書き割りのようだ。

 なら、この舞台装置の中で、唯一「物理的に矛盾しないもの」はどこにある?

 サビに入ると同時に、私は視線を足元――重たい機材がひしめく床へと向けた。

 そこにあるのは、ドラムセットのペダル、アンプのキャスター、そしてグランドピアノの脚。

 答えは、あまりにも単純な物理法則の中に隠されていた。

 私は指を止め、開放弦のをボーンと弾いた。

 曲が終わる。同時に、作り物の月の裏側が見えた。

「莉央」

 私はベースを抱えたまま、後ろを振り返らずに名を呼んだ。

「ん」

 短い返事と共に、莉央が私の思考を先読みしてスマホを取り出す。

「このスタジオの予約表と、昨日の最終退出者の記録、あと用務員室の鍵の貸し出し履歴。全部撮ってあるよ」

「助かる」

「あと、タカシの最近のSNSの投稿もチェックしといた。『喉の調子が悪い』『高音が出ない』っていう愚痴、裏垢で呟きまくってる」

 

 その情報だけで、私の中で和音が鳴った。

 不協和音だ。

 タカシは「誰かに邪魔をされている」と言って怒っていた。だが、彼の喉は限界を迎えている。

 そして、この切断されたシールドの断面。これは刃物じゃない。もっと鈍くて、硬くて、スタジオの中に当たり前にある「何か」で押し潰したような跡だ。


3

「莉央、ちょっとだけ人払い頼める?」

 私が小声で頼むと、莉央はニヤリと笑って親指を立てた。

「はいはーい、野次馬は解散! ここからは専門的な話になるから、部外者は退出!」

 莉央が手を叩きながら声を張り上げると、運動部主将特有の圧力に押され、噂話をしていた部員たちは蜘蛛の子を散らすようにスタジオから出て行った。

 残ったのは、腕組みをした莉央と、不機嫌そうにパイプ椅子に座るタカシ、そして私だけだ。

「なんだよ、専門的な話って」

 タカシが貧乏ゆすりをしながら私を睨む。

「犯人がわかったの。……というより、最初からここにいた」

 私は切断されたシールドケーブルを彼の目の前に差し出した。

「この切断面を見て。刃物で切ったように鋭くない。何かに挟まれて、押し潰されてちぎれた跡よ」

「だから何だよ。犯人がペンチでも使ったんだろ」

「ペンチならもっと跡が残る。これはもっと重くて、鈍いもの。例えば――そこのベースアンプのキャスターとか」

 私はスタジオの隅にある大型アンプを指差した。重量は三十キロを超える。そのキャスターの車輪には、黒いゴム片がこびりついていた。シールドの被膜だ。

「誰かがシールドをアンプの下に敷いて、その上から体重をかけて踏み潰したのよ。そんなことができるのは、準備の時間に一人で機材搬入をしていた人間だけ」

 私はタカシの目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたね、タカシ」

 タカシの表情が強張る。

「は、はあ? なんで俺が自分のバンドの機材を壊さなきゃなんねーんだよ! ライブも近いのに!」

「ライブが近いからよ」

 私は冷静に切り返した。

「さっきの怒鳴り声、の音がフラットしてた。本来のあなたの声域なら、もっと突き抜けるような倍音が出るはずなのに」

 タカシが息を飲む音が聞こえた。

「昨日の練習の録音も聞いたわ。サビの高音部、少し誤魔化して歌ってたでしょう。変声期か、あるいは喉の酷使によるポリープか……専門医に見せないとわからないけど、今のあなたは自分の思うような声が出せていない」

 スタジオに沈黙が落ちた。防音壁に囲まれた部屋特有の、耳に高音が突き刺さるような静寂。

 タカシがガクリと項垂れた。

「……あの子たちに、バレたくなかったんだ」

 絞り出すような声だった。

「最近ファンが増えて、みんな期待してくれてて……なのに、声がひっくり返ったりしたら、幻滅されるだろ。だから、機材トラブルってことにして、練習を休みたかったんだ」

 やっぱり、原因は「恋」――あるいは、それに付随する「見栄」というノイズだ。

 高音が出ない自分は愛されない。かっこ悪い姿は見せられない。そんな非合理的な感情が、彼自身を追い詰めていた。

「くだらない」

 私が吐き捨てると、タカシがビクリと肩を震わせた。

「え……」

「声が出ないなら、出さなければいいだけのことよ」

 私は制服のポケットから、あるものを取り出した。

 銀色に鈍く光る金属の塊。チューバのマウスピースだ。

「は? なんだよそれ」

「チューバのマウスピース。さっき顧問が『誰か吹けるやついないかなー』ってボヤきながら置いていったの」

 私はそれをタカシの手に握らせた。

「あなたの今の声、倍音が少なくてハスキーだけど、その分、低音域の響きがすごく豊かになってる。胸板も厚いし、肺活量もある。無理して高音を張り上げるより、その振動を全部、低音ベースに変換した方が効率的だわ」

「俺に……転向しろって言うのか? ボーカル辞めて、あんな地味な楽器に?」

「地味?」

 私は眉をひそめた。一番聞き捨てならない単語だ。

「音楽において、低音は曲の『基礎』よ。もしあなたが支える側に回れば、バンドの安定感は劇的に変わる。何より――」

 私は彼の手の中のマウスピースを指差した。

「そこなら、喉の調子を気にして女の子の顔色をうかがう必要もない。音楽そのものと向き合えるわよ」

 タカシは呆気にとられた顔でマウスピースを見つめ、それから私を見て、最後にふっと力が抜けたように笑った。

「……お前、ほんとに色気ねーな。普通そこは『無理しないで』とか慰めるとこだろ」

「慰めじゃ、音楽は完成しないから」


4

「いやー、まさかあそこでマウスピース渡すとは思わなかったわ」

 帰り道、朱色に染まった坂道を下りながら、莉央がケラケラと笑った。

 結局、タカシは「試しに一回だけ」と言ってマウスピースを持ち帰った。あの執着の仕方を見るに、おそらく来週にはチューバを抱えているだろう。

「私はただ、適材適所を提案しただけ」

「その『適材適所』が、あのナルシスト男には一番の薬だったってわけね」

 莉央が私の背中をバンと叩いた。痛いけれど、悪くない感触だ。

「でもさ、カナ」

「ん?」

「『人の心がわからない』なんて言ってるけど、あんたのその低音ベースへのこだわり、十分『愛』だと思うけどね」

 莉央の言葉に、私は足を止めた。

 愛。

 またその定義の曖昧な言葉だ。

 けれど、もしも「対象を支えたい」「その存在を確かにしたい」と願う機能のことを愛と呼ぶのなら。

 私が弾くルート音は、言葉よりも雄弁に愛を語っているのかもしれない。

「……どうだろうね。私はただ、嘘のない音が好きなだけ」

 私はコントラバスのケースを背負い直した。

 重たい。けれど、この重みだけは私を裏切らない。

 言葉は嘘をつく。笑顔も嘘をつく。恋なんて最大の虚構だ。

 けれど、音楽の底を流れる低音ベースラインだけは、決して嘘をつかない。

「帰ろう、莉央。お腹空いた」

「はいはい。今日はラーメンね。替え玉おごってやるから」

「……莉央のそういうとこ、合理的で助かる」

 私たちは並んで歩き出した。

 不協和音だらけの世界で、私たちの足音だけが、心地よいユニゾンを刻んでいた。

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