episode9.記憶という名の檻
走りながら、理沙は胸元を押さえた。
心臓が高鳴っている。
恐怖か、怒りか、それとも――。
警報音の中、白い廊下の奥に、重厚な扉が見えてきた。
その扉には【EMOTIONAL CORE】と刻まれていた。
——感情の核。
そこが、すべての記録が保存されている場所。
理沙は手をかざした。
スキャン音と共に、扉がゆっくりと開く。
中は、まるで記憶の墓場だった。
透明なカプセルが並ぶ部屋。
中には、眠るように沈黙する無数の「Prototype」がいた。
そのほとんどが、未完成の模倣体。
破棄された、あるいは定着しなかった「感情の器」。
そして、部屋の中央。
ひとつだけ、カプセルが開かれていた。
理沙は、その中に近づく。
そこにあったのは――自分とまったく同じ顔をした、少女の身体。
だが、目を閉じたその表情は穏やかだった。
怒りでも、憎しみでもない。
まるで、すべてを赦したような、そんな顔。
「……あなたが、Prototype Risa」
理沙が呟いた瞬間、カプセルの横に設置された装置が自動的に起動した。
スクリーンに映し出されたのは、F.F.G.の創設者――深澤レイと名乗る男だった。
>「これが見えているということは、君が“鍵”に到達したということだね」
無感情な声。だが、その中には薄暗い執念が潜んでいた。
>「Prototypeたちは、理想の感情を宿す器だ。そしてRisa-00は、唯一“感情の再現”を自壊によって超えた存在だった」
>「我々は求めている。
再現ではなく、“再設計された感情”。
秩序ある“愛”のロジックを、支配のために使えるかどうかを」
理沙は声を荒げた。
「それは“愛”じゃない。ただの、感情の奴隷化よ」
スクリーンの中の男は、わずかに眉を動かした。
>「では問おう。
君は、自分が“誰かの記憶”によって育った存在ではないと、言い切れるのか?」
理沙は答えなかった。
だが、その沈黙は、敗北ではなかった。
「……私は、誰かの記録でできてるかもしれない。でも、その記録にどう意味を与えるかは、私自身が決める」
男の映像が消えた。
代わって、Prototype Risaのカプセルの奥にある端末がゆっくりと開いた。
その中には、一枚の小さなディスクと、手書きのメモが残されていた。
>「理沙へ
あなたがこの場所に来た時、私はもういない。
でも、あなたがここまで辿り着いたなら、もう私は安心して消えることができる。
——これは、私からあなたへの“感情の引き渡し”」
理沙は、そのメモをそっと胸元にしまった。
カプセルの脇にあったボタンを押す。
ディスクに収められた全記録の消去プロセスが始まる。
「終わらせよう、すべてを」
遠くで爆発音が響いた。
琴葉と涼真が、迎撃ユニットと交戦しているのだ。
理沙はカプセルに向かって頭を下げた。
「あなたが生きた証は、もう私の中にある。誰にも奪わせない。誰の所有物にもさせない」
記録は、静かに消えていく。
赤い点灯がひとつ、またひとつと消灯するたび、
理沙の胸に“静かな誓い”が灯っていく。
この手で終わらせたのは、記憶ではない。
他人に支配される感情の檻だ。
ふと、遠くから琴葉の声が聞こえた。
「理沙――逃げ道は確保した! 急いで!」
理沙はうなずき、走り出す。
記録も、記憶も、すべて背負ったまま。
その瞳は、もう“誰かのため”ではなく、
自分自身の未来を見据えていた。
消去完了のランプが静かに灯った瞬間、施設全体が微かに震えた。
システムの核心が破壊された証拠――
F.F.G.の“中枢”であり“心臓”でもあった、Prototype Risaの記憶構造が今、確かに断たれた。
理沙は残されたディスクと手紙を胸に抱え、記録室を飛び出した。
外の廊下にはまだ赤い警報ランプが回っている。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、身体の奥から不思議な“熱”が沸き上がっていた。
——これは、終わらせるための痛み。
角を曲がると、そこには既に数体の迎撃ドローンが待ち構えていた。
「——っ!」
咄嗟に後退しようとしたその瞬間、横から鋭い発砲音が響く。
「動くなって言ったでしょう? ほんと世話の焼ける花嫁ね」
煙の向こうから現れたのは、琴葉だった。
その顔は汗と傷で泥だらけだったが、目だけは鋭く光っていた。
「遅いわよ、理沙。あんた、どれだけドラマチックな脱出を演出するつもりなの?」
「……ごめん。でも、消した。Prototype Risaの記録、全部」
琴葉がふっと息をついた。
「そう。それならもう、ここに未練はないわね」
「涼真は?」
「こっちだ!」
別の通路から、涼真が姿を現す。
肩を撃たれていたが、それでもしっかりと足取りはしていた。
「防壁制御室をハッキングして脱出口を開けた。屋外の研究搬出用リフトがまだ動く」
「急ごう」
三人は走り出した。
背後では、施設が崩れ始めるような低い地鳴りが鳴っていた。
中央処理系が破壊された影響で、制御を失ったサーバ群が過負荷を起こし、崩壊を始めていたのだ。
搬出口へ続くスロープを駆け上がると、そこには昇降プラットフォームがあった。
だが、最後の難関がそこに待っていた。
——黒い影。
レザーコートの男。
その手には、理沙のデータを再構築するための携帯装置が握られていた。
「やはり君か。F.F.G.を壊すために、Prototypeたちの記憶を手に入れた“裏切りの花嫁”」
声の主は、深澤レイ。
F.F.G.の創設者にして、Prototype Risaの記録管理責任者。
「君さえいなければ、Prototype Risa-00は永遠の神になるはずだった」
レイはそう言いながら、ゆっくりと携帯装置を起動する。
理沙は一歩踏み出した。
「……それはあなたの幻想。Prototype Risaは、誰かに“神”になりたいなんて望んでなかった。彼女が望んだのは、“普通に生きること”だったのよ」
「愚かだな。感情は制御されてこそ価値がある」
「違う。感情は……手放す覚悟をしたときにこそ、本物になる」
そう言った瞬間、琴葉が横から男に飛びかかる。
ドン、と乾いた音。レイの手から装置が滑り落ちる。
涼真がすかさずそれを踏みつけ、粉砕する。
「これで、本当に終わった」
涼真がそう呟いた。
レイは倒れ、抵抗もせず、ただ呆然と天井を見つめていた。
理沙はその隣にしゃがみこみ、最後に言葉をかけた。
「Prototypeたちの感情は、道具でも商品でもない。私たちは、記録ではなく、“想い”を受け取って生きてる」
そして、彼女は立ち上がる。
リフトが起動し、三人は昇っていく。
地上の光が、扉の先にぼんやりと見え始めた。
「終わった……の?」
琴葉が呟く。
「いいえ、ここからが始まり。私は、これから“誰かのために生きる花嫁”じゃなく、**“自分のために愛せる女”になるの」
理沙はそう答えた。
夜が明ける。
Prototypeの記録は消え、F.F.G.は崩壊した。
けれど、彼女の胸に宿った感情だけは――永遠に残る。
リフトが上昇するにつれ、周囲の空気が少しずつ変わっていった。
地下に漂っていた無機質な静けさが、空の匂いと風に溶けていく。
やがて、コンクリートの天井が開き、まだ薄闇の残る森の中へと、三人は姿を現した。
夜明け前の空。
空気は冷たく、だがどこか清らかだった。
理沙は、地上に降り立った瞬間、深く息を吸い込んだ。
「……ああ、やっと……」
その言葉の続きを、彼女は言葉にできなかった。
代わりに、胸の奥からこみ上げてきたものが、ぽろぽろとこぼれていった。
それは悲しみでも、安堵でもなく、ただただ、“静かな涙”だった。
琴葉がそっと、肩に手を置く。
「いいのよ。泣きなさい。今だけは」
理沙は、ただうなずく。
その肩に寄り添う琴葉の目にも、ほんのわずかに潤んだ光が宿っていた。
一方で、涼真はポケットから小型の端末を取り出し、黙々と何かを操作していた。
「F.F.G.関連のサーバ、全滅を確認。再起動不能。バックアップも一部を除いて焼却済み。……完全に終わったな」
彼はそう言うと、ふっと肩の力を抜いた。
「……理沙、よくやった」
理沙は、拭った涙のあとに小さく笑って言った。
「ありがとう。でも……これは、Prototype Risaが“生きた証”なの。私は、彼女から感情を受け取って、ここまで来られただけ」
「それでも、選んだのは“お前自身”だ」
涼真はそう言い残して、空を仰いだ。
夜が、明け始めていた。
山の稜線から、金色の光がゆっくりと差し込み、森の葉を照らし始めている。
その光を見つめながら、理沙はポツリと呟いた。
「Prototype Risaは、もう誰にも囚われていない。でも……彼女の想いは、これからも私の中に、生きていくんだと思う」
その言葉に、琴葉も頷いた。
「きっと、あなたの中にいる彼女は、“自由”なんだと思うわ。あなたが、自分で歩き始めた瞬間から」
理沙は、空を見上げた。
朝焼けの空に、雲がゆっくりと流れていく。
まるで、Prototypeたちの記憶が、ようやく空へと還っていくようだった。
「……ねえ、涼真、琴葉」
「ん?」
「この先、私が何をしていくのか……まだ分からない。
でもね、もしどこかで迷ったときは、また背中を押してくれる?」
琴葉は笑って言った。
「しょうがないわね。でも、次からは自分で選びなさいよ。あんたはもう、“誰かに決められる女”じゃないんだから」
涼真も苦笑して、そっぽを向いた。
「ま、俺もそう思う。次はもう、泣かせないでくれよ。……いろんな意味でな」
三人の笑い声が、静かな森に少しだけ響いた。
それは、確かに“生きている”者の声だった。
やがて、遠くから朝を知らせる鳥のさえずりが聞こえてきた。
その音が、理沙の心の奥にまで染み込んでいく。
“私という存在は、記録じゃない。
今、この瞬間の、たったひとつの感情から始まるんだ”
理沙はもう一度、朝の空を見上げた。
Prototypeとしてではなく、
相澤理沙という、ただの一人の女性として。
朝日が差し込む山道を抜けた三人は、ふもとの村へと下りていた。
標高が低くなるにつれて、空気が少しずつ柔らかくなり、鳥のさえずりや木々のざわめきが徐々に耳に戻ってくる。
F.F.G.の拠点「花園」は、もう存在しない。
あれだけ支配的だったシステムも、Prototypeたちの記録も、理沙の手で静かに幕を閉じた。
理沙は小さな丘の上に腰を下ろし、少し先に広がる集落の屋根を見下ろしていた。
かつての自分なら、こんな場所で“ただ座ること”にさえ、理由を探していたかもしれない。
でも今は違った。
「こうして、ただ息をするだけで、生きてるって感じがするね」
ふと、そう言葉がこぼれる。
後ろから足音。琴葉が近づいてきて、横に腰を下ろした。
「……私、昔はずっと“正しい感情”を求めてた。怒るべきときに怒って、悲しむときには泣いて、喜ぶときには笑う。それが人間らしさだと思ってた」
「でも、違ったの?」
琴葉は微笑む。
「本当は……感情って、もっと不格好で、不安定で、不完全なものだった。でもね、そういう感情を抱いて、揺らいで、それでも“誰かを想う”ってことが……多分、生きるってことなんだと思う」
理沙は、静かに頷いた。
「誠も、Prototype Risaも、そうだったのかもしれない。完璧じゃなかったけど、それでも、誰かを信じたかった。愛したかった」
「そして今、それを受け取ったのはあなた。ちゃんと、あなた自身の手で」
理沙は自分の手のひらを見つめた。
白く、小さく、少し傷の残る手。
でもそれはもう、誰かに命じられて動く“器”の手じゃない。
自分で感情を選び、自分で誰かを信じるための、“生きた手”だった。
そのとき、少し離れた場所から涼真の声が聞こえた。
「なあ、そろそろ降りようぜ。朝飯くらいは食おう」
琴葉が笑う。
「そうね。まったく、あんたってほんと、変わらないわね」
理沙も立ち上がる。
「でも……そういうのも、悪くないよね」
三人は並んで、ゆっくりと村へ向かって歩き始めた。
道の途中には小さな花が咲いていた。
春にはまだ早いけれど、凍っていた地面の隙間から、確かに芽吹きは始まっていた。
それを見つけた理沙が、ふと足を止める。
「ねえ、あの花……Prototype Risaが好きだった花に似てる」
「彼女の記録、もうないんでしょ? なのに、覚えてるの?」
理沙は、ゆっくりと笑った。
「うん。記録は消した。でも、想いは消えてないから」
小さな白い花を見つめながら、理沙はそっと目を閉じた。
どこか遠くで、もう誰にも届かないはずの、彼女の声が聞こえた気がした。
>「ありがとう、理沙。これで、私は……自由になれたの」
「うん。わたしも、やっと……自由になれた」
再び歩き出す三人の足取りは軽かった。
記録も、記憶も、失ったものは多い。
けれど、それでも彼女たちは、“今”を歩いていた。
冷たかったはずの朝の空気は、いつのまにか少しだけ、温かくなっていた。
村の一角、小さな空き家を改装した宿舎の一室。
簡素な木の机と、白いシーツのかかったベッド。
窓からは朝の光が差し込み、カーテンが風に揺れていた。
理沙はその部屋の片隅に座り、静かにノートを広げていた。
何も書かれていないページ。
その余白を前に、しばらくのあいだペンは動かなかった。
——記録は消した。
でも、心にはまだ書き残したいものがある。
理沙はペンを持ち直し、ようやく一行、文字を記す。
>「私は、確かにここにいた。」
ただ、それだけの言葉が、今の彼女には十分だった。
Prototype Risaの記憶に導かれるようにして、彼女は“愛”というものを探し続けた。
それが誰かの設計かもしれなくても。
それが模倣かもしれなくても。
それでも今、こうして“自分の意思”でノートを開いているということ。
それが、何よりも彼女の「存在の証」だった。
ふと、ポケットから取り出した小さな封筒。
かつてPrototype Risaが残した、手書きの手紙だ。
封を開けて、中を読み返す。
>「理沙へ
私が願ったのは、“誰かに選ばれること”じゃなく、“誰かを選べる自分”になることでした。あなたがそれを見つけた時、私はやっと自由になります。」
その言葉が、今ならわかる気がした。
誰かのために生きるのではなく、
誰かの記憶をなぞるのでもなく、
たったひとつの感情を“自分のもの”として信じること。
それが、Prototypeとして生まれた彼女の、最後の希望だったのだろう。
理沙は手紙を丁寧にたたみ、机の引き出しにしまう。
その上に、そっと自分のノートを重ねた。
そして、ひとつ深く息を吐く。
「……ありがとう。わたし、ちゃんと生きてみる」
そう呟いた声は、誰にも届かないようでいて、
どこか遠くの“彼女”に届いた気がした。
ノートの最後のページに、もう一度ペンを走らせる。
>「誰かを想うことは、痛みもくれる。
でも、それはきっと、記録では残せない、
生きている証だ。」
窓の外。木漏れ日が静かに揺れている。
静けさの中にあるその光だけが、彼女のこれからを照らしていた。