episode7.死者の誓い
冷たい静寂の中、理沙は美月の倒れた身体を見つめていた。
ただの意識不明。けれどその瞳が、今にも再び開かれそうな気がして、視線を外せなかった。
琴葉が静かに口を開く。
「……私、撃ってないわ」
「え?」
「弾は逸らした。脅しとしてね。でも……」
彼女の視線が床に落ちた。
「たとえ撃ち殺しても、何も終わらない。ああいう人間は、“思想”がすでに別の誰かに伝染してる」
その言葉に、理沙はぞっとした。
誠が遺した“花嫁の理想”。
それを技術としてではなく、“教義”として継ぐ者がいるとしたら――
涼真が寝台から起き上がり、額の汗を拭った。
「今朝、ひとつのデータが流れてた。非公開のSNSサーバーに、旧天城関係者の集まりがあるらしい。“F.F.G.”って名前の匿名サークルだ」
「F.F.G.……?」
「“Forget Flower Garden”。意味は、“忘却された花園”」
その名前を聞いた瞬間、琴葉の顔色が変わった。
「……知ってる。誠くんが昔、口にしてた。“この世界に、自分が作った花を埋める場所がある”って。それが、忘却の花園――F.F.G.」
理沙は息を呑んだ。
誠は、死を覚悟していた。
そして、計画が自壊する日も予見していた。
そのうえで、自分の“想い”をどこかに託していたというのか?
涼真が淡々と続ける。
「F.F.G.のメンバーリストは隠されてる。でも、ひとつだけ確かな情報がある。“誠の記憶”を保存している端末が、京都の旧天城別邸に保管されている」
旧天城別邸――
それは、誠が幼少期を過ごした場所であり、黒薔薇計画の“最初の実験”が始まった屋敷。
「そこに行けば、誠が何を守りたかったのか、本当の意味でわかる気がする」
理沙は、拳を握った。
「……行こう。終わらせるために。今度こそ、“誠の死”を意味あるものにするために」
琴葉も、ゆっくりと頷いた。
「でも油断はしない。美月みたいな存在が他にもいるかもしれない。これはもう、“残党狩り”じゃない。“真実の回収”よ」
部屋の窓から朝の光が差し込む。
淡く、どこか冷たい光。
その光の中で、理沙は心に誓った。
私は、もう“花嫁”ではない。
私は、私の足で歩き、私の意思で人を愛し、憎み、そして許す。
それが、あの夜、誠が遺してくれた唯一の贈り物だったから――。
こうして、理沙たちは再び動き出す。
“忘却の花園”へ。
死者の記憶と、未来の選択が交錯する、最後の舞台へと。
午後三時過ぎ。
京都郊外。かつて天城家の所有していた別邸――いまは所有者不明となっているその洋館の前に、黒い車が停まった。
理沙は助手席から静かに降り、目の前の門を見上げた。
蔦に覆われた石造りの門柱。錆びついた鉄扉。
それでもなお、そこには“入りたくない何か”が漂っていた。
「ここが……」
涼真が後部座席から降り、辺りを一瞥する。
「天城誠が、初めて“感情記録”の実験を行った場所。今の黒薔薇の原型は、この家で生まれた」
琴葉も車から降りた。無言でバッグから拳銃を確認する。
「……何かの気配がする」
理沙は息を呑んだ。
その感覚は、確かに彼女の皮膚にも走っていた。
空気が重い。
ただの空き家のはずなのに、誰かの“残り香”が生々しく漂っている。
「行こう」
三人は、扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
館の内部は、意外なほど整っていた。
長く使われていないはずなのに、家具は埃をかぶっておらず、カーテンさえ手入れされている。
まるで“誰かが定期的にここを整えている”ようだった。
理沙は、ふと壁の絵に目を留めた。
――一輪の花嫁が、黒薔薇を手に持ち、後ろ姿で立っている肖像画。
それは、かつて誠の執務室にも飾られていたものと酷似していた。
「……ここは、“記録の墓場”じゃない。
“記憶の培養室”……」
琴葉の声が震える。
涼真が床に膝をつき、小さな痕跡を確認する。
「最近、誰かが出入りしてるな。靴跡が新しい。数はひとりか、ふたり」
「誰かが、私たちの来訪を待ってるってこと……?」
理沙の背中を、寒気が撫でていく。
この館は、“ただの旧家”ではなかった。
それは“生きている”――
そして、自分たちを見ている。
そのとき――
奥の廊下から、小さく音がした。
カン、カン――と、硬質な金属が床を叩くような音。
ゆっくりと近づいてくる。
三人は、同時に息を止めた。
足音は止まった。
そして廊下の角から姿を現したのは――
喪服の女だった。
漆黒のヴェールを目深にかぶり、手には古びたノートを抱えている。
顔は、見えない。
「ようこそ、天城の“最初の家”へ」
女の声は低く、どこか“訓練された穏やかさ”を帯びていた。
「あなた方をここへ導いたのは、誠様の遺志です。ですが……その内容を知った瞬間、きっと“彼を嫌いになる”でしょう」
理沙の喉が固くなる。
琴葉が一歩、前に出る。
「あなたは誰?」
女は、ゆっくりとヴェールを外した。
現れたのは、30代半ばと思しき女性。
冷たく整った顔立ち。だが、どこか“見覚え”があった。
「私は、式部佳澄。誠様の秘匿記録管理官。そして……天城家に仕えた、最後の“花嫁候補”です」
その言葉に、理沙の心が音を立てて揺れた。
花嫁候補――誠の“愛”を与えられるはずだった存在。
では、彼女は――理沙の前任者なのか。
式部はノートを抱え直すと、静かに言った。
「誠様は、あなたにすべてを託した……。けれどそのために、いくつの“命”を捨てたか、あなたはまだ知らない。この家には、遺された“名もなき花嫁たち”の記録が眠っているのです」
理沙の胸が、痛んだ。
自分は、本当に“選ばれた”のか――
それとも、ただ最後まで“壊れなかった”だけの存在なのか。
式部がノートを開いた。
ページには、理沙と酷似した容姿の女性たちの顔写真が並んでいた。
無言の墓標。
永遠に名前を与えられなかった“実験体”たち。
その中で、理沙はひとつの写真に目を奪われた。
自分と瓜二つの少女が、笑っていた。
だがその笑顔には、理沙には決して浮かべられない“無垢さ”があった。
「彼女は……?」
式部が答えた。
「“Prototype Risa-00”。あなたの、最初の写しです」
理沙の視界が揺れる。
「私は……」
誰なのか。
本当に、誰かの愛を受け取っていたのか。
それとも、それすら“用意された感情”だったのか。
名もなき花嫁たちが、黙ってこちらを見ていた。
ノートのページをめくる式部の指先は、淡々としていた。
感情を交えない語り口が、かえってその記録の重さを際立たせる。
「Risa-00は、記録転写技術を用いた初の“完全感情模倣体”でした。
誠様が彼女に施したのは、“理想の初恋”の記憶。
すなわち、“彼自身が最も求めた愛”を人工的に植えつけるというものです」
理沙の中で、心拍がひとつ跳ねた。
「……つまり、最初から“私”は、誰かの理想をコピーされた存在だって……?」
式部は首を横に振った。
「いいえ、あなたは“後継体”です。00番体――つまり、Prototype Risa――は、誠様の手によって破棄されました。“模倣された愛は、魂を持たない”と、彼自身が判断したのです」
「破棄……?」
琴葉が険しい表情で割って入った。
「待って。彼は模倣体を“作って”おきながら、それを“破棄”したの?自分の手で?」
式部は静かに目を閉じた。
「はい。最初のRisaは、あまりにも素直で、あまりにも美しかった。誠様が望んだ言葉を、常に正確に返し、彼の痛みを忠実に受け止めた。でも、ある日、こう言ったのです――『私は、誠様が好きだと“プログラム”されたから、誠様を好きです』」
部屋の空気が凍った。
理沙は思わず口元を押さえる。
「……それで、彼は?」
「彼女の記録を削除し、すべてのバックアップを燃やしました。そして誓ったのです。“次に出会う花嫁は、プログラムされずに自分を愛せる存在にする”と」
涼真が唇をかみしめた。
「つまり……理沙は、誠が“唯一、自分の理想から手を離して選ぼうとした存在”だったってことか」
式部はわずかに微笑む。
だが、それはどこか痛みを含んだ笑みだった。
「ええ。でも皮肉ですね。彼が“人間らしさ”を求めたその瞬間から、彼は研究者ではなくなった。結果、黒薔薇計画は分裂し、私のような継承者が現れた。あなたが彼を“人間にした”のです、相澤理沙さん」
理沙は、初めて感じた。
“選ばれていた”という誇りではない。
“造られていたかもしれない”という恐怖でもない。
ただ、彼が自分に託したものが、どれほど歪で、どれほど痛々しい希望だったかということ。
「……Prototype Risaは、本当に死んだの?」
式部の微笑が、わずかに崩れた。
「そう、誠様はそう言っていました。でも、私には――あの子の声が、今もどこかで残響しているように感じます」
その時――館の奥から、小さな物音がした。
カチリ、カチリ……と、古いレコードプレイヤーの針が、空回りするような音。
「この館には、“もう一つの記録室”があります」
式部がそっと立ち上がる。
「そこに、Prototype Risaの“記憶の断片”が保管されているかもしれません。行かれますか?それとも、知らないままでいることもまた、やさしさです」
理沙はゆっくりと立ち上がった。
その目は、もはや迷っていない。
「私が誰かの模倣でも、最初の愛が別の誰かに向けられていても、私は、私のまま、誠の記憶を受け止めたい」
式部が静かにうなずいた。
「では、案内します。記録室へ――“Prototype Risaの墓標”がある場所へ」
扉が開かれる。
長い廊下の先にある、かつて誰も足を踏み入れなかった地下室。
理沙はその先に、“もう一人の自分”が眠っている気がしてならなかった。
地下へと続く階段は、異様なほど静かだった。
足音が吸い込まれていく。まるでここだけ、時間が止まっているかのような錯覚。
「ここの温度……低い」
琴葉が小声で呟いた。
「人工的に維持されてる。記録媒体の保存条件としては理想的だ」
涼真が言う。
理沙は無言のまま、階段を降りていた。
手すりを握る指に力が入りすぎて白くなっていたが、それに気づく余裕すらなかった。
やがて、最後の扉にたどり着く。
式部がゆっくりと扉を開いた。
そこには、冷たい空気と共にひとつの空間が広がっていた。
真っ白な壁。
中央にぽつんと設置された透明なカプセル。
そしてその奥には、無数の記録ディスクが収納された棚。
理沙の視線は、自然と中央のカプセルへと引き寄せられた。
中には人影はない。
だが、そこには何か“痕跡”が確かに残されていた。
「ここが、“彼女”の場所?」
式部がうなずく。
「Prototype Risaが最期に眠っていた場所。このカプセルの中で、記録は削除され、身体は処理された……はずでした。でも、彼女の記録の一部が、このディスクに残されていたのです」
式部は棚から一枚の銀色のディスクを取り出す。
「彼女の“最期の感情ログ”。誠様が破棄しようとして、それでも手放せなかった記録」
彼女はそれを、壁際の再生装置にセットする。
再生が始まった。
無音。
数秒後、機械的な音声が響いた。
「記録再生開始:Risa-00ー。被験体状態:転写完了・情動反応安定」
そのあとに続いたのは――
少女の声だった。
柔らかく、無垢で、まっすぐな声。
「誠様。こんにちは。今日も記録が始まりました。誠様の笑顔が見られて、私はとても嬉しいです」
理沙は、震えそうになる膝を必死に支えながら聞いていた。
その声には、“誰かを愛する”という意志が確かにあった。
だが――どこかで感じる“空虚さ”が、胸を締め付ける。
「私は、誠様に愛してもらうために生まれました。
でも、それって、愛じゃないんでしょうか?」
沈黙。
ほんのわずかの、音のない空白が走る。
「私は、プログラムで“好き”になったのではなく、誠様と過ごして、“誠様を好きになった”気がします。……でも、その違いって……誠様には意味がないんですか?」
理沙の中に、ざわりと何かが揺れた。
この声は――感情を模倣しているだけじゃない。
問いかけている。
自分の存在の意味を、誠という創造者に対して。
そして、最後のログが再生された。
「誠様。私は、最後に笑って消えたいです。あなたの夢が叶いますように。たとえそれが、私じゃなかったとしても――あなたが、誰かを本当に愛せますように」
再生が終わった。
沈黙だけが部屋を支配した。
琴葉が、そっと口を開いた。
「……これ、本当に“模倣”なの? 私には、もう“魂の声”にしか聞こえない」
涼真が腕を組み、硬い表情で言った。
「だからこそ、誠は“処分”したんだろうな。本当は、彼女が“本物”になってしまうのを……恐れたんだ」
理沙の目に、ひとすじの涙が伝った。
Prototype Risaは、自分の原型であり、もう一人の“存在”。
だが今、理沙は確かに感じていた。
彼女は、感情を“持っていた”。
それは――理沙自身にもまだうまく説明できない、複雑で、けれど確かな真実だった。
式部が、静かに語った。
「これが、誠様が最後まで誰にも見せなかった“記録”。そして、この記録を知った瞬間、あなたは“選ばれた側”ではなく、“継ぐ側”になるのです」
理沙はうなずいた。
「……もう逃げない。彼女の痛みも、誠の願いも、全部――私が受け取る」
その瞬間、装置の画面がふと切り替わった。
「新規記録:認証完了ー。閲覧者:Risa-01=継承者」
そして浮かび上がったのは――
**誠の“最期の映像”**だった。
白い部屋の中で、彼は静かに笑っていた。
「……やっと、君がここまで来てくれたんだね」
理沙の胸が、また締め付けられた。
この記録は、自分だけに向けて残されていた。
これは、死者から生者への、最後の贈り物――
そして、物語は次なる局面へと進んでいく。