episode3.地下室
午前四時。
街はまだ眠っていたが、空の端にはかすかに光の気配が混じり始めていた。
葵町一丁目。
駅から離れた一角に、ひっそりと取り残されたように存在する古びたビルがあった。
看板は外され、扉には錆びた南京錠。
だが、写真に写っていた外観と寸分違わない。
「ここが……」
理沙は思わず言葉を詰まらせた。
無機質なコンクリート、打ち捨てられたような入口。
かつて“何か”があった場所とは思えないほど、静まり返っていた。
涼真が無言で工具を取り出し、南京錠を切る。
ガチャン、と小さな音を立てて、扉が開いた。
建物の中は、時間が止まったように埃だらけだった。
床には誰かの靴跡がいくつかあり、最近誰かが出入りしていたことを示している。
「地下室」は、階段の奥。
かすかに鉄の扉が見えた。電気は通っていない。懐中電灯だけが頼りだった。
涼真が一歩、先に進む。
「気をつけて」
その声に頷き、理沙も後を追う。
地下へと続く階段は思った以上に深く、湿った空気が肌にまとわりついてくる。
まるで“墓場”に近づいているかのような感覚だった。
そして——
鉄扉の先に、部屋があった。
まるで防音室のような空間。コンクリート剥き出しの壁。
中央には、ひとつの古いデスクと、ノートパソコン、そして大量の紙のファイルが散らばっている。
理沙が手を伸ばし、ひとつのファイルを開いた瞬間——
「……これは……」
中に入っていたのは、複数の女性の写真と経歴。
年齢、職業、出身地、そして“心理診断結果”という項目まである。
名前のいくつかには、赤ペンで×印が書かれていた。
「選定記録」
ファイルの表紙にはそう記されていた。
――まるで、“誰か”を選び、ふるいにかけていたかのように。
理沙の喉がかすかに震える。
「これは……誠さんが?」
涼真が別の棚を開け、封筒をひとつ取り出した。
中には、誠の手書きのメモが何枚も入っていた。
その中の一枚。
理沙の名前が、記されていた。
「一ノ瀬理沙」
年齢:27
選定条件:外見/経歴/世間的評価——すべて合格。
感情の深度は未知数。観察を継続。
信頼度70%→89%へ上昇(婚約後)
必要であれば、移行手続きへ。
「……どういうこと……これ……私を……調べてたの?」
理沙の手が、メモを震わせた。
愛だと思っていたものが、計画の一部だったのか?
涼真もまた、沈痛な顔で呟く。
「兄さん……こんなことまで……」
まるで誰かを“目的のために”選んでいた。
その目的が、何か“プロジェクト”なのか、それとも——
そのとき。
——キィ……
地下室の奥から、微かな扉の軋む音がした。
二人は顔を見合わせる。
この部屋に、まだ“続き”がある。
「行こう」
涼真が静かに言い、懐中電灯を奥へ向ける。
そこには、さらに小さな鉄扉があった。
そして扉の表面には、黒いペンでこう記されていた。
「最終選定記録」
誠が残した“最後の部屋”。
その扉を開けたとき、彼の“真実”のすべてが露わになる。
理沙は、もう逃げないと決めていた。
愛されたのか、騙されたのか、
それすらもう、彼に聞くことはできない。
だけど、この扉の向こうにあるのが——
誠の“答え”なのだとしたら。
その真実を、見届けなければならない。
鉄扉の前に立ったまま、理沙は一瞬だけ躊躇した。
もしこの先に、誠の“答え”があるのだとしたら――
知ってしまえば、もう後戻りはできない。
けれど涼真の声が、そっと彼女の背を押す。
「……俺が先に入る」
涼真がゆっくりと扉の取っ手を回す。
軋む音とともに、重い鉄扉が開いた。
その部屋は――異様だった。
窓もなく、壁も床も全てが無機質なコンクリート。
中央に置かれた一脚の椅子。そして、その正面には大型のスクリーン。
まるで、誰かの“面接”か“洗脳”に使われたかのような空間だった。
理沙は無言のまま、壁際のキャビネットに目を向けた。
開けると、中にはビデオテープとUSBドライブがいくつも並んでいた。
ひとつひとつに日付と名前。そして……
「No.14 一ノ瀬理沙(仮)」
理沙の手が止まった。
涼真がそのテープを手に取り、古びた再生機器に接続する。
――数秒の沈黙の後、スクリーンが光を灯した。
映し出されたのは、白い部屋。
そしてその中で、誠が椅子に腰かけ、真正面を見据えて話し始めた。
「これは、僕の記録。君への告白だ。
理沙、もしこれを見ているなら、僕はもうこの世にいないだろう。
正直に言う。僕は君を“選んだ”。
モデルとしての顔、世間からの評価、そして……孤独。
それらすべてが、僕の理想に近かった」
理沙は息を詰めて、スクリーンを見つめた。
誠の顔は穏やかだった。だが、その声には冷静さを超えた何かが滲んでいた。
「僕は、人の感情を測る仕事をしていた。
天城グループの裏部門で、心理操作や行動誘導に関わっていた。
目的はひとつ。――完璧な“愛”の再現だ。
世の中の人間関係は、誤解と演技に満ちている。
だが、もし“完全に設計された恋”があれば、そこに裏切りはない。
僕は、愛を信じられなかった。だから、構築しようとしたんだ。
君という“被験者”を通して」
涼真が、静かに呻いたような声を漏らした。
理沙は両手を強く握りしめながら、最後まで聞く覚悟を決めていた。
「けれど……本当に君を見ているうちに、プログラムは壊れ始めた。
僕の“設計”に、君は収まらなかった。
怒るはずの場面で、君は微笑んだ。
泣くと思った夜、君はただ黙って僕の横に座っていた。
君は、僕の計算をことごとく裏切った」
「だから……僕は初めて、“愛してしまった”んだ」
理沙の瞳に、涙がにじんだ。
操られていたのか。
それとも、本当に愛されたのか。
その境界線が、あまりにも曖昧で、そして——美しかった。
「理沙。
君がこのビデオを見ているなら、最後に一つだけお願いがある。
僕がなぜ死んだのか、誰がそれを望んだのか。
その“名前”だけは、必ず君に伝わるはずだ。
それが、君に渡した最後の花の意味。
僕の全てだ。
君が、それでも僕を思ってくれるなら……
僕は、もう一度、君に出会いたい」
映像が、ふっと暗転した。
沈黙が落ちた室内に、何かが燃え残るような気配だけが残った。
涼真がスクリーンを見つめたまま、低くつぶやいた。
「兄さん……お前は、何を、どこまで知っていた……」
理沙はふらりと立ち上がり、扉の外へと歩き出した。
誠の死。
遺言。
花。
そして、設計された愛の行き着く果て。
そのすべてが、今や自分の中で混ざり合い、境界を失っていく。
だが――
誠が言った“名前”。
誰が彼の死を望んだのか。
それを知るには、あと一歩だけ、真実の中心へ踏み込まなければならない。
理沙の視線が、スクリーンの脇に積まれた資料の山に向けられた。
その一番上に置かれていた紙。
そこに書かれていたのは、理沙がこれまで一度も口にしたことのない“過去の事実”だった。
「父:一ノ瀬光晴 元・天城グループ監査室長 失踪」
理沙の手が、止まる。
自分の父が、天城とつながっていた?
失踪——あれはただの家族の不幸ではなかったのか?
その瞬間、胸の中で眠っていた記憶が、何かを強く訴えかけてくる。
そして理沙は、静かに悟った。
この物語は、ただの愛憎劇なんかじゃない。
——これは、血と記憶の連鎖だ。
彼女が冷たい花嫁となった日からずっと始まっていた、
止めようのない連鎖の真ん中に、理沙自身がいたのだった。
「父:一ノ瀬光晴 元・天城グループ監査室長 失踪」
その一行を見た瞬間、理沙の鼓動は耳の奥で異様な速さで鳴り響いた。
父の名。
自分が幼い頃、突然姿を消したあの日——。
警察は「自発的な失踪」としたが、母は一度も納得していなかった。
「会社の中で何かあったのよ」と呟いた母の顔。
あれはただの妄想じゃなかった。
「……父が、天城にいたなんて」
「俺も知らなかった」
涼真の声が低く沈んでいる。
「兄さんは、あの花に“名前”があるって言っていた。“伝わるはずだ”とも。
お前の父が……兄さんの死の鍵を握ってたってことか?」
「でも、父は……もう生きてない。そう思ってたのに……」
理沙が言いかけたそのときだった。
——ピピッ。
耳障りな電子音が、地下室の空気を裂いた。
何かの警告音。
非常灯が突然、赤く点滅を始める。
「……センサーが作動した?」
涼真が素早く頭を巡らせる。
「誰かが、この建物に入った」
時間は午前4時半。
ここを知る者は、ごく限られているはず。
だとすれば、それは——理沙たちを“追って来た”者。
涼真が背後のキャビネットを開け、金属の小箱を手にする。
中から取り出したのは、黒い拳銃だった。
「……万が一に備えて。兄さんの遺品として、ここにあったんだろう」
理沙の喉がかすかに震える。
現実が、急激に“生”と“死”の領域に踏み込んでくる。
ただの愛の記憶を辿っていたつもりが、気づけば何者かに命を狙われる場所にいる。
——カツン。
階段をゆっくりと、何者かの足音が降りてくる。
一歩ずつ、間を置くように、明らかに“こちらに聞かせている”歩き方。
理沙は本能的に照明を落とし、スクリーンの電源を切った。
懐中電灯の明かりを消し、暗闇に身を沈める。
息を殺しながら、階段の影を見つめる。
影が——現れた。
黒いフード。
スーツのような黒い服。
手には、細長い鞄。
涼真が低く言った。
「銃じゃない。たぶん録音機か……盗聴器。こいつ、情報を消しに来た」
理沙の中に、冷たい直感が走った。
「私たちが“見る前”に、証拠を処分するつもりだったのよ」
「間に合わなかったな」
涼真が銃を構える。だが躊躇している。
相手が武装していないと断定できる限り、撃てない。——それが彼の“理性”。
その一瞬の躊躇を突くように、侵入者は素早くUSBの山に手を伸ばした。
火打石のような装置を取り出す——小型の焼却装置。
「やめてっ!」
理沙が叫び、身を投げ出すようにデスクに飛び込んだ。
侵入者の腕が一瞬止まる。
涼真がそのすきに、拳銃を突きつけた。
「動くな」
だが、男は静かに笑った。
フードの下から覗いた口元が、確かに“嘲るように”歪んだ。
「遅かったな。すでに“本物”は渡ってる。お前たちが見たのは……選別された“幻”だ」
「何だと……?」
「誠様の“実験”は、既に別ルートで動いている。……お前たちには止められない」
そのとき、男の手元で小さな音がした。
カチリ。
スイッチ。
涼真が叫んだ。
「理沙、伏せろ!!」
爆発はなかった。
だが、空間が一瞬、白く光り、強烈な閃光とともに耳鳴りのような衝撃が走った。
閃光弾——
目が眩み、足元が揺れる。
その一瞬の混乱の隙に、侵入者は階段を駆け上がり、姿を消した。
「……大丈夫!?」
涼真の声に、理沙は目を細めながら頷いた。
「……行った?」
「ああ。でも何か言ってた。“本物は渡ってる”……誰に? 何に?」
二人は床に散らばったファイルとUSBの山を確認する。
一部は、破壊されていた。
けれど、ひとつだけ異質なUSBが残されていた。
金属製の重厚なカバー。側面には、手彫りのような文字が彫られている。
「花嫁の眠る部屋」
理沙はその言葉を見て、凍りついた。
それは、誠がかつてポツリとつぶやいたことのある、謎のフレーズだった。
「理沙、君は“花嫁の眠る部屋”に、絶対に近づくな。……あそこは、僕の心が死んだ場所だから」
彼が何を恐れていたのか。
彼が何から逃げていたのか。
そして、誰がそれを壊そうとしていたのか。
真実の輪郭が、ようやく浮かび上がってきた。
だがそれは、冷たい手で喉元を締めるような、確かな“悪意”をはらんでいた。
“冷たい花嫁”の物語は、愛だけでは終わらない。
それは血と秘密、そして静かな殺意の上に築かれている。
次に向かうべきは、“花嫁の眠る部屋”。
理沙はその名を、はっきりと胸に刻んだ。
「花嫁の眠る部屋」
その言葉をUSBに刻んだのは、誰なのか。誠なのか、それとも――
理沙は、手にしたそれを強く握りしめた。
ずしりとした金属の冷たさが、皮膚に貼りつく。
「どこかで聞いたことがあるのね?」
涼真の問いに、理沙は頷いた。
「誠さんが、一度だけ……小さく呟いたの。『近づくな』って」
「花嫁って、君のことか?」
「……たぶん。でも、それだけじゃない気がする」
理沙はゆっくりと視線を上げた。
地下室の闇の奥に、何か見えない“影”のようなものが揺れている気がしていた。
そのとき、温室で目にした白い小花の姿が、ふと頭に浮かぶ。
「……“花嫁の眠る部屋”って、まさか、あの温室じゃない……?」
「温室?」
「白百合の館の……裏側。閉じられていた、古い地下倉庫があったの。鍵がかかっていて、誠さんにも“立ち入り禁止”だって言われた。……あの場所、まだ確かめてない」
涼真が瞬時に判断した。
「じゃあ、戻るしかないな。USBを解析するのは後回しだ。あの侵入者が言っていた“本物”が、まだそこにある可能性がある」
「でも、戻ればまた……狙われるかもしれない」
「わかってる。でも、これはもう誠個人の問題じゃない。天城の“裏”が動いてる。……俺も、兄として放っておけない」
理沙は一瞬だけ目を閉じた。
そして、静かに覚悟を決めたように頷いた。
「誠さんは最後に、“全部を知っても、まだ私を思ってくれるか”って言った。……だったら、私はその“全部”を見る必要がある」
USBをポケットにしまい、二人は階段を駆け上がった。
爆発はなかったとはいえ、侵入者の残した痕跡は建物中に不穏な“余韻”を残していた。
理沙は、ふと背中に視線を感じて振り返る。
——誰もいない。
だが、どこかで確かに感じる“気配”。
誰かが、この一連の行動を監視している。
まるで、理沙たちを「導く」かのように。
車に乗り込み、エンジンをかけると、涼真がルームミラーを睨んだ。
「……黒のSUV。三台後ろにずっとついてきてる。白百合に向かってるってバレてるな」
「撒ける?」
「やってみる」
車はスピードを上げ、深夜の都市を縫うように走る。
だがSUVはピタリと距離を保ったまま、追尾してくる。
「おかしい。素人の追跡じゃない」
「天城の人間……? それとも、誠さんに敵意を持ってた誰か……?」
「わからない。でもどちらにせよ、俺たちが今知ろうとしてることは、確実に“知られてはいけないこと”だ」
涼真が急ハンドルで裏道に入り、細い抜け道を使ってSUVの視線を切りながら、やがてナビに映る道からも外れた。
まもなく、白百合の館が見えてくる。
だが――
「……待って」
理沙が窓の外を指差す。
白百合の門が、開いていた。
そしてその奥。温室の灯りが――点いている。
誰かが、もう“来ている”。
ふたりは車を止め、息を殺して門をくぐる。
花の香りが、今夜はまるで“血のにおい”のように感じられた。
温室の前。
見覚えのある影が立っていた。
スーツの男。黒髪。涼真と似た面影を持つ男。
「……天城 圭吾?」
涼真が吐き捨てるように名を呼ぶ。
——天城家の“腹違いの兄”。
表には出てこないが、財団の影に深く関わる人物。
誠とも、涼真とも決して相容れなかった“もう一人の天城”。
男はにやりと笑った。
「やあ。やっぱり来たか。
誠の“花嫁”と、“弟”……お似合いだな」
その声は静かだったが、奥底に鋭利な冷たさを孕んでいた。
「誠は何を知った? 何をお前に渡した?」
「それは……あなたが答える番じゃない?」
理沙がそう言うと、圭吾は肩をすくめた。
「ならば、中へ案内しよう。君たちが見たいのは、“あの部屋”だろう?」
——“花嫁の眠る部屋”。
誠が最も恐れ、そして遺したかった場所。
圭吾の手に導かれ、ふたりは温室の奥の隠し扉へと進む。
その奥には、白百合ではない、黒くしおれた花が咲いていた。
まるで、それが“真実の姿”だとでも言うように。