epilogue.二人で紡ぐ日々
雨上がりの午後、街路樹の緑が陽射しに濡れて輝いていた。
休日の住宅街を、涼真と琴葉が並んで歩いていた。
手には、それぞれ紙袋。パンと、少しの本と、ガーベラの花が一本。
歩幅を揃えて歩くことにも、もう慣れた。
どちらからともなく手がつながるのも、自然なことになった。
季節は春の終わり。風に湿り気が混ざり、花の香りがやさしく流れる。
「……なんだか、静かだね」
琴葉が呟くように言う。
「うん。たまにはこういう静かな休日もいい。何も起きない日って、意外と一番贅沢なんだよな」
涼真の言葉に、琴葉はふっと笑った。
「“何も起きない”ことが、昔は怖かった。自分が存在してる実感が、どこにもなかったから。でも今は違う。静かでも、ここに“わたし”がいるって分かる」
それは、あの“対峙”の記憶が、もう“傷”ではなくなっている証だった。
涼真は立ち止まり、紙袋の中から一冊のノートを取り出した。
「これ、君に見せようと思って」
渡されたノートには、“K.T. Recollections”という文字が記されていた。
「プロジェクトの記録を、当時の資料から全部読み直して、手書きでまとめた。君が“知りたくなったとき”にだけ、開けばいい。でも無理して読まなくてもいい。これは“君の未来”を縛るものじゃない」
琴葉はしばらくノートを見つめ、やがてそっと受け取った。
「……ありがとう。これを怖がらずに受け取れるってことが、きっと“今”のわたしなんだと思う」
その横顔に、涼真は静かに微笑んだ。
ふたりはそのまま、坂道を上った。
見晴らしのいい場所に出ると、街の景色が一望できた。
小さなベンチに腰かけ、琴葉がふとつぶやいた。
「……この先、もしもまた何かが起きて、わたしが“わたし”であることに自信をなくしたら……」
涼真は答えるよりも先に、彼女の手を強く握った。
「そのときは何度でも言うよ。君は“相澤琴葉”だって。君が選んだ名前で、君が生きているって」
琴葉の目が、じわりと潤んだ。
けれどその涙は、もう迷いや痛みではなかった。
生きているという確かな重みが、そこにあった。
やがて涼真が、少し照れくさそうに笑う。
「そろそろ家に帰ってさ、あのパン食べようか。コーヒーも淹れるよ」
「……うん。今日はミルク多めでお願い」
そんなささやかなやり取りが、何よりの幸せだった。
彼女はもう、“冷たい花嫁”ではない。
過去の記憶も、造られた始まりも、すべてが今の“琴葉”を形作る一部として、
そっと心の奥で光を放っていた。
――ふたりは、これからも一緒に歩いていく。
揺れながら、迷いながら、それでも確かに、自分たちの名前で。




