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episode2.遺言

 夜の天城邸は、まるで館そのものが呼吸を止めているように静まり返っていた。

 館の中にはまだ香の匂いがほのかに残っており、死の余韻が重く垂れ込めている。


 理沙が再び玄関をくぐると、すでに使用人たちの姿は消えていた。

 まるで誰かが、これから起こることに“目撃者”を置かないようにしているかのようだった。


「こちらです、理沙様」


 応接室へと案内したのは、天城家の執事・村瀬だった。

 その手には銀色の鍵が握られており、彼の動作はいつも以上に慎重だった。


 部屋にはすでに天城茂子が座っており、横にはスーツ姿の男がひとり。

 理沙の目が彼の胸元に留まる。


 ――弁護士だ。


「お待ちしておりました、一ノ瀬様」


 男は名刺を差し出す。


「司法書士兼弁護士の葛西と申します。生前、誠様の遺言管理を任されておりました」


「……遺言、というのは本当に?」


 理沙の問いに、葛西は静かに頷いた。


「はい。誠様は、亡くなるおよそ一週間前に私の事務所を訪れ、直筆の遺言状を預けられました。日付と署名、そして証人の確認も済んでおります。内容については、今から開示いたします」


 涼真が遅れて部屋に入ってきた。


 全員が席に着くと、葛西が革張りの封筒をテーブルの上に置いた。

 その封筒には、見覚えのある文字があった。


 ——「天城誠 私的遺言」

 確かに彼の字だ。ゆっくりとした、少し癖のある、けれど綺麗な筆跡。


「それでは、開封いたします」


 緊張に包まれた沈黙の中で、葛西が丁寧に封を切った。


 そして、彼の口から読み上げられた内容は——


 


『私は、自身の死後、保有する全財産の40%を、一ノ瀬理沙に譲渡する。

この判断は衝動的なものではなく、十分な思慮に基づいている。

理沙は私の人生において、もっとも“誠実に私を見てくれた人間”であり、

その信頼の証として、この決断を記す。

彼女がそれを望まない場合は、代わりに天城涼真に譲渡されることとする。

なお、この遺言の真意を知りたければ——“白百合”を訪ねよ。』


 


 部屋の空気が一変した。


 財産の四割——それは数億単位の額になる。

 しかし、それ以上に理沙の耳に引っかかったのは、最後の一文だった。


 ——「白百合を訪ねよ」


 白百合? 人の名前か、場所の名前か。暗号か、それともただの……。


「兄さん……」


 涼真がぽつりと呟いた。


「やっぱり、何かを隠していたな」


 理沙の手がわずかに震えていた。

 誠が自分に財産を残した理由。それを“信頼”と表現した彼の言葉。


 けれど——あの最期の会話、脅しのような笑みを思い出すたびに、理沙は確信する。


 これは、ただの遺産相続じゃない。

 誠は何かを遺していった。

 それは“金”ではなく、“罪”か、“真実”か、あるいは——罠。


「理沙さん」


 涼真がそっと声をかける。


「……“白百合”って、何か心当たりは?」


 理沙は静かに目を閉じて、遠い記憶を探る。

 そして、ふと、ひとつの風景が脳裏に浮かんだ。


 ——白い花が咲き誇る、あの洋館の庭。

 誠が一度だけ、理沙を連れて行った場所。

 その時、彼はこう言った。


 > 「ここは、俺の秘密の場所。誰にも言ってない」


 理沙は目を開けた。


「……知ってるかもしれないわ。“白百合”の意味」


 遺言が開かれた夜。

 理沙は、再び“死者の手”に導かれようとしていた。


 「……知ってるかもしれないわ。“白百合”の意味」


 そう口にした瞬間、胸の奥がざわついた。


 思い出すのは、たった一度だけ訪れた場所。

 都内から少し離れた、郊外の静かな住宅街の外れに建つ、古い洋館。

 白百合が庭いっぱいに咲いていたことから、誠はそこを“白百合”と呼んでいた。


 彼はあの日、理沙をそこへ連れて行き、誰にも話したことがないと微笑んだ。

 そしてこう言った。


 >「この場所は、俺の“過去”と“現在”と“未来”が全部詰まってる」


 ——“過去・現在・未来”。

 それが何を意味していたのか、理沙はそのとき聞き返さなかった。

 でも今なら分かる。あれはきっと、ただのロマンチストの言葉じゃない。


 


「行こう」


 涼真が短く言った。


「今から?」


「兄さんが君に遺した“場所”だ。今夜のうちに確かめたい。……それに、もう時間がない気がするんだ」


 時間がない——涼真の言葉に、理沙は思わず目を向けた。


「何か……感じてるの?」


 涼真は少し口をつぐみ、そして低く言った。


「兄さんは……実は、死の三日前、俺にも連絡してきてた。珍しく、“会いたい”って言われたんだ。でも俺は断った。……あのとき、会っていれば何か変わってたかもしれない」


 後悔がにじむ声だった。

 誠と涼真は、兄弟としての確執があったと聞いていた。

 だからこそ、その一言の重みが、理沙の胸にもずしりとのしかかる。


「誠さんは、きっと涼真さんに何かを託そうとしてたんだと思う。……でも、その役目が私に回ってきたのなら、やり遂げなきゃいけない」


「君は強いな」


「……強くないわ。ただ、逃げるのが怖いだけよ」


 目と目が合った。


 一瞬だけ、会話が止まり、時間が止まる。


 涼真がほんのわずかに微笑んだ。

 誠のそれとは違って、どこか悲しみを湛えた優しい微笑みだった。


「じゃあ、白百合へ行こう。……ふたりで」


 理沙は頷いた。


 


 ――◆――


 


 深夜1時。

 黒のセダンが静かに住宅街を抜け、白百合の館へと向かう。


 車の窓から見えるのは、眠ったような街の明かりと、ぼんやりと滲む街灯。

 理沙は助手席で、誠と過ごしたあの“白百合の午後”を思い出していた。


 確か、洋館は外から見るとほとんど廃墟のようで、門も錆びていた。

 でも中に入ると、時間が止まったように家具がそのまま残されていて——


「理沙さん、あれ」


 涼真の声で我に返る。


 視線の先、住宅街の奥にぽつんと建つ、白壁の洋館があった。

 今も、あの日と同じように門の前には白百合が咲いている。


 だが——そこには、もうひとつの“違和感”があった。


「……誰か、いる?」


 門の前に停まった黒い車。その運転席には、誰かが座っていた。

 だが中は見えず、エンジン音もない。


 まるで、こちらの様子を静かに“待っている”かのように。


 理沙と涼真は視線を交わした。


「用心して、行こう」


 涼真が言い、ポケットから小型の懐中電灯を取り出した。

 理沙も、固く唇を噛みしめ、門へと足を進める。


 誠が遺した“遺言”と、“白百合”という言葉。

 そして、そこにすでに“誰か”がいるという現実。


 真実は、想像よりもずっと近くにある。

 それと同時に、危険もまた、すぐそばに迫っていた。


 重たい門を押し開けると、白百合の香りが一斉に空気を満たした。

 夜露に濡れた花びらが、懐中電灯の光を受けて静かに光っている。


 洋館は、昼間よりもさらに朽ちた印象だった。

 白い外壁はところどころ剥がれ、窓枠には細い蔦が絡みついている。

 けれど、どこか懐かしい匂いがした。

 誠の匂い。彼が生きていた痕跡が、ここにはまだ残っている。


「……鍵は?」


 涼真が囁くように訊ねる。

 理沙は躊躇いながらも、バッグの奥にしまっていた古びた鍵を取り出した。

 あの日、誠が何気なく渡してくれたもの——


「これは、僕の心のドアを開ける鍵だよ」


 当時は冗談だと思っていた。


 鍵を差し込むと、思ったよりも滑らかに回った。

 カチリと小さな音を立てて、重たい扉が開いた。


 


 館の中は、静寂そのものだった。


 古い木の床が軋む音と、ふたりの呼吸音だけが空気を震わせている。


 懐中電灯を頼りに進むと、家具はすべて以前と同じ位置にあった。

 奥のサロン、壁際の本棚、革張りのソファ、そして——グランドピアノ。


 理沙はそのピアノに目を留めた。


 黒光りするその表面には、わずかに埃が積もっていた。

 だが、鍵盤の一部だけが、綺麗に拭われたように光っている。


 誰かが最近、触った?


「ここ……誰か来てたわ」


 理沙が言うと、涼真が素早く周囲を見渡した。


「窓は全部閉まってる。足跡も……見当たらない」


 不自然なほど静かだ。まるで誰かが“気配”だけを残して、姿を消したように。


 そのときだった。

 ふと、ピアノの上に置かれた小さな白い封筒が、理沙の目に入った。


 封にはこう記されていた。


 「理沙へ」


 理沙はゆっくりと手を伸ばし、その封筒を手に取った。

 文字は誠のものだった。

 震える指先で封を開けると、中には短い手紙と、1枚の写真が入っていた。



理沙へ


君がこれを読んでいる頃、僕はもうこの世にいないだろう。

君と結婚するということが、本当に正しかったのか、今でも答えは出ていない。

でも、君のまなざしにだけは、嘘をつけなかった。


だから、僕の“本当の姿”を、君には見ておいてほしい。


この写真の裏に書かれた場所——そこへ行って。

そこが、僕のすべての始まりであり、終わりになる場所だ。


――誠



 理沙は写真を裏返した。

 そこには手書きで、こう書かれていた。


 「葵町1丁目5-17 地下室」


 その文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 地下室?

 なぜ誠がそんな場所を遺していったのか。

 その意味が、まるでわからない。


「何が書いてある?」


 涼真がそっと問いかける。

 理沙は写真を渡しながら、静かに答えた。


「……誠は、私に“本当の姿”を見てほしいって言ってるわ」


 ふたりの間に沈黙が落ちた。

 けれど、その静けさは、決して穏やかなものではなかった。


 


 この洋館は、始まりではなかった。

 本当の真実は、もっと深い場所に眠っている。


 そして理沙は、もう気づいていた。

 これはただの愛の物語ではない。

 誠の死には、誰かの“意志”が絡んでいる。

 そしてその意志は、いまなお生きて動いている。


 写真を受け取った涼真は、しばらくそれをじっと見つめていた。

 写っていたのは、モノクロの古い建物。薄暗く、どこかの倉庫のようにも見える。


「これ、知ってるかもしれない」


「え?」


「たぶん……天城グループが昔、非公式に所有してた研究施設だ。今はもう使われてないはずだけど、社内でも“消された記録”って言われてて……」


 理沙の胸がざわついた。


「なんの“研究施設”? 医療系?」


「いや、詳しい記録はほとんど残ってない。ただ、父が生きていた頃、“外に出すな”って何度も言ってた場所があった。それが……たしか“葵町の地下”だった」


 涼真の声には、かすかな嫌悪がにじんでいた。

 そこに天城家の“闇”があることを、彼も感じている。


「誠さんの“本当の姿”って、何なの……?」


 理沙の声が震えていた。


 その時だった。


 ――カタン。


 突然、廊下の奥から物音が響いた。


 二人は思わず顔を見合わせた。

 この館には、自分たち以外に誰もいないはずだった。


 涼真が懐中電灯を持って、音のした方へと静かに足を運ぶ。

 理沙も慎重にその後をついていった。


 階段の陰、使われていない暖炉のある小部屋。その扉が、わずかに開いている。

 誰かが中に入った——いや、隠れている?


「……誰かいるの?」


 理沙が声をかける。返事はない。


 涼真がドアを開けると、そこには——誰もいなかった。

 だが、空気が違った。生ぬるく、妙に湿っていて、何かが“最近までいた”気配が残っている。


 そして暖炉の上には、一枚の写真が伏せられて置かれていた。


 涼真がそれを裏返すと、血のように赤いマジックで一文が記されていた。


 


 《次は、お前の番だ。》


 


 理沙の手が、ぞっと冷たくなる。


「……見られてる」


 声が、自然と漏れた。


 まるで誠の遺言を追う彼女たちを、誰かが先回りして導いているかのようだった。

 それは“導き”なのか、それとも“狙い撃ち”なのか。

 今の段階では、判断すらできない。


 涼真は懐からスマホを取り出し、短く言った。


「もうここに長くはいられない。監視されてる可能性がある」


「……でも、誠さんのメッセージは確かにここにあった。私たちに何かを見せたかったのよ」


「だとしたら、その“何か”はきっと“地下室”にある」


 ふたりは無言のまま頷き合い、ピアノの上にあった手紙と写真を慎重に封筒に戻す。

 扉を開けると、夜風が一気に吹き込んだ。


 白百合の香りが、今はどこか不気味に感じられる。


 


 車に乗り込みながら、理沙は最後にもう一度だけ、洋館を振り返った。


 あの家は、まるで“人の顔”をしているようだった。

 すべてを黙って見てきた沈黙の証人。


 ——誠の秘密は、まだ序章に過ぎない。

 この先に待つ“地下室”が、すべての鍵を握っている。


 だが同時に、それはきっと——開けてはならない扉。


 


 理沙はその胸に、確かなものを感じていた。


 真実に近づくたび、誰かがそれを拒絶しようとしている。

 けれど今、彼女はもう止まらない。


 愛も、嘘も、死さえも——すべてを飲み込んで、冷たい花嫁は“真実”の祭壇へと歩き始めた。


 車に乗り込もうとしたそのとき——

 理沙は、館の横手にある小さな温室にふと目を止めた。


 昼間は気づかなかったが、そこだけ白百合ではなく、まったく別の花が咲いていた。


「……あそこ」


 理沙が立ち止まると、涼真も振り返った。


「温室?」


「ええ。あの日、誠さんが少しだけ中を見せてくれたの。中に、手を付けていない“彼だけの花”があるって……」


 理沙は自分でもなぜこんなにも引き寄せられるのかわからなかった。

 けれど、“そこに何かがある”と、体が本能で訴えていた。


 二人は小さな温室の扉を開け、中へと入った。


 


 湿気と、植物のむせ返るような香り。


 棚には鉢植えがいくつも並んでいたが、そのほとんどが枯れていた。

 唯一、中央のテーブルの上にだけ——ひとつ、まだ生きた鉢があった。


 小さな白い花。


 白百合ではない。だがどこかそれに似ていて、もっと繊細で、儚い印象だった。


「……これは」


 理沙がそっと手を伸ばすと、鉢の下に紙片が挟まれているのに気づいた。

 折りたたまれたその紙を開くと、そこにはたった一行だけが記されていた。


 


“君に、この花を贈るつもりだった。”


 


 誠の筆跡だった。

 その言葉を見た瞬間、理沙の目に熱いものがにじんだ。


 それは遺産でも、鍵でも、謎でもない。

 ただの——想い。


 彼が、言葉では伝えられなかった感情。

 結婚式の日、誠が理沙に手渡そうとしていたもの。

 あるいは、愛していたかもしれない証拠。


「……こんなものを、ひとりで抱えてたの?」


 理沙の手が、わずかに震える。

 彼が本当に遺したかったのは、この“小さな愛”だったのかもしれない。


 涼真が、そっとその肩に手を置いた。


「兄さんは……最後の最後まで、何かに迷っていたんだと思う」


「ええ。私も、全部を知ってたわけじゃない。でも、いまなら少しわかるの……彼が、怖かったんだって」


「なにが?」


「——本当の自分が、誰かを傷つけることが」


 


 静かな沈黙のなか、温室の天窓から差し込んだ月光が、白い花を照らしていた。


 まるで、夜空に咲いたひとひらの冷たい祝福のように。


 


 二人は最後に、そっと鉢をもとの場所に戻し、温室を後にした。


 


 ——誠は確かにここにいた。

 ここに、愛があり、嘘があり、誰にも言えなかった秘密があった。


 理沙の中で、彼の存在がひとつの“人間”として結び直されていく。

 そして、彼の影が導く“地下室”という名の深淵へと、物語は確実に進み始めていた。



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