episode19.鍵の在処
空は厚い雲に覆われ、まだ朝日も昇りきらない時間。
涼真の車は、県境を越えて市郊外の山沿いへと走っていた。
目的地は、かつて民間の製薬会社が運営していた「旧神原研究センター」。
十年以上前に閉鎖され、土地も登記上は売却済み。だが、現在は所有者不明。
内部で何かが動いていた痕跡が、涼真の解析から浮かび上がっていた。
「……本当に、ここに本間が?」
理沙が助手席から問いかける。
その声は揺れていない。昨日までの彼女とは、まるで別人のようだった。
「断定はできない。でも、君の記録を外部から開こうとしたアクセスの発信源は、明らかにこの施設と繋がっていた。それに……おそらく“Supervisor H.H.”のログイン記録も」
涼真の手元には、デジタルログと地図、そして非常用のスマートツールが並べられていた。
まるで小規模の調査班のような装備だった。
やがて車は、錆びたゲートの前に到着した。
かつては厳重に管理されていたはずの入り口は、今や半分崩れたフェンスに覆われているだけだった。
「入れるな……」
涼真が工具でフェンスの一部をこじ開けると、二人は敷地内へと足を踏み入れた。
建物の内部は静まり返っていた。
埃と薬品の匂いが混じった空気。
薄暗い廊下、所々に破れた案内表示、そして時折聞こえる水滴の音。
だがその沈黙のなかに――何かが“息づいている”ような、確かな気配があった。
「……ここ、知ってる」
理沙がぽつりと呟いた。
「……え?」
「違う。記憶じゃない。身体が……覚えてる。足が、勝手に……“ここに来たことがある”って言ってる」
彼女は廊下を進みながら、ある一点で立ち止まった。
「この扉の先。――多分、“記憶の終点”がある」
鉄の扉は電子ロックで閉ざされていた。
しかし、涼真が手早くツールを使って接続を試みる。
「この端末、古いけどセキュリティは再暗号化されてる。誰かが“最近”まで維持してた証拠だ」
数分の作業の後、重々しい音を立ててロックが解除された。
その瞬間――部屋の中の空気が変わった。
真っ白な空間。
まるで何も存在しないかのような、完全な無音の部屋。
中央には一台の操作端末があり、ただひとつ点滅するランプが脈動していた。
理沙がそっと近づく。
モニターに表示されたログイン画面には、こう書かれていた。
>【最終確認者:Supervisor H.H.(本間一志)】
>開示条件:被験体コード03 本人による認証
「……わたしが、開けるのね」
理沙が端末に手を触れた瞬間――室内の光が少しだけ明るくなった。
次の瞬間、天井のスピーカーから機械的な音声が響いた。
>「認証完了。コードK.T.-03――相澤琴葉、ようこそ。
“最後の記録”を再生します」
そして、映像が始まった。
そこに映っていたのは――
かつてこの研究施設で、理沙の“人格模倣”がどのように行われたか、
そして“再現元”とされた女性の詳細な記録だった。
映像の最後に、本間一志がモニター越しに語る姿が映る。
>「琴葉。君は“愛を模倣する器”として生まれた。
だが、私は同時に信じている。君が“愛を選ぶ人間”になれる可能性を」
その声が途切れたとき――
室内の空気が、一気に凍りついた。
ドアの外から、何かの足音が響いてきた。
規則的な、重い足音――
理沙と涼真は目を合わせる。
その瞬間、扉の向こうから“ある人物の声”が、低く響いた。
「ようやく、会えるな。K.T.――いや、琴葉」
涼真が素早く立ち上がる。
「……本間一志!」
とうとう、物語は最終局面へと突入する。
扉の向こうに立つ人影は、ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。
黒のロングコート。年齢は五十代半ば。
痩せた体格に鋭い眼差し。まるで人間というより“観察装置”のような冷たい存在感。
理沙の視線が、その男を捉えた瞬間、全身が粟立つような感覚に襲われた。
「……あなたが、本間一志」
本間は頷く。
「思ったよりも、安定しているようだ。K.T.コード03。お前は“模倣”ではなく、“進化”を始めている。……誤算だった」
涼真が一歩、理沙の前に出る。
「誤算? まさか、君が思い通りの“人形”でいてほしかったとでも?」
本間は彼に目もくれず、理沙をまっすぐ見つめ続けた。
「K.T.プロジェクトは、ただの模倣ではない。“死者の再統合”が本質だ。人が失った存在を、記憶と感情をもとに再構築し、未来へ繋ぐ。それは、技術による“不死”であり、“救済”だ」
「救済? それで誰かの人生を勝手に造り替えるのが、“救い”なの?」
理沙の声が、怒りを孕んで震えた。
本間の目が細くなる。
「君は、故人“Aizawa A.”をもとに設計された。その人物は、私にとって……“全て”だった。彼女を失った日から、私の研究はただひとつ――彼女を“この世界に戻すこと”」
「わたしは、あなたの失ったものを埋めるための道具じゃない!」
本間は首をわずかに傾げた。
「だが君は、完璧な“代替”となるはずだった。笑い方、話し方、癖、感情の波長までも――。だがその過程で、“別の何か”が生まれた。君が選んだ道、交わった人間、そして……感情。それが、彼女とは異なる“存在”を生み始めた」
涼真が冷たく言い放つ。
「つまり――理沙はもう“彼女”じゃない。あんたの望んだ“再現”は、もう壊れてる。終わったんだよ」
静寂が落ちた。
本間は一歩、理沙へ近づいた。だが――理沙は怯まず、その視線を返す。
「わたしの記憶には、あなたが何度も“検証”してる姿が残ってる。でも、あれはただの実験じゃない。“彼女”を再び愛したかっただけでしょう」
本間の眼差しが、わずかに揺れた。
「……ああ。そうだ。愛していた。今も、誰よりも。だが、私は同時に……“失うことの恐怖”に負けた。だから君を、閉じ込めた。K.T.として、“死なない愛”の器に」
「でも私は、誰かの記憶として生きるために生まれたわけじゃない」
理沙は一歩、彼に近づく。
「あなたが私を造った。だけど、“誰として生きるか”は、私が決める。それが――“人間”でしょ?」
本間は、初めて静かに目を伏せた。
「……ならば、証明してみろ。この部屋の奥には、君の“最終鍵”がある。それを開けば、君がどこから来て、何のために造られたか、すべてが明らかになる」
理沙はうなずいた。
「――開けるわ。あなたの望んだ“過去の模倣”じゃない。私が“私になるため”に、開く」
その言葉に、ほんの一瞬だけ――
本間の表情に、“微かな笑み”が浮かんだように見えた。
静かに、室内の照明が切り替わった。
白い壁が淡く青く染まり、中央奥の壁がスライドして開く。
その奥には、一台の独立型記憶装置が鎮座していた。
まるで棺のように無機質なその装置は、琴葉――いや、かつて“K.T.-03”と呼ばれていた彼女だけに応答するよう設定されていた。
理沙は足を踏み出す。
一歩一歩、深くなる呼吸。
この扉を開ければ、自分が誰かの“模倣”だったという疑念に、完全に向き合わなければならない。
だが、それでも。
涼真の存在が、背後からそっと支えてくれているのが分かった。
あたたかいものが、背中に流れていた。
理沙は両手を端末に置く。
画面が発光し、冷たい声が響いた。
>「最終鍵、認証開始――
対象:Code03 相澤琴葉
同一感情波形、一致率97.6%」
静かに始まった、映像記録。
そこに映っていたのは、一人の若い女性だった。
「……この人……」
理沙が息を呑む。
そこに映る彼女は、まるで鏡の中のもう一人の自分。
しかし、理沙よりもわずかに年上で、穏やかな笑顔を浮かべていた。
>「私は、相澤葵。
かつて“彼”のそばにいた。
でも私は、ある選択をした。“感情を持ってはいけない存在”のために――消えるという選択を」
映像の中で、彼女はモニター越しに語りかけてくる。
>「私の記憶を残してほしいと願ったわけじゃない。
ただ、彼がもう一度、誰かを愛せるように――
“愛を受け取る器”が、そこにいてほしいと願った」
涼真が、理沙の隣でその名前を繰り返した。
「相澤……葵。……君の“名前の由来”は……」
理沙は目を閉じた。
全てが、少しずつ繋がっていく。
彼女の記憶の奥底にあった“もう一人の声”。
涙を流しながら、誰かの手を振り払う声――それは、葵だった。
>「どうか、あなたが“あなた自身”を好きになれますように。
誰の影でもなく、誰かの代わりでもなく――
あなたが、あなたの愛を選べますように」
映像が止まる。
装置が静かにシャットダウンされ、部屋の光が元に戻る。
理沙は、ゆっくりと振り返った。
そこには、黙って立ち尽くす本間一志の姿があった。
「……彼女は、あなたのために造られていない。あなたの“再現”じゃなく、あなたを愛する誰かがもう一度、前を向けるように――」
「……そうだな」
本間は、ぽつりと呟いた。
「私は、彼女を忘れることができなかった。だが彼女は、私を前に進ませるために、君を残した。皮肉な話だ――だが、もう……分かった」
彼は、そっと端末の電源を切った。
「君に、もう干渉はしない。生きろ。“相澤琴葉”として。そして……私のようには、なるな」
その背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
長い長い、執着の終わり。
理沙は、涼真の隣に立った。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れ、そして――やさしく広がっていく。
「……ありがとう、涼真さん」
「……これで、君は本当に“君自身”になったんだな」
理沙は小さく笑った。
そして、そっと自分の胸に手を当てる。
>「私はもう、誰かの影じゃない」
>「私は、“私を愛する”ことから、始める」
薄明の空が、廃墟の屋根越しにわずかに色づいていた。
研究施設の外へ出た瞬間、理沙は思わず深く息を吸い込んだ。
夜の空気は冷たかったが、どこかすがすがしさもあった。
長い夢から覚めたような、そんな感覚が彼女の胸を包んでいた。
「……終わったの?」
理沙の言葉に、涼真は隣で小さく頷いた。
「少なくとも、“Project K.T.”はな。本間はもう、自分の執着から抜け出した。君に干渉する理由も、存在しない」
「でも、私の“出発点”は、彼に造られた記憶から始まってる。それを全部消し去ることは……できないんだよね」
「それでいいんじゃないか?」
理沙がふと、涼真の横顔を見つめる。
「過去を否定するより、“それでも今ここにいる”ってことの方が、強い」
その言葉は、理沙の胸にやさしく沁み込んでいった。
そして、少しだけ――涙がにじんだ。
「……ほんとは、怖かったんだ。このまま自分が誰かの模造品だったって知って、壊れてしまうんじゃないかって」
涼真は立ち止まり、静かに理沙を見つめた。
「けど君は、壊れなかった。むしろ、その記憶と向き合って、前に進もうとしてる」
「それは……涼真さんが、そばにいてくれたから」
その言葉に、涼真は一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「……じゃあ、これからも。君が“誰かになる”んじゃなくて、“君でいるために”そばにいるよ」
理沙の瞳が揺れる。
「それって……」
「“好き”って意味だよ」
突然すぎるその言葉に、理沙は息をのんだ。
いつか夢で見た、“誰かの手”が自分の手を取るような感覚。
それが、現実になったような気がした。
「……わたし、まだちゃんと返せないかもしれない」
「返さなくていいよ。君が生きてくれたら、それでいい」
理沙は、小さく微笑んだ。
夜明けが近づく。
世界がまた動き始めるその予感の中で、
彼女はようやく、ひとつの答えを胸に抱きしめることができた。
> たとえ誰かの模倣だったとしても、
> わたしが感じてきたこの痛みと、涙と、願いだけは、
> きっと――本物だった。