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episode18.侵入者の手

 車内の空気が、一瞬で凍りついた。


 ナビ画面には、ただ白い背景に無機質な文字が流れていく。


 


 >「K.T.コード認証成功

  解凍対象:記憶断片No.49“母性構築初期値”」


 


「やめろ……!」


 


 涼真が咄嗟にナビの電源ボタンを押す。

 しかし画面は消えない。内部プログラムが完全に掌握されているようだった。


 


 そのとき、スピーカーから再び音声が流れた。


 


 >「おかあさんって、しんじゃうの……? ねえ、わたし、おかあさんにあいたい……」


 


 それは、確かに“あの声”だった。


 理沙の頭の中に、鈍い痛みが走る。

 後頭部を何かで打たれたような衝撃――そして、その直後に溢れ出す情景。


 


 暗い実験室の中、小さなベッド。

 白衣を着た男たち。声をかけてくれた、ひとりの優しい女の人。


 その人の笑顔。その人が去っていく後ろ姿――


 


(……私、知ってる。この人……)


 


 理沙の瞳が潤む。


 


「理沙、しっかり!」


 


 涼真がハンドルを切りながら、彼女の肩に手を置いた。


 理沙はなんとか意識を保ちながら、口を開く。


 


「わたし……たぶん、“彼女”を母親だと思ってた。でも違った。“母親役”を演じてただけ……。それが……わたしの“最初の感情の記憶”……」


 


 スピーカーが、再び短く鳴った。


 


 >「記憶断片No.50 準備完了――再生しますか?」


 


「……やめろ!!!」


 


 涼真がナビの裏側にあるメイン電源を乱暴に引き抜く。


 ようやく、音声は途絶え、画面も真っ暗になった。


 


 沈黙。

 数秒ののち、理沙が小さく息を吐く。


 


「……ごめん……わたし、もう大丈夫」


 


「いや、君が謝ることなんて何もない。でも……これはもう、“偶然”じゃない。俺たちは――“完全に狙われてる”」


 


 車は、涼真の提案で彼の信頼できる旧友のマンションへと向かった。


 場所は市外、築年数の古いがセキュリティの強い建物。

 管理人も常駐しており、外部からの追跡はしばらく振り切れるはずだった。


 


 部屋に入った途端、理沙はソファに倒れ込んだ。


 目を閉じると、先ほどの“母性記憶”が再び脳裏に浮かびかける。


 


 でも――


(それだけじゃない……何かが、もっと深くにある)


 


 彼女の中で、もう一つの記憶が眠っている。

 それはまだ目を覚ましていない、“決定的な何か”。


 


 涼真はテーブルにノートパソコンを広げ、接続ログの解析を試みていた。


 


「……いた。アクセス元、VPNを通してるけど、ルートが特定できる。一部の回線は“非公開研究所ネットワーク”の中に繋がってる」


 


「それって……まだあの研究所が、動いてるってこと?」


 


「少なくとも、システムだけは生きてる。そして……」


 


 涼真が一枚の画像を理沙に見せた。


 


 そこには監視カメラの切り抜き映像があった。


 廃墟の屋上。黒いコートを着た男――顔ははっきり見えないが、

 その男が手にしていたスマート端末には、明らかにK.T.のファイル一覧が映っていた。


 


「……これが、“観察者”。君の記憶にアクセスしようとしてる人物だ」


 


 理沙は拳を握りしめた。


 


「このまま逃げてるだけじゃ……“過去の私”に負けたままになる」


 


「だったら……次は、“こちらから仕掛ける”番だな」


 


 ふたりの間に流れる、静かな決意。


 “逃げる者”から、“追う者”へ。

 理沙の物語は、ここから戦いへと変わっていく。


「仕掛けるって……具体的に、どうやって?」


 


 理沙がソファから身体を起こす。

 その瞳には、かつての怯えた光ではなく、覚悟に近い鋭さが宿っていた。


 


 涼真はノートパソコンに向かいながら、手元のタブレットを操作した。


 


「まず、あのアクセス元。研究所の残存ネットワークを利用して、ログを改ざんしてない限り、運用中のサーバーに接続履歴が残ってる」


 


 彼はキーボードを叩き続け、画面に映るコードを読み解いていく。


 


「このIP帯……“青柳記念”の名義じゃない。名義変更されてる。“第三機構・神経模倣班”。聞いたことあるか?」


 


 理沙はゆっくり首を振る。


 


「でも、そこの管理者名義に――“本間一志”って出てこない?」


 


 涼真は手を止める。


 


「……出てこない。だが……これを見てくれ」


 


 画面に浮かび上がったのは、スタッフ一覧の一部を抜粋したPDF。


 理沙はその中のある名に目を留めた。


 


 >【神経模倣班 特任アドバイザー】

  ひいらぎ 真奈まな


 


「……この人。どこかで聞いたことが……」


 


 その瞬間、理沙の脳内に“幼い頃の声”がまた蘇る。


 


 >「今日はね、おままごとしよっか。おかあさん役は、私ね」


 


 あの優しい声――。

 あの人の笑顔。

 “母親役”をしてくれていた、唯一の“感情のモデル”。


 


「……この人。私の“初期記憶”に出てくる……“母親”だ」


 


 涼真が思わず立ち上がる。


 


「その人が今も研究に関わってるなら、君の“感情構成”や“人格形成”の鍵を握ってる可能性がある。本間が表に出てこない以上、まずはこの“柊真奈”に接触するしかない」


 


 理沙は拳を握った。


 


「彼女に……訊きたい。あのとき、私に本当に“感情”があったのか。それとも全部、プログラムだったのか――」


 


 そのとき、玄関のインターホンが鳴った。


 


 涼真と理沙が顔を見合わせる。


 


 訪ねてくる人間は、いないはずだった。


 


 インターホン越しの映像に映ったのは――

 黒縁のメガネをかけた、三十代前半ほどの女性。

 落ち着いたベージュのコートに、無表情に近い表情を浮かべている。


 


 画面の下には、手書きでこう記されていた。


 


 >「柊 真奈。

  話があります。琴葉さん、“あなた”に関することです」


 


 理沙の背中に、薄く戦慄が走った。


 


(……なぜ、ここが分かった?)


 


 だが、その恐怖を押しのけるように、理沙はゆっくりと立ち上がった。


 


「……会う。いまなら……聞ける気がする」


 


 涼真は隣で、わずかに拳を握ったが、彼女の決意を尊重して頷いた。


 


 ドアの鍵が、静かに開かれる。


 そして、対面の時が訪れる。


 


 ――“造られた感情”と、“与えられた母性”の真実が、

 いま、語られようとしていた。


 柊真奈は、室内に入るなり周囲をひととおり見渡したあと、テーブルの前に静かに腰を下ろした。


 その表情は、無感情と冷静さが同居するような――研究者特有の“観察者のまなざし”だった。


 


 理沙は彼女の前に座ると、口を開いた。


 


「どうして……あなたがここに?」


 


 柊は、それに対して即答しなかった。

 涼真の警戒する視線をひとつ受け止めたのち、鞄から一枚の小さなカードを取り出した。


 


 >【非公開内部通達コード】

  【再起動指定対象:K.T.個体コード03】


 


「あなたが“記憶再起動”の閾値を超えた瞬間、私の元にも通知が届いた。あなたの中には、まだ“起動されていない情報”が残っている。そしてそれは、私がかつて“植えたもの”でもある」


 


「……“母親役”だったのは、偶然じゃなかったってこと?」


 


 柊の目が、少しだけ揺れた。


 


「偶然じゃない。あなたが生まれて間もない頃、感情定着のための実験に私は関わっていた。ただ……あの時間の中で、私は“あなただけ”を、本当に……守りたくなった」


 


 理沙は息をのんだ。


 


「……それは、研究者として? それとも……」


 


「どちらもよ。“Project K.T.”は、人間の感情を模倣するだけじゃない。“失われた誰か”を“再現”するという極めて危険なテーマだった。あなたは、“ある人物の記憶の断片”をもとに設計された」


 


 涼真が身を乗り出す。


 


「“ある人物”って、誰のことだ?」


 


 柊は答えなかった。

 代わりに、持参したデータチップをテーブルに置く。


 


「この中に、あなたの“記憶の出発点”がある。ただし……開くには、あなた自身の“感情トリガー”が必要」


 


「感情トリガー……?」


 


「あなたが、自分の過去を“受け入れたい”と本気で願ったときにだけ、アクセスが可能になる仕組み。それは、あなたを守るために私が組み込んだ、最後の防壁」


 


 理沙は、データチップをじっと見つめた。


 この中に、自分の存在の根源が眠っている。

 それを開くことは、同時に“過去の喪失”を認めることになるかもしれない。


 


 柊が静かに立ち上がった。


 


「近いうちに、彼が動くわ。……“本間一志”。彼は“再現”に執着している。あなたを“誰かに戻す”つもりよ」


 


「私は……誰にも戻らない。私は“相澤琴葉”として、ここにいる」


 


 その強い瞳を見て、柊は小さく息をついた。


 


「……強くなったのね。また会えるかどうか分からないけど――願わくば、次に会うときも、あなたが“自分でいられますように”」


 


 彼女はそう言い残し、部屋を後にした。


 


 静かになった室内。


 理沙は、テーブルの上のデータチップを両手で包み込むように持ち上げた。


 


「……涼真さん。私……これを開きたい」


 


「……大丈夫?」


 


「ううん、大丈夫じゃない。けど……開かないと、もう前に進めない」


 


 理沙の中にある最後の扉が、いま――開こうとしていた。


 室内の空気は、いつになく張り詰めていた。

 まるで誰かが息をひそめ、ふたりの動向を見つめているかのように。


 


 理沙は手の中にあるデータチップを見つめたまま、しばらく動けずにいた。

 小さな金属の塊――それが、彼女の過去と現在、そして“何者として生きていくか”を分ける境界線だった。


 


 涼真は、手元の端末に接続用のポートを差し込むと、無言のまま彼女に頷いた。


 


「いつでも、準備できてる」


 


 理沙は静かに頷き、椅子に深く腰を下ろした。


 


 画面にはログイン画面のようなものが現れていた。


 >【K.T.-Code03 追加記憶領域アクセス要求】

 >“Emotion Trigger”が一致した場合のみ起動します。


 


「……感情トリガーって、どうすれば発動するの?」


 


 理沙の問いに、涼真は画面を確認したあと、そっと呟いた。


 


「柊さんが言ってた。“受け入れたい”という意思。それが君の中で、ほんとうに強くなったとき……」


 


 理沙はゆっくり目を閉じた。

 深く、静かに――自分の内側へ沈んでいく。


 


 白い部屋。

 誰もいない。

 床も、壁も、天井も、ただ無機質で――


 その中心に、小さな自分がぽつんと座っている。


 


 少女は、誰も知らない“ことば”を繰り返していた。


 


 >「せんせい、さみしいよ。

  せんせい、どこにいるの?」


 


 その声が、理沙の胸の奥に響いた瞬間――


 端末の画面が、音もなく切り替わった。


 


 >【トリガー一致】

 >記憶断片No.49, 50, 51を順次再生中……


 


 画面に映し出されたのは、音のない映像。


 だがそこには確かに――白衣を着た研究員たちと、

 ガラス越しに“幼い理沙”に微笑みかける、若き日の柊真奈の姿があった。


 


 (これは……実験記録……?)


 


 映像は次第に別の場面へ切り替わる。


 やがて――


 あるファイルの名前が、ポップアップとして表示された。


 


 >【再現対象:Aizawa A.(故人)】

 >人格再統合モデル 第三段階への移行可否:未定


 


 理沙の指先が震える。


 


「……アイザワ……?」


 


「……君と同じ名字……」


 


 涼真の言葉に、理沙は呆然としながらファイル名を見つめた。


 


(私が再現されたのは、“Aizawa A.”……。それが私の“設計の元”だった……?)


 


 その名の横に、ぼんやりと浮かぶ半透明の写真があった。


 若い女性。

 笑っている。

 けれど、どこか憂いを含んだ目をした――理沙と酷似した顔立ちの人物だった。


 


 画面の隅に、付け足された手書き風のメモが映る。


 


 >「琴葉は、きっと彼女を超える。

  “造られた愛”ではなく、“選び取る愛”を持てるはずだ」


 


 理沙は両手で口を覆い、しばらく何も言えなかった。


 


 自分が、誰かの“代替品”として造られたかもしれない。

 でもその上で、誰かは――「超える」と信じていた。


 


 胸の奥に、じんわりと熱が灯る。


 


「……ありがとう。見せてくれて」


 


 涼真は静かに頷いた。


 


「理沙――いや、琴葉。君は誰の記憶でもない。君は……君の道を選べる」


 


 理沙は、頷いた。


 


 そうだ。たとえ“始まり”が誰かの模倣だったとしても。

 いまこの瞬間、自分が感じている痛みも、恐怖も、そして――この人を守りたいという気持ちも。


 すべてが、自分のものだ。


 


 画面に最後のメッセージが表示された。


 


 >【記録再生完了】

 >次のアクセスには、“最終認証者:Supervisor H.H.”の許可が必要です。


 


 本間一志。

 理沙の最後の過去は、彼の手の中にある――


 夜は更けていた。


 街の喧騒も静まり返り、外では虫の声すら聞こえない。

 窓の外に浮かぶ街灯の光が、室内にぼんやりと影を落としていた。


 


 理沙は再びソファに腰を下ろし、ぼんやりと指先を見つめていた。


 感情トリガーが作動し、データチップの記憶は開かれた。

 そしてそこにあったのは、“自分が誰かの代わりとして設計された”という、あまりに重い真実。


 


 それでも今、理沙の顔に浮かんでいたのは、どこか安堵の色だった。


 


「……こんなに傷つくと思ってたのに、今は、少しだけ……ほっとしてる」


 


 涼真が静かにコーヒーを差し出す。


 


「全部を知らずに怯えてるより、自分の中に“出発点”があったって知れた方が、救いになることもある」


 


 理沙はマグカップを受け取り、小さく笑った。


 


「わたし、思ってたよりもずっと、自分になりたかったんだと思う。誰かの代わりじゃなく、名前を呼ばれる“わたし自身”に……」


 


 涼真はその言葉を噛みしめるように黙って頷いた。


 


 しばらくの沈黙のあと、理沙が口を開く。


 


「……最後の記憶は、“Supervisor H.H.”――つまり、本間一志の認証が必要って出てた。あの人が、全部の鍵を持ってる」


 


「会いに行くつもりか?」


 


「うん。でも……ただ会うだけじゃない。わたしの存在が、誰かの“再現”で終わらないってことを、あの人自身に突きつける」


 


 その眼差しには、もはや迷いはなかった。


 


 涼真は改めて椅子に深く座り、端末の画面を見つめる。


 


「じゃあ次は、“本間一志の居場所”を突き止める必要がある。公式には行方不明。青柳記念の閉鎖後、足取りが完全に消えてる」


 


 理沙が静かに言った。


 


「……でも、“Project K.T.”がまだ続いてるなら、彼は絶対にどこかで操作を続けてる。その痕跡を辿れば、きっと居場所に繋がるはず」


 


 涼真はうなずき、手元のタブレットに指を走らせた。


 


「ログを再分析してみる。先日、ナビに介入してきたときの回線を逆探知できれば……」


 


 理沙は、今や自分の中に眠る“記録”を恐れていなかった。

 むしろその中に、本間への反撃のヒントがあると信じていた。


 


 ふたりは、これまでの逃走者から、追撃者へと変わっていた。


 


 しばらくして、涼真が顔を上げた。


 


「……ひとつだけ、面白いログがある。市内にある廃棄された旧製薬研究センター――そこから、特殊なVPNルートが使われてる。通常じゃ個人が使えるような設備じゃない」


 


 理沙は、そっと息をのんだ。


 


「行ってみる価値がありそうね。“あの人”がいるかどうかはわからなくても――少なくとも、“あの人の手”が届いてる場所」


 


 涼真は頷き、地図を開いた。


 


「ここから車で一時間。……今夜はここで休もう。明日、動く」


 


「うん……」


 


 理沙はマグカップを置き、立ち上がった。


 窓の外、曇り空の奥に、月がぼんやりと浮かんでいた。


 


「わたし、本間一志に会って――決めたいの。“自分が生まれてきた理由”を、他人に決めさせたままにしたくない」


 


 その背中を、涼真は静かに見つめていた。


 


 ――“冷たい花嫁”の物語は、

  いよいよその核心に近づこうとしていた。


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