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episode17.記憶の眠る場所

 車の窓の外、風景は徐々に人の気配を失っていった。


 錆びたフェンス、雑草に埋もれた歩道。

 道を行くほど、時間が止まったかのような静けさが、空気を重くする。


 


「ここで……本当に合ってる?」


 


 理沙が口を開いたとき、目の前に忽然と現れたのは、ひときわ異様な建物だった。


 コンクリートの塊のような無機質な構造。

 かつて「青柳記念医学研究所」と呼ばれたその施設は、今や廃墟に近い状態だった。


 


「……誰かに荒らされた形跡もない。でも、誰にも手を付けられずに放置されていたとは思えないな」


 


 涼真が運転席から降り、建物の周囲を見回す。


 入り口の自動ドアは電源を失い、手動でわずかに開かれていた。

 ドアの隙間から覗くと、内部は暗く、埃が舞っているのが見える。


 


「……行こう。多分、地下の文書室は、この奥のエレベーターの横の非常階段から降りられる」


 


 理沙の声は震えていなかった。

 涼真の隣で、彼女の表情はむしろ、何かを“確かめる者”のように引き締まっていた。


 


 ふたりはスマートフォンのライトを頼りに、薄暗い廊下を進んでいく。

 壁には所々、剥がれかけた掲示物や、年月に風化した注意書きが残っていた。


 


 やがて、地下へと続く非常階段の前にたどり着く。

 金属の扉には錆が浮いていたが、涼真が力を込めると、重く軋みながらも開いた。


 


「足元、気をつけて」


 


 コンクリートの階段を、ゆっくりと一段ずつ降りていく。


 やがて、地下の空間にたどり着くと、かすかに湿った空気が肌を撫でた。


 


「……ここ。間違いない。私、覚えてる」


 


 理沙が呟いたその先には、重い鉄扉が一枚。


 錠前は破られた形跡があり、開けようとすれば今でも開けられそうだった。


 


 涼真が確認するように見つめると、理沙は静かに頷いた。


 


 扉が開く。


 暗闇の中、微かな埃の匂いとともに、棚の影が浮かび上がった。


 


「この部屋の、一番奥――あのキャビネット。あのとき、そこに“K.T.”と記されたファイルが……」


 


 理沙は迷わず歩みを進める。


 そして、鍵のかかっていない古い引き出しを開いた瞬間。


 


 そこには――


 白い封筒に包まれた、厚みのあるファイルが確かにあった。


 


 手書きのタグにはこう記されていた。


 


 >「K.T. / Phase α - 成育記録 No.03」


 


 理沙の手が、小さく震える。


 “成育記録”――。

 まるで、彼女の人生が“管理されたプログラム”だったと告げるような言葉。


 


 涼真がそっと彼女の肩に手を置く。


 


「大丈夫。ゆっくりでいい」


 


 理沙は深く息を吐き、封筒を開く。


 中から現れたのは、膨大なカルテと行動観察報告書。

 その中には、“被験者K.T.”という名で綴られた記録が並んでいた。


 


 >「言語反応、感情反応、模倣行動において平均を超える適応。

  一部行動は職員に対する情動転移の兆候あり」


 >「被験者は“母親”という概念に強い反応を示すが、

  具体的対象は与えられていない。これは人工的な原体験刺激が影響か」


 


「……これは、私じゃない。でも……私なんだ」


 


 理沙の声が震える。

 そこに記されていたのは、確かに“相澤琴葉”としての彼女ではなかった。

 しかし、その中にあった感情や反応は――理沙自身が、いま抱えているものと重なっていた。


 


「ねえ、涼真さん。私、ここで何をされていたの……?」


 


 その問いに、涼真も答えられなかった。


 ただ、彼は静かに呟いた。


 


「それを、これから一緒に探ろう。必ず」


 


 そして、ふたりの足元で微かに“ピッ”という電子音が鳴った。


 理沙がファイルを取り出したことで作動した、小型のセンサー。


 


 ――この瞬間、“誰か”がふたりの動きを察知した。


 そして、眠っていた“第二の観察者”が、ゆっくりと目を覚ます。


 地下室の空気が、急に冷たくなったように感じた。


 ファイルをめくるたび、理沙の指が細かく震えていく。

 それは恐怖ではなかった。ただ、あまりに多くの情報が“自分の名の下に”記されていることへの、圧倒的な違和感だった。


 


 >「K.T.:被験個体第3号。

  当初は安定的な感情反応を示すが、模倣対象との接触後、

  独立的な判断を試みる傾向が強まる」


 


 >「Phase βへの移行検討。

  ただし、既存制御プロトコルとの乖離が大きく、

  一部研究員より“自然意識の発芽”の可能性が指摘される」


 


 理沙は、まるで誰かが自分を他人のように観察し続けていたことに、はっきりと気づき始めていた。


 それは記憶のない頃――言葉を話す前、いや、もっと前。


 感情の“形”を獲得する前の、無垢な段階の記録だった。


 


「……これ、まるで……私が誰かの意思で“感情を植えられた”みたい」


 


 理沙の声は、ささやくように低かった。


 その横で涼真が、ある一枚の紙を取り出す。


 


「これ……見て」


 


 彼が指差したその紙には、研究員のサイン欄があった。

 そこに記された一つの署名――


 


 >「Supervisor:H. Honma(本間 一志)」


 


 理沙が息を呑んだ。


 


「……本間。あの、非通知の電話と同じ……」


 


 涼真は、指先でその署名の下に付された“コードネーム”に目を留めた。


 


 >「記録管理官コード:NEU-07」


 


「NEU……。神経モデル研究班の、ナンバー7?」


 


「コードネームまであるなんて……これは、ただの実験じゃなかった。これは、“神経模倣による意識構成”そのもの。もしかして……私、“人間の記憶や感情をもとに作られた別人格”なの?」


 


その言葉に、涼真は息をのんだ。

 だが、彼はすぐに理沙の手を握り返す。


 


「たとえ君がそうだとしても、今の君が“琴葉”であることに変わりはない。この数日、君が笑ったことも、泣いたことも、俺と過ごしたすべてが……本物だった」


 


 理沙はその言葉に、かすかに目を伏せた。


 


「うん……分かってる。でも、それでも……知りたいの。“私を造った理由”を。私の感情が“誰かの代用品”だったのか、それとも――」


 


 そのときだった。


 ――カチッ。


 ごく小さな音が、地下室の奥で響いた。


 


 ふたりが同時に顔を上げる。

 明かりの当たらない棚の隙間、空気がわずかに揺れていた。


 


「……誰か、いる」


 


 涼真が立ち上がり、棚の奥にライトを向けた――


 


 しかし、そこには誰の姿もなかった。


 だが、床にはひとつの黒いコードが這っていた。

 目を凝らすと、それは壁際に置かれた監視用カメラの“外付けバッテリー”へと繋がっていた。


 


「録画されてる……? 今でも?」


 


「いや。これは自動反応型。俺たちがこの部屋に入って、一定の動作をしたことで録画が“始まった”んだ。

つまり――この装置を仕掛けた“誰か”が、これから録画を確認する可能性がある」


 


 理沙の背筋が、静かに凍る。


 


 誰かが“観察を再開”した。


 あの封じられた記録が、理沙の手によって開かれた瞬間から――


 すべてが、再び動き出したのだ。


「涼真さん、これ……もう録られてるのよね?」


 


 理沙が震える声で問うと、涼真はうなずきながらバッテリーモジュールの接続端子を引き抜いた。


 


「もう止まった。けど……遅いかもしれない」


 


 コードをたどった先には、小型のワイヤレス通信ユニット。

 ログイン状態のまま、電波を飛ばしていた形跡が残っている。


 


「……これ、外部に送信されたかもしれない?」


 


「可能性は高い。ログを取れれば追えるけど、ここにそれを処理できる端末は見当たらない。もしかしたら、近くに“観察者”がいるのかもしれない」


 


 理沙の背筋が凍りつく。

 それは、誰かの視線を感じたからではない。

 今こうして手にしている“自分の過去”が、もう他人の手の中にあるかもしれないという、じわじわと染み出す恐怖だった。


 


「出よう。この場に長くいるのは危険すぎる」


 


 涼真の言葉に、理沙は頷いた。


 


 だが――


 彼らが出口へ向かおうとした、そのときだった。


 


 地下室の鉄扉が、“バタン”と大きな音を立てて閉じられた。


 


 理沙の目が見開かれる。


 


「……嘘」


 


 涼真がすぐに駆け寄って取っ手を回すが、内側からはびくともしない。


 


「鍵が……」


 


 理沙は、恐る恐る振り返る。

 廃墟のはずの空間に、誰かの気配が――いや、“演出された不気味さ”が満ちていく。


 


 そのとき。


 


 スピーカーから、低い電子音が鳴った。


 


 ――キィィィ……。


 


 そして、歪んだ音声が流れる。


 


 >「記録再生:Project K.T. 制御ログNo.17、被験者反応レベル:高」


 


 理沙の顔が青ざめた。


 


「……これ、私の声……?」


 


 スピーカーから流れ出したのは、幼い少女の声だった。


 


 >「せんせい……おかあさんって、なに?」


 >「せんせい……なんでわたしだけ、おとなにならないの?」


 


 理沙は耳を押さえ、膝をついた。


 頭の奥で、何かが“割れそう”だった。


 


 涼真がすぐさま彼女の肩を抱きしめる。


 


「大丈夫! ここから出よう、必ず!」


 


「わたし……忘れてた、全部……この声、わたしの中に、ずっとあったのに……!」


 


 鉄の扉の前で、ふたりは壁を押し、スイッチを探す。


 やがて、涼真が見つけた小さな蓋を開け、中の強制解錠ボタンを発見した。


 


「理沙、下がって!」


 


 彼がボタンを押すと同時に、扉の錠がバチッと音を立てて外れ、開いた。


 


 吹き込んでくる空気。

 まるで解放のように、地下の湿気が押し流されていった。


 


 涼真は理沙の肩を支えながら、地上への階段を駆け上がる。


 


 ようやく日差しが見えた時、理沙の目には涙がにじんでいた。


 


「……私は、何をされてたの?」


 


 涼真は、その問いに答える代わりに、ぎゅっと理沙の手を握った。


 


 そして、その廃墟の屋上には。


 双眼鏡を手にした黒いコートの人物が、無言で立っていた。


 


 風が吹く。


 記録は再び、“誰かの手”によって動き出していた。


 階段を駆け上がったふたりは、ようやく地上の空気を肺に満たした。


 陽は傾きかけており、廃墟の外に広がる雑草の原は、鈍色の光に照らされて揺れていた。


 


「こっち、車はあっちの通路の先」


 


 涼真が手を差し伸べ、理沙はそれを握ったまま、無言でうなずいた。

 彼女の顔色はまだ青白かったが、瞳にははっきりとした意志が戻っていた。


 


 ふたりは足早に敷地を出ようとした。


 だが、理沙は背後に何かの気配を感じてふと振り返った。


 


 廃墟の屋上。

 さっきまで空っぽだったその場所に、確かに“誰か”が立っていたような気がした。


 


「……誰か、いた気がする」


 


「俺も、同じ感覚がした」


 


 涼真が運転席に乗り込むと、すぐに後部座席のドアに小さな貼り紙が挟まっていることに気づいた。


 


 それは雨でふやけた紙だった。けれど、そこに書かれた文字は確かに読めた。


 


 >「Project K.T.は終わっていない

  次は、“記憶”の番だ」


 


 涼真が理沙に見せると、彼女はそれを見て、一瞬凍りついた。


 


「“記憶”……?まだ何かが残ってるってこと……?」


 


「いや、“記録”じゃない。“記憶”だ。つまり……君の中に眠っている“もうひとつの鍵”が狙われている」


 


 理沙の手が、無意識に胸元を押さえた。


「忘れたと思っていたはずの感情や言葉が、あの声で一気に溢れ出してきた。私……もしかして、自分でも気づかない“記憶の断片”を抱えたまま、生きてきたのかもしれない」


 


 涼真はすぐにエンジンをかけた。


 


「このまま帰るのは危険だ。第三者に尾行されてる可能性が高い」


 


 車は発進し、砂利道を大きく回って本通りへと出る。


 だが、バックミラーに映った黒い車影が、一台、一定距離を保ちながらついてきていた。


 


「理沙、下を向いてて」


 


 涼真はミラー越しにその車を確認しながら、いくつかの路地を利用して巻こうとした。


 だが、相手の運転は慎重でありながら、明確に“ついてきている”意志を感じさせた。


 


 理沙はシートの下に身を沈めながら、小さく呟いた。


 


「見えない目に追われてる……それがこんなにも、現実味を帯びるなんて」


 


「でも、これで確信できた。君の過去は、まだ誰かの利害に触れてる」


 


 バックミラーの中、車影は次第に距離を詰めてきていた。


 そして涼真は、決意したようにハンドルを切る。


 


「撒く。……そのあと、避難場所を変えよう」


 


 車はスピードを上げ、夜の街に滑り込む。


 


 “Project K.T.”が動き出した今――理沙の記憶の奥に潜む、“最後の断片”が狙われていた。


「右、もう一度右!」


 涼真の声に応じて、車は急角度で曲がった。

 狭い住宅街の路地に入ると、追尾していた車のヘッドライトが一瞬、視界から消えた。


 


「撒けた……?」


 


 理沙が震える声で尋ねたが、涼真はすぐに首を振る。


 


「わからない。もう少し走る。人気のない道は避ける」


 


 アクセルを緩めずに走り続けながら、涼真はカーナビの現在地情報を確認する。

 旧市街の外れ、ほとんど人の気配のない場所。空は曇天に覆われ、外灯の光がほとんど意味を成していない。


 


 そのとき、理沙が小さく呻くように言った。


 


「……なんで、こんなに怖いのに、泣けないんだろう……」


 


「理沙?」


 


 彼女の視線はまっすぐ前を向いているが、目はどこか遠くを見つめていた。


 


「さっきの声、あれ……私が発した言葉だった。でも……私の記憶にはない。なのに……“身体”がそれを覚えてる。あれを聞いた瞬間、胸が痛くて……苦しくて……」


 


 彼女の右手が、そっと自分の左胸に触れる。


 


「誰かに、何かを奪われた感覚……まるで、私が“誰かにされたこと”を、思い出しかけてるような……そんな感じがした」


 


 その言葉に、涼真は一瞬、ブレーキを軽く踏んだ。


 


「……まさか、“感情記憶”まで操作されてたってことか?」


 


「わからない……けど……」


 


 理沙の視線が、ふと助手席の足元に落ちる。


 そこには、廃墟から持ち出した“K.T.”ファイルの一部が、車の揺れで滑り落ちていた。


 


 彼女はそれを拾い上げ、1枚のメモページを見つける。


 


 >「観察対象K.T.

  定期的に“愛情投影対象”の差し替えが必要。

  長期間の安定には、刺激的な離脱経験が必要とされる」


 


 理沙の表情が凍りつく。


 


「……差し替え? “愛情”を……操作してたってこと?」


 


「それってまるで……感情そのものを、実験パラメータみたいに扱ってたってことだよな」


 


 涼真の声にも怒りが滲む。


 


「君の“恋”も、“哀しみ”も、“渇望”も……誰かに“与えられたもの”だったって、そんなこと――」


 


「……だったとしても」


 


 理沙が、ぽつりと呟いた。


 


「いま、こうして私があなたといることだけは、誰のプログラムでもない。私はもう……“自分の感情”を、自分で選ぶ」


 


 涼真は彼女を横目に見て、頷いた。


 


「そうだ。君はもう“誰かの実験体”じゃない」


 


 バックミラーを再確認する。

 車の影は――消えていた。


 


「撒いたな。けど、油断はできない。すぐに安全な場所へ――」


 


 そのとき、ナビの画面が突然暗転した。


 


「……あれ?接続が……」


 


 画面に、無機質な文字が表示され始める。


 


 >「K.T.へのアクセス要求を検出

  過去ログとの一致を確認中――」


 


「……誰かが、車載ナビを乗っ取ってきた……!?」


 


 理沙は思わず、ぞくりと背筋を伸ばした。


 


 彼女の“記憶”は、すでにただの記録ではなかった。

 今も何者かの手で、“開かれようとしている扉”だった。

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