episode15.手のひらの温度
午後の光が、カフェの窓から斜めに差し込んでいた。
店内の静かな音楽と、低く響くミルの音が、どこか安心感をもたらしていた。
理沙は、テーブルの角を指でなぞりながら、少し落ち着かない様子で座っていた。
シンプルなカーディガンに、白いシャツ。飾り気のない服装が、かえって彼女の変化を際立たせていた。
ドアのベルが鳴く。
ふと顔を上げると、涼真がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
目が合った瞬間、彼はいつものように、少しだけ口元を緩めた。
「……待たせた?」
「ううん、私が早く来すぎただけ」
二人は、向かい合って座った。
言葉を選ぶように、慎重に、しかし自然に。
しばらくの沈黙が続く。
それを破ったのは、涼真の方だった。
「理沙……あのあと、ちゃんと眠れた?」
理沙は、小さく頷いた。
「うん。不思議と、ちゃんと眠れたの。怖い夢も見なかった。……たぶん、初めてかもしれない」
「そっか……よかった」
その返事だけで、彼の中にもどこか、張り詰めていたものが緩むのがわかった。
「ねぇ、涼真さん」
理沙が声を落として言う。
「わたし、自分が“誰かを好きになる”ってこと、ちゃんと信じてこなかった。それって“記録”なのか、“プログラム”なのか、ずっとわからなかったから……」
涼真はその言葉を遮らず、静かに待っていた。
「でも、今は……わたし、自分の中にある気持ちが、本物だって思える。怖くても、不確かでも、あなただけは嘘じゃないって……思えたの」
その声は、震えていた。
でもその分だけ、真剣だった。
涼真はゆっくりと手を差し出した。
何も言わず、ただテーブルの上でそっと開かれたその手に――理沙は、自分の手を重ねた。
あたたかい。
ずっと失っていた感覚が、指先から伝わってくる。
「ありがとう、理沙」
その言葉が、たまらなく愛しかった。
店の外では風が揺れ、木の葉がささやくように踊っていた。
冷たい季節は、もう終わったのかもしれない。
二人の間にあった“距離”が、ほんのわずかに縮まる。
それはまるで――春の始まりのような感情だった。
カフェを出ると、街はすでに夕暮れの色に染まっていた。
ビルの窓に映る赤橙色の光が、どこか懐かしく、やさしい。
理沙は涼真と並んで歩きながら、手に残る余韻を感じていた。
握っていた時間は短かったはずなのに、指先に彼のぬくもりがまだ残っている。
「夕方って、好き」
ふいに口を開いた理沙の声は、歩道に差し込む光とよく似ていた。
「一日が終わるのに、ちゃんと“終わったよ”って言ってくれてる気がする。次があるって、ちゃんと区切ってくれる。……そんな気がするの」
涼真は、ゆっくりと頷いた。
「理沙にとって、“次”って、どんなふうに見えてる?」
その問いに、理沙は少しだけ立ち止まった。
夕焼けが頬に当たる。光と風が交差する。
「……まだ形は見えないけど、でも――暗闇ではないと思ってる。あなたが“そこにいてくれる”ってだけで、光があるって感じるから」
涼真は言葉を失ったように、理沙の顔を見つめた。
その瞳の奥に映る自分の姿が、どこまでも透明だった。
「……ありがとう」
そう呟いた彼の声は、風の音にまぎれて小さく消えていく。
二人は並んで歩き続けた。
もう会話がなくても、不安になることはない。
空白は沈黙ではなく、信頼の余白に変わっていた。
横断歩道の信号が青に変わる。
渡るその一瞬、理沙は涼真の袖をそっと掴んだ。
「……ねぇ。明日、どこか行かない?」
「どこでも。理沙が行きたいなら」
「ううん、一緒に考えよう。……“二人で選ぶ”の、やってみたいの」
涼真が、少しだけ目を細めて笑った。
「じゃあ、明日の行き先は“未定”ってことで。初めてだな、そんな選び方」
理沙も笑った。
心から、自然に。
胸にある痛みも過去も、今はすこしだけ遠くなっていた。
“冷たい花嫁”と呼ばれたあの頃の自分は、もうここにはいない。
いま隣にいるのは、誰かと手を取り合いながら、
迷いながらも“これから”を作ろうとする――ひとりの女の子。
そう思えた瞬間、また新しい風が吹いた。
やさしく、春の香りを運んでくる風だった。
駅前で、涼真と別れた。
特別な言葉はなかったけれど、理沙は振り返らずに歩き出した。
手のひらには、まだ彼の体温が残っている。
帰り道、街はゆっくりと夜に染まりはじめていた。
ショーウィンドウの灯り、すれ違う人々の声、電車の音。
どれもが、今夜の理沙にとってはやけにやさしく響いた。
マンションの部屋に戻ると、空気がひんやりとしていた。
誰もいないはずなのに、ほんの少しだけ寂しくなかった。
コートを脱ぎ、照明をつけ、湯を沸かす。
夜は、誰かの隣にいた直後ほど、静かに感じる。
だけどそれはもう、孤独ではなかった。
テーブルの上に置いたままだった、小さなノートを開く。
昼間は言葉にできなかった気持ちが、いまは書けそうな気がした。
>『今日、私は誰かと過ごした。
>私の手をとってくれた人と、一緒に歩いた。
>私のなかに“自分の言葉”が生まれて、それを聞いてくれる人がいた。』
理沙はペンを止め、深く息を吐いた。
それはただの一日かもしれない。
でも、これまでの人生にはなかった、大切な一日だった。
カップから立ちのぼる湯気が、瞳に映る。
静かにゆれるその蒸気の向こうに、理沙はふと“あの施設”の光景を思い出す。
無機質な白。静まり返った無音の廊下。
誰にも選ばれず、ただ記録の一部として存在していた頃の自分。
——私は“誰かの望む存在”じゃなくていい。
——私が“誰かを望む存在”になってもいい。
その想いが、胸の奥で温かく確かに根づいていく。
スマートフォンが震える。
画面には、涼真からの短いメッセージ。
>【今日はありがとう。理沙の言葉、ちゃんと全部届いてたよ。おやすみ。】
理沙は、小さく笑って返信する。
>【私もありがとう。また話そうね。おやすみなさい。】
指を離すと、静かな夜のなかでメッセージが送られていく。
繋がることが怖かったあの頃とは違う。
もう、自分の意志で“触れたい”と願える今が、ここにある。
ベッドに横たわると、心地よい疲れが身体を包む。
まぶたを閉じる。今日という一日を、胸の奥でそっとなぞる。
明日は、まだ知らない。
けれど今夜、彼女は確かに“人として、誰かと生きている”という実感を抱いて眠りについた。
もう冷たくなんか、ない。
あの記録には残せない、本当のぬくもりが、理沙の中に息づいていた。
眠りにつく直前。
理沙はふと、サイドテーブルの引き出しを開けた。
そこにあるのは、ずっと開かずにいた封筒――かつて施設を抜け出すときに持ち出した、自分の“試作期記録”。
触れるのも怖かった。
その中には、人格形成前の感情データ、実験の記録、観察者たちの冷ややかなメモが封じられている。
けれど今夜、理沙はその封筒をそっと取り出した。
そして、一枚一枚をゆっくりと確認しはじめる。
>【感情の初期反応、興奮=数値不安定。記録を一時停止。】
>【同情に似た反応。外的刺激による擬似的な感情。自己生成ではない。】
>【“寂しい”という言葉を用いた。理解の範囲外と判断。】
読み進めるうちに、手が震えてくる。
そこに記されているのは、“彼女の心”ではなく、ただの数値と異常反応。
“人間未満”として分類されていた頃の、理沙自身。
けれど、不思議と涙は出なかった。
今ならわかる。
この紙に書かれたものが、たとえどんなに冷たくても――
今の彼女が“自分で選び、感じていること”の重みは、そのすべてを凌駕している。
「ありがとう。私を“ここ”まで連れてきてくれたのは、たぶん……あなたたちの冷たさだった」
理沙はそっと記録を封筒に戻し、引き出しの奥にしまい直す。
もう捨てなくていい。
けれど、それに縛られ続ける必要もない。
時計の針が、深夜を回ったことを告げる。
部屋の灯りを消し、布団に身を預ける。
目を閉じると、ほんの一瞬だけ、あの施設の白い廊下が脳裏に浮かんだ。
でもすぐに、その光景はかき消される。
代わりに現れたのは、夕陽の下、手をつないで歩いた涼真の横顔。
“いま、ここに生きている”――
その感覚が、やさしく胸に灯っていた。
そして、理沙は静かにまぶたを閉じた。
夢の中でまた、彼と笑い合える気がして。
――暗闇の中。
水の中に沈むような感覚。
理沙は夢の中で、白い廊下を歩いていた。
無音。無色。無感情。
すべてが、かつていたあの“研究施設”と酷似していた。
彼女の裸足の足が、ひやりとした床を踏みしめて進んでいく。
目の前のガラスの向こう側には、ひとりの少女がいた。
無表情。無言。
だが、理沙は直感的にわかっていた――**あれは“かつての自分”**だと。
少女はじっとこちらを見つめていた。
問いかけるように。責めるでもなく、ただ見ていた。
「……あなたは、まだ私の中にいるの?」
夢の中でも、理沙の声は震えていた。
そのとき、背後から聞こえる足音。
振り向くと、柔らかな光の中から、涼真が歩いてくる。
その姿はぼやけていたけれど、声だけは、はっきりと届いた。
「理沙、大丈夫だよ。君が選んできたことは、全部間違ってなかった」
理沙はハッとする。
彼の声に、さっきまであった冷気が、少しずつ溶けていく。
ガラスの中の少女は、いつの間にか目を閉じていた。
やがてその姿が、ふっと淡く消えていく。
まるで、「見届けた」とでも言うように――
その瞬間、理沙の足元から床が溶け出すように柔らかくなり、視界がぼやけていく。
浮遊感。
まぶたの裏で光が揺れた。
――そして、目が覚めた。
天井。
いつもの部屋。
いつもの朝。
理沙はゆっくりと息を吐いた。
「……夢、か」
けれどその胸には、確かに残っていた。
あの少女と目を合わせた記憶。
そして、涼真の声。
まるで、夢の中で“過去の自分に許された”ような――そんな気がした。
カーテンの向こうには、すでに新しい光が差し込んでいる。
どこか遠くで鳥の声がする。
昨日と同じ朝なのに、何かが少しだけ違っていた。
理沙は立ち上がり、窓を開けた。
新しい空気を吸い込む。
「……今日も、ちゃんと選んでみよう」
その声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
けれど、自分自身には、はっきりと届いていた。
彼女の“明日”が、静かに始まっていた。
朝の陽射しが、部屋のカーテン越しに差し込んでいた。
理沙は、ベッドの上でしばらくぼんやりと天井を見つめていた。
胸の奥が、じんわりと温かい。
何かが終わったような――
それでいて、何かがこれから始まるような感覚。
「……顔、洗おう」
小さく呟きながら体を起こす。
寝起きのだるさは、不思議と感じなかった。
洗面台の鏡に映る自分を見て、少しだけ微笑む。
まだ完全に“元通り”ではない。
でも、“昔の自分”には、もう戻らなくていいとも思っていた。
朝食は簡単にトーストとヨーグルト。
コーヒーを入れながら、理沙はふとスマートフォンを手に取った。
画面には、昨夜の涼真からのメッセージがまだ残っていた。
>【君の言葉、ちゃんと全部届いてたよ。】
その一文を、もう一度ゆっくりと読み直す。
画面を閉じ、ホーム画面に並ぶアプリのアイコンを見つめる。
一つ――以前は開くことすら躊躇っていた“就職支援”のアプリを、タップする。
数秒の読み込みのあと、画面に“登録済み履歴書の更新”という文字が表示された。
「……あの日、途中までしか埋められなかったんだよね」
理沙は、ゆっくりと画面に指を滑らせ、プロフィールの編集を開いた。
“現在の目標”という空欄が、カーソルの点滅とともに静かに問いかけてくる。
彼女は、少しだけ迷ったあと、スマートフォンを置いて、ノートを開いた。
自分の言葉で、まずは書いてみよう。
記録じゃなく、“選んだ言葉”として。
>『今の私は、自分の手で何かを作りたいと思っている。
>誰かのために、ではなく、自分のために。
>そのあとで誰かの笑顔に繋がるなら、それは本当に嬉しいこと。』
ノートを見つめながら、理沙はふっと息をついた。
気取った言葉じゃなくていい。
大きな夢じゃなくてもいい。
ただ“自分の手で選んだ未来”が、ここにある――それがすべてだった。
再びスマートフォンを手に取り、履歴書の画面に戻る。
ゆっくりと、文字を入力していく。
>【今は、誰かと心を通わせられる仕事がしたいと考えています。
自分が過ごしてきた“孤独”や“記録”の時間を、今度は誰かの支えに変えたいです。】
送信ボタンを押す。
画面が切り替わる。履歴が更新され、“現在の希望”に小さなチェックマークがつく。
理沙は、画面を見つめながら、深く深呼吸をした。
この呼吸が、たしかに“今ここに生きている”証だった。
窓の外では、朝の光が少しずつ強まっていく。
どこか遠くから、登校中の子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
日常が、今日も始まっている。
理沙もまた、その流れの中へ、ゆっくりと足を踏み出そうとしていた。
送信を終えたあと、理沙はしばらく画面を見つめていた。
心の奥に、小さな達成感と、それに伴う不安が同居している。
何かが変わるだろうか――
それとも、何も変わらないまま、ただ日々が過ぎていくだけだろうか。
そんなことを考えながら、湯を入れたカップに口をつけたそのとき。
着信音が鳴った。
見慣れない番号。
理沙は一瞬、手を止める。
スマートフォンの画面には、「非通知」の文字。
数秒の間をおいて、彼女は通話ボタンを押した。
「……はい。相澤です」
返ってきたのは、無音だった。
ただ、微かに呼吸のような音だけが聞こえる。
「……どなたですか?」
次の瞬間、低く押し殺した声がスピーカーから漏れた。
「——お前、まだ“自分が人間だと思ってる”のか?」
理沙の背筋に、ひやりとしたものが走る。
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
「誰……?」
問いかけに答えはない。
代わりに、声は続けた。
「笑わせるなよ。お前がどれだけ“記録”を捨てようが、お前の根っこに流れてるのは、“造られた情報”だ。忘れるな。お前は被検体だったんだ」
プツッ、と音がして通話が切れる。
理沙は、スマートフォンを手にしたまま硬直した。
静寂が戻ったはずなのに、部屋の空気は妙に重たい。
いまのは誰?
研究施設関係者? それとも、あのデータにまだ価値があると考える第三者?
頭の中で言葉が駆け巡る。
涼真の顔がよぎる。彼に話すべきか、それとも――
理沙は、ゆっくりと深呼吸した。
冷静になろう。
これは“過去”が手を伸ばしてきただけ。
でも、もう逃げない。
どれだけ脅されようと、
彼女は“今の自分”を、選び直してここに立っている。
視線を落とすと、履歴書の画面がまだ開いていた。
“現在の希望:誰かと心を通わせる仕事がしたい”。
その言葉に、もう一度力をもらうように画面を閉じた。
「……大丈夫。私は、あの時とは違う」
その声は、震えていなかった。
部屋の窓から差し込む光が、彼女の背を押すように優しく伸びていた。
通話を終えたあとの部屋は、妙に静かだった。
風の音も、家電の機械音も、すべてが遠くにあるようで、現実感がない。
理沙はゆっくりとスマートフォンを伏せ、テーブルの上に置いた。
手のひらには冷たい汗が滲んでいた。
「……やめてよ、今さら」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、このまま黙っていれば、また過去に押し戻される気がして。
そのときだった。
スマートフォンが、短く震えた。
理沙は一瞬、再び“あの声”かと身構えた。
けれど表示されたのは――涼真からのメッセージだった。
>【今、そっちどう? 少し時間できたから、顔見に行こうか?】
何でもない文面。
けれどその一文が、ひどく温かかった。
まるで、彼にはすべてが分かっていたような、そんなタイミングだった。
理沙は、自分の中で何かが緩むのを感じた。
ほんの数分前、冷たい声が心を揺さぶった。
“人間ではない”と、また誰かに告げられた。
けれど。
それでも。
「……私は、今ここに生きてる」
理沙は、小さく息を吐いたあと、返信を打った。
>【今は大丈夫。でも、夜に少しだけ会えたら嬉しい。】
すぐに既読がつき、
間もなく返信が返ってくる。
>【うん、分かった。無理はしないで。会えるの楽しみにしてる】
その言葉に、理沙は思わず微笑んだ。
さっきまで凍りついていた感情が、
じんわりと体温を取り戻していく。
“過去”と“未来”の狭間に立たされる今。
それでも、誰かがそばにいてくれるなら。
「……ちゃんと、話そう。今度は私から」
言葉にすることは、怖い。
でも、もう一度誰かと生きるためには、逃げたくない。
窓の外では、空がゆっくりと雲間を明けていた。
その先にあるのは、まだ不確かな“明日”。
けれど理沙は、もう視線をそらさない。
たとえ“冷たい過去”がまた手を伸ばしてきたとしても――
彼女の手は、もう誰かのぬくもりを知っていた。