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episode14.もう冷たくない

 チャペルに、静寂が満ちていた。


 破られた契約書の紙片が、舞い落ちる。

 それはまるで、白い花びらのようだった。


 


 青柳は、動かなかった。

 まるでその姿のまま、すべての計算が崩れ落ちた現実を、受け入れきれずにいた。


 


 理沙はゆっくりと涼真の手を取った。

 そのぬくもりは、確かに“記録”には存在しないものだった。


 


「……もう、あなたに私の感情は測れない。私は、誰かに作られた記憶でも、予測された未来でもなく、今ここにいる“私”を選んだ」


 


 涼真が理沙の手を強く握り返す。


「そして俺は、“今の君”を信じる。誰が何を言おうと」


 


 青柳の唇がわずかに動いた。


 


「……君たちは、間違っている。感情は、不完全だ。崩れる。壊れる。……それでも、信じるというのか」


 


 理沙は微笑んだ。


 


「ええ。だからこそ、美しいのよ。冷たいままじゃ、愛にはなれないから」


 


 青柳は一歩、後ずさった。


 その背中が、ゆっくりと扉へと向かう。

 チャペルの光の中、彼の影が長く伸びていく。


 


「……この結果もまた、記録しておこう。君たちの“選択”が、何をもたらすのか……」


 


 彼が去ると同時に、チャペルの明かりがゆっくりと落ちていく。

 オルゴールの旋律も止まり、ただ鳥のさえずりだけが遠くに聞こえた。


 


 涼真が理沙に尋ねる。


 


「これで……終わったのか?」


 


 理沙は少しだけ考えたあと、かすかに笑った。


 


「ううん。始まったの。本当の意味で、私はようやく“人としての人生”を」


 


 彼女はそっと、自分の左手に目をやった。

 そこにはもう、“冷たい指輪”はなかった。


 


 代わりにあるのは、彼の手のぬくもりと、未来の輪郭。


 


 外の空気が、チャペルの扉から流れ込む。


 冷たく、しかし、どこかやさしい風だった。


  チャペルの扉を出ると、朝日が差し始めていた。


 かつて実験施設だったその場所は、今やただの朽ちた建物に過ぎない。

 けれど、そこを後にする彼女の足取りは、軽かった。


 


「……冷えてない?」


 


 涼真が気遣うように声をかける。


 


「平気。……これでも、もう“冷たい花嫁”じゃないから」


 


 そう答えて理沙は笑った。


 


 その笑顔は、涼真にとって見たことのないものだった。

 Prototypeの曖昧さでもなく、理性的な仮面でもなく――ただ一人の“女の子”としての、自然な笑みだった。


 


 二人はタクシーも呼ばず、舗装されていない道を並んで歩いた。


 


 木漏れ日がゆれている。

 どこかの鳥が、さえずりを響かせる。


 


「……涼真さん」


 


 理沙が口を開いた。


 


「私、あなたに何かを返せるような人間じゃないかもしれない。記録も過去も、真っ白になったわけじゃないし、何度も揺らぐと思う。でも……それでも」


 


 涼真は彼女の手を取った。


 


「そういう風に言う人に限って、ちゃんと“誰かを守れる”って、俺は知ってる」


 


 理沙の目が少し潤む。


 それは記録できない感情。

 どのフォルダにも保存されていない――今だけの涙だった。


 


「……私、これからも“誰かの花嫁”にはならない。でも、あなたと一緒に“選んでいく”ことなら……してみたい」


 


 涼真は、黙って彼女の手を握り続けた。


 その歩みは遅く、ぎこちない。

 けれど、それは紛れもなく“人間の歩み”だった。


 


 森を抜けた先に、朝の光が大きく広がっていた。


 冷たい風はやわらぎ、ほんの少し温度を含んでいた。


 “冷たい花嫁”は、もうここにはいない。


 今ここにいるのは、“人として愛を知った”――理沙だった。


 アパートのドアを開けた瞬間、理沙はふと息を止めた。


 玄関に並んだ靴、ほんのり漂うコーヒーの香り。

 そして、リビングの奥から聞こえる、慌ただしい動き。


 


「……帰ってきた?」


 


 キッチンの奥から顔をのぞかせたのは、琴葉だった。


 目を丸くし、言葉を失ったように立ち尽くしていた。

 その視線が、理沙の後ろにいる涼真へと移る。


 


 理沙は笑った。


 


「ただいま」


 


 その一言で、琴葉は駆け寄り、理沙を抱きしめた。


「……バカ……! どれだけ心配したと思ってるのよ……!」


 


 震える声で吐き出される怒りと安堵に、理沙はそっと目を閉じた。


 温かさが胸に染み込んでくる。


 それは命のぬくもり。感情の重さ。

 誰かと繋がっている、という実感だった。


 


「……ただいま、琴葉」


 


 琴葉はしばらく理沙を離さずにいたが、やがてふと涼真に気づいたように顔を上げた。


 


「そっちの彼は?」


 


「……青柳のところで、巻き込まれたの。だけど……彼のおかげで、私……」


 


 理沙の声がかすかに震えた。

 言葉にできない感情が、胸の奥から込み上げる。


 


 琴葉はすぐに察し、表情を柔らかくゆるめた。


 


「わかった。……全部は聞かない。でも、ひとつだけ。無事でよかった。ほんとに」


 


 キッチンのコンロでは、放っておかれたコーヒーが微かに蒸気を上げていた。


 琴葉がそそくさと戻り、カップを三つ用意する。


 


「ほら、座って。少しは温まったら?顔、まだちょっと青いよ」


 


 三人はテーブルを囲んで座る。


 その場に言葉は少なかったが、沈黙は心地よかった。


 


 コーヒーの香りが部屋いっぱいに広がっていた。

 緊張でも、疑念でもない。ただの――朝の匂いだった。


 


 涼真が、手元のマグをそっと見つめてつぶやく。


 


「……こういうのって、すごく普通で……すごく、特別ですね」


 


 琴葉が小さく笑い、理沙に視線を送る。


 


「そうよ。普通でいられるって、いちばん大事なんだから」


 


 理沙は、その言葉を胸の奥で繰り返す。


 普通でいられること。

 それは、かつての彼女がどれだけ望んでも届かなかった“日常”だった。


 


 温かい湯気が、冷えた手をそっと包み込む。


 部屋の外には、街の音がゆっくりと戻ってきていた。


 


 もう、“冷たい記録”はここにはない。


 あるのは、ぬくもりの中で始まる――新しい朝だった。


 三人分のマグカップが並ぶテーブルの上には、柔らかな蒸気が立ち上っていた。


 理沙は両手でカップを包み込むように持ち、静かにその温度を確かめていた。


 この感覚も、彼の声も、琴葉の笑みも――どこか現実味がないほどに、静かで温かかった。


 


「……少し、現実じゃないみたい」


 


 理沙がぽつりとつぶやいた。


 


「夢なら、ここで目が覚めるのかもしれないって、そんな気がするの」


 


 琴葉は、それを否定するでもなく、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。


 


「まあ、理沙がいきなり“朝帰り”するなんて、私だってちょっと信じられないしね。それに、付き添ってるのがあの“図書館のひと”だなんて……」


 


 涼真が苦笑しながら視線を外す。


 


「さすがに、俺も驚きました。……気づいたら、式場の中で、彼女が泣いてるのが見えたから」


 


 理沙はわずかに目を細める。


 


「……あの時、本当に、怖かった。自分が何者かも、どこへ向かってるのかも、わからなくなりそうで。

 でも――涼真さんの声が、引き戻してくれたの。確かに、わたし“今ここにいる”って」


 


 琴葉は静かに頷いたあと、そっと理沙の手に触れた。


 


「それでいいのよ。答えなんて、全部わかってなくてもいい。ただ、“今ここにいる”って感じられるなら、それがたぶん、“生きてる”ってことだから」


 


 理沙のまなざしが、テーブルの上を見つめる。


 かつての彼女には、「生きている」とは何かを問うことすら許されなかった。

 記録を再生し、模倣し、役割をなぞるだけの存在だった。


 


 けれど今は――何かを“知らない”ことすら、自由に思えた。


 


「ねぇ、琴葉。私、これから……どうやって生きていけばいいのかな」


 


 その問いは、素直な不安であり、静かな希望でもあった。


 


 琴葉はわずかに考えてから、笑みを浮かべた。


 


「“どう生きるか”なんて、あんただけが決めていいの。でも、ヒントはひとつだけ。……何かを“好き”になることを、やめなければ大丈夫」


 


 理沙の目が大きく開く。


 


「……“好き”になること?」


 


「うん。人でも、ものでも、場所でもいい。誰かと関わって、時には傷ついて、でもそれでも“好きだ”って言えることが、きっと理沙にとって“未来を作る”ってことだから」


 


 その言葉が、胸の奥にすとんと落ちてきた。


 記録にも保存されない、たった今だけの言葉。


 


 ふと、涼真が口を開いた。


 


「じゃあ、俺がヒントをもう一つ」


 


 琴葉が「なにそれ、便乗?」と笑うのをよそに、彼は真剣な目で理沙を見つめる。


 


「“ありがとう”って思ったら、声に出していい。……“好きだ”と思ったら、伝えていい。そして、“また会いたい”と思ったら――迷わず、会いに行っていい」


 


 理沙の喉の奥が、きゅっと締めつけられるような感覚になった。


 そして、こくんと小さく頷く。


 


「……わかった。私……ちゃんと、自分の言葉で、それを言える人になる」


 


 その瞬間、部屋の外から風の音がした。

 春の気配をはらんだ、やわらかな風だった。


 


 もう、“冷たい風”ではなかった。


 


 理沙は、そっとカップを口元に運びながら思う。


 これから何があっても、たとえまた傷ついたとしても――


 もう自分を閉じ込めたりはしない。


 


 “冷たい花嫁”はもういない。

 ここにいるのは、“誰かと生きることを選んだ”――理沙という、ひとりの人間だった。


 午後の陽射しが、レースのカーテン越しに差し込んでいた。


 白いテーブルクロスの上には、もうぬるくなったコーヒーと、食べかけのクッキーが残っている。


 理沙はソファにもたれ、ゆっくりと呼吸を整えていた。


 


「こんなに、何も起きない時間って……すごく変な感じ」


 


 ぽつりとこぼしたその言葉に、隣で雑誌をぱらぱらとめくっていた琴葉が顔を上げる。


 


「変っていうか、理沙には“初めて”なんじゃない?こんなふうにのんびりするのって」


 


「……たぶん、そうかも」


 


 理沙は、カーテンの向こうに揺れる木々の影をぼんやりと見つめながらつぶやいた。


 


「今までは……何をするにも、“誰かの期待”とか、“プログラムの指示”が後ろにあった気がするの。それに応えないと、私は“存在していられない”って思ってた」


 


 琴葉は雑誌を閉じ、理沙のほうへ体を向ける。


 


「でも今は、違う?」


 


 理沙はゆっくりと頷いた。


 


「うん。今は、誰のためでもなくていい。……そう思えるだけで、すごく自由」


 


 風がふわりとカーテンを揺らす。

 テーブルに落ちた光が、まるで水面のようにきらめいた。


 


 琴葉はそれを眺めながら、言う。


 


「ねぇ、理沙。あんたさ、これから先、自分のことで悩むことも、きっと出てくると思う。でもね、それって当たり前なんだよ。自分で生きるってそういうこと」


 


「……うん。怖いけど、嫌じゃない。むしろ、ちゃんと悩んでみたいって思う」


 


 理沙は小さく笑った。


 その笑顔には、かつての“冷たい仮面”はどこにもなかった。


 感情が混ざり合った、不器用で人間らしい微笑。


 


 琴葉は立ち上がり、台所へ向かいながら言った。


 


「じゃあ、明日からのプランを考える?とりあえず、仕事復帰の相談でもしに行く?」


 


「え……仕事?」


 


「そうよ。“普通の人”になりたいんでしょ? だったらまずはそこからでしょーが」


 


 理沙は一瞬戸惑ったあと、ぷっと吹き出すように笑った。


 


「……そうだね。うん、やってみる」


 


 カップを片づけ、床を軽く拭き、洗濯機を回す音が聞こえ始めた。

 何でもない、ただの“生活の音”。


 


 だけどその音ひとつひとつが、今の理沙には、宝物のように響いていた。


 誰かのために整えられた日々じゃない。

 自分で選んで、自分で築いていく、等身大の毎日。


 


 理沙はふと、ソファのクッションに顔をうずめながら、ぽつりとつぶやいた。


 


「……このまま、世界が壊れなければいいのにね」


 


 琴葉がコーヒーをカップに注ぎながら、振り返らずに答えた。


 


「壊れたって、また直せばいいじゃん。どうせ、あんたはもう一人じゃないんだから」


 


 その言葉に、理沙はそっと目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かぶのは、光の中で微笑んだ涼真の顔――そして、その隣に並ぶ“自分”。


 


 もう、冷たい指輪も、仮面も、記録も要らない。


 彼女は、誰かの花嫁ではなく、“自分の人生の隣に誰かがいる”ことを、ようやく受け入れたのだ。


 夜。


 灯りを落としたリビングに、静かに音楽が流れていた。

 琴葉がいつも流している、インストゥルメンタルのプレイリスト。


 リズムも言葉もない旋律が、理沙の神経をやさしくなぞる。


 


 窓の外では、車のライトがゆるやかに通り過ぎていく。

 街はまだ動いているのに、この部屋の中だけは、世界から切り離されたように静かだった。


 


 理沙は、ノートを膝に広げていた。

 薄く文字が書かれたそのページに、彼女は何かを書き足している。


 


「……何してるの?」


 


 ソファから覗き込んだ琴葉が尋ねると、理沙は少し照れくさそうに笑った。


 


「日記。……って言ったら、笑う?」


 


 琴葉は小さく首を振った。


 


「笑わないよ。むしろ、あんたが“自分の言葉”で何か残そうとしてるの、うれしい」


 


 理沙は視線をノートに戻し、ペンを動かした。


 


 >『2025年3月4日。わたしは今、“普通の夜”の中にいる。

 >音楽を聴いて、温かい布団があって、隣に声をかけてくれる人がいる。

 >そのことだけで、今は十分すぎるくらい幸せだと思える。』


 


 文字がぶれる。

 でも、それを指でなぞっても、消すことはしない。


 


「ねぇ、琴葉。わたし、これから何ができるんだろうね」


 


 琴葉は少しだけ考えて、それから答えた。


 


「まずは、朝起きて、顔洗って、仕事に行って、帰ってきて、夕飯作って。それを“自分の意志で繰り返す”っていうのが、きっと最初」


 


「……それが、“生きる”ってこと?」


 


「うん。それでじゅうぶんよ」


 


 理沙はノートを閉じて、胸のあたりにそっと抱きしめた。


 記録じゃない。記憶でもない。

 これは、“彼女の言葉”で刻んだ、本当の一日だった。


 


 ふいにスマホが震える。

 画面には、涼真からの短いメッセージが表示されていた。


 


 >【帰れた? 無理しないで、ゆっくり休んでください】


 


 理沙は、スマホを両手で持ったまま、小さく息を吐いた。


 返信の文面を打っては消し、打っては消し。

 それを何度か繰り返して、やっと送信する。


 


 >【うん、帰れた。ありがとう。……また会いたいな】


 


 送信ボタンを押した瞬間、胸が少しだけ、痛いように熱くなる。


 でもそれは、“冷たい痛み”じゃなかった。


 


 琴葉が笑って、リビングの灯りをひとつ落とす。


 


「今日はもう寝なさい。明日も、ちゃんと朝が来るんだから」


 


 理沙は小さく頷いて、立ち上がった。

 そして、ノートを枕元に置いて、ベッドに入る。


 


 ふと、眠る直前に思った。


 ――今日という一日を、私は“選んで生きた”。


 その実感だけが、胸の奥をぽっと照らしていた。


 夜が深まりきるころ、理沙はベッドの上で目を開けていた。


 眠れないというよりも――眠るのが惜しかった。


 


「今日という日を、終わらせたくない」

 そんな気持ちが、胸の奥で小さく波打っていた。


 


 暗い天井を見つめながら、彼女はふと手を伸ばし、枕元のノートを手に取った。


 ページを開く。さっきまで書いていた文字が、部屋の小さな明かりに浮かび上がる。


 


 >『今日は、ちゃんと“わたしの意思”で生きられたと思う。』


 


 彼女はそこに、少しだけ書き足した。


 


 >『そして、明日もまた、そうでありたい。

 記録ではなく、選択として――』


 


 そのとき、不意に胸の奥がちくりと疼いた。


 青柳の言葉が、遠くで微かに響いたような気がした。


 


 ——感情は、不完全だ。崩れる。壊れる。


 


 たしかに、それは真実かもしれない。

 理沙自身、記録に頼らなければ立っていられなかった時間が長くあった。


 


 けれど、あのチャペルで、涼真の手を取った瞬間――すべてが変わった。


 怖くても、不確かでも、自分で選んだ気持ちなら、きっと前に進める。


 


 理沙は、ベッドの端に腰を下ろし、カーテンの隙間から空を見上げた。


 東の空が、わずかに明るくなっている。


 もうすぐ朝が来る。


 


 その光に照らされるたびに、自分が少しずつ“ただの人間”に近づいていくような気がした。


 


「……琴葉が言ってた。“好きになることをやめなければいい”って」


 


 彼女はそっと、自分の胸に手を当てた。


 そこに、何かが確かに“在る”のを感じる。


 


 好きという感情。

 痛みやとまどいを含んだ、不器用で熱いもの。


 それが、自分の中に根を下ろし始めている。


 


 ノートに、もう一行だけ書き足す。


 


 >『わたしは、誰かを好きになる。怖くても、疑っても、それでも』


 


 そして、ページを閉じた。


 朝の訪れが、ゆっくりと部屋の輪郭を明るくしていく。


 


 新しい光の中で、理沙は小さく目を閉じた。


 “冷たい花嫁”という役割を脱いだ今、彼女はようやく――

 ひとりの人間として、“明日”を待てるようになった。


 鳥の声が聞こえた。

 それは、かつて記録として保存されていた“環境音”とは違う、本物の音だった。


 


 理沙はゆっくりと身体を起こし、カーテンを開ける。


 朝の光が部屋の中へ差し込んでくる。


 眩しさに目を細めながらも、彼女はその光を拒むことはなかった。


 


「……朝が来たんだね」


 


 それは、当たり前の一言。

 けれど、今の彼女にとっては、何よりも重みのある言葉だった。


 


 ふと、ダイニングテーブルの上に置いたスマートフォンが震える。


 画面には一件の新着メッセージ。


 


 >【おはようございます。今日はもし時間があれば、少しだけ話せたらうれしいです。——涼真】


 


 理沙の唇がふっとほころぶ。


 何気ないその一文が、胸の奥を優しく撫でていく。


 


 彼と話したい。

 昨日のことも、これからのことも、何でもない日常のことも。


 “今の私”の言葉で、伝えてみたい。


 


 理沙は、顔を洗い、髪をとき、ゆっくりと服を選んだ。


 鏡の前で立ち止まり、じっと自分を見つめる。


 


 そこに映るのは、誰かの理想でも、設計図どおりの人格でもない。

 自分で選び取った“今の自分”だった。


 


「……いってきます」


 


 誰に言うでもなく、そう呟いて、ドアを開けた。


 街の音、空の匂い、踏みしめる地面の感触。

 すべてが、昨日よりほんの少し鮮明に感じられる。


 


 理沙は携帯を取り出して、涼真に返信する。


 


 >【おはよう。会いたい。……今日の私、たぶん少しだけ強くなったかもしれない】


 


 送信ボタンを押す。

 心の中で、何かが小さく跳ねた。


 


 光の中、歩き出す足は少しぎこちない。

 でもその一歩一歩が、確かに未来へ向かっていることを、彼女はもう知っていた。


 


 “冷たい花嫁”の物語は終わった。


 今ここにいるのは、自分の言葉で愛を選び、自分の足で世界を歩こうとしている――


 理沙という、ひとりの人間だった。

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