episode1.冷たい指輪
鏡に映る自分が、他人のように見えた。
白無垢の裾が床を這い、紅を引いた唇がやけに生々しい。
髪には、式場のスタッフがつけてくれた金のかんざしが揺れていた。
モデルとして衣装を着慣れているはずの自分が、今日だけはどこか借り物の人形みたいだった。
――三日後には、私は天城家の人間になる。
相手は、財界を騒がせる大企業「天城グループ」の御曹司、天城誠。
大人で落ち着いていて、どこか読めない男だったけれど、不思議と一緒にいる時間は心が静かになった。
政略結婚だったはずなのに、彼と過ごすうちに、自分でも気づかないうちに心が傾いていた――気がする。
「理沙様、お電話が入っております」
控室の扉がノックされ、マネージャーの陽子がスマホを差し出す。
誰かと聞く前に、画面に映った名前が目に入った。
――「天城 涼真」。
誠の弟。式には出るはずのなかった彼が、なぜ。
「……はい、もしもし」
応えると、電話の向こうの声は低く、そして震えていた。
「……理沙さん、兄さんが……誠が、事故に遭った。今朝、車で……その、即死だったそうだ」
一瞬、言葉の意味がつかめなかった。
誠が――死んだ?
誰かの冗談か、あるいは現実を切り取ったドラマでも聞かされているようだった。
だが、陽子が電話の内容を察して口元に手を当てたことで、現実だと理解せざるを得なくなった。
足元から、冷たい何かが這い上がってくる。
この白無垢は、私のためのものではなかったのかもしれない。
そして――
左手の薬指にはめられていた指輪が、妙に冷たく感じた。
――◆――
誠の死は、表向きには「交通事故」として処理された。
急カーブでガードレールに衝突し、車体は木々の中へと転落。即死だったという。
通夜の会場には、財界の人間と、天城家の関係者がずらりと並び、白い花と黒いスーツが無機質に会場を支配していた。
私は喪服を着て、誠の遺影を見つめていた。
笑っている。
いつものように、どこか心を読まれているような、あの笑みだった。
「久しぶりだな」
背後から聞こえた声に振り向くと、そこにいたのは――涼真。
誠とはまるで正反対の男だった。目つきは鋭く、口数も少ない。
だが今の彼の顔には、悲しみとも怒りともつかない、複雑な感情がにじんでいた。
「葬儀で会うなんて、皮肉なもんだな。俺たち、兄の遺志で結婚するはずだったのに」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
「事故、って言われてるけどな」
涼真は遺影を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「兄貴の車、ブレーキが利かなかったらしい。整備記録も妙に空白が多い。……偶然か?」
私は息を呑む。
誰もが口には出さないが、誠の死に――不自然さを感じていた。
けれど私には、それ以上に言えないことがあった。
あの夜。
誠が死ぬ前夜、私は――彼と、口論していた。
「結婚をやめたい」と、私は言ってしまった。
そして彼は、笑ってこう言った。
「それでも、僕と結婚しなきゃ、君は幸せになれないよ?」
どういう意味だったのか。
それが、彼の「脅し」だったのか「忠告」だったのか――
もう、聞くことはできない。
だが心の奥底で、私は知っていた。
これは、ただの事故じゃない。
そして、私自身もまた、この死に――加担しているかもしれないのだ。
誠の死は事故。
そう、誰もがそう言った。
だが、涼真の口ぶりから滲んだのは「疑い」だった。
彼の車に異常があった?
そんなこと、警察はひと言も言っていない。むしろ、“操作ミス”と“スピードの出し過ぎ”が原因だと記者会見で語っていたはずだ。
なのに、彼はどうしてそれを知っているの?
理沙の脳裏に、誠の姿が浮かんだ。
どこか芝居じみた口調、常に裏を持たせるような笑い方。
心を開いているようで、決して奥まで見せなかった彼――
……いや、違う。
理沙もまた、誠にすべてを見せていたわけではなかった。
打算、計算、名声、将来。
すべての感情が混じり合った「結婚」だった。
それでも、ほんの少しでも、彼に心が動いたことは、確かだったはずなのに。
「理沙さん」
ふいに背後から呼ばれて、理沙は振り返った。
控室の扉の前に立っていたのは、天城家の執事・村瀬だった。
「奥様が、お話をされたいと」
理沙は一瞬、喉を詰まらせた。
――天城茂子。誠と涼真の母であり、天城家の実質的な女主人。
財界でも知られた辣腕の女性で、冷静沈着を絵に描いたような人物だった。
「……わかりました」
――◆――
天城邸の応接室は、異様な静けさに包まれていた。
広すぎる空間に、古い柱時計の針の音だけが響く。
茂子は黒の喪服に身を包み、ひとつの香を焚いていた。
「理沙さん。今この時に、こう言うのもどうかと思うけれど……」
彼女はその切り出しから、すでに「喪主の言葉」ではなかった。
「誠がいなくなった今、あなたは“未亡人”として扱われるわけですが――この家に残るつもりは、ありますか?」
その言葉に、理沙の心が一瞬にして冷えた。
“残る”――どういう意味?
嫁いでさえいない。まだ婚姻届けも出していないのに。
私の存在は「遺族」なのか? それとも「部外者」なのか?
「……申し訳ありません、私にはまだ、どうするべきか……」
「いえ、いいの。ただ、念のためお伝えしておきたいの」
茂子は扇子の骨を軽くたたきながら、続けた。
「誠はあなたに、婚前契約書を提示していたかしら?」
その言葉に、理沙は目を細めた。
「……いえ。そういう話は、一度も」
「そう。ならば、彼の遺言状を開く前に、ひとつ知っておいていただきたいの。誠は亡くなる数日前に、遺言の改訂を行っているの」
「遺言……?」
「ええ。まだ弁護士から正式には開示されていないけれど、どうやら“あなたに資産の一部を譲る”という記述が含まれているようなの」
理沙は息を呑んだ。
「資産を……私に?」
「驚いたでしょう? でも、誠はあなたを本当に愛していたのかもしれないわね。あるいは、何か別の意図があったのか」
茂子の視線は冷たく、それでいて微笑んでいた。
「だからこそ、あなたの身の振り方次第で――この家の中で、何かが変わることもある」
その言葉の意味を、理沙はまだ掴みかねていた。
けれど、その時ふと頭をよぎった。
“資産の一部を譲る”
もしそれが本当なら、誠の死で利益を得る人間がいる。
それは――自分も含まれているということ。
まるで、遺産が「罠」であるかのように、理沙には思えた。
――誠は、何を残したの?
なぜ、私に「遺す」と決めたの?
そして――その遺産を、誰が欲しがっている?
部屋を出ると、廊下の奥に涼真の姿が見えた。
彼は少しだけ立ち止まり、理沙を見て、こう言った。
「この家は、誰かが死ぬと何かが始まる。兄貴も、そう言ってたよ」
その言葉が、どこか冷たい風のように、理沙の背中を撫でた。
そして彼女の心に、確かな疑惑が灯る。
――誠の死は、事故じゃない。
だとしたら。
誰が、彼を――殺したの?
理沙は天城邸を後にし、夜の街へと足を向けた。
街灯の淡い光が、ひとり歩く彼女の影を細長く伸ばしている。
頭の中は混乱していた。
誠の死、遺言の話、そして涼真の冷たい言葉。
すべてが霧のようにまとわりつき、真実の輪郭を掴めない。
その時、携帯が震えた。
画面に映った名前は「非通知」。
ためらいながらも電話を取る。
「もしもし?」
低く囁く声が答えた。
「理沙さん、あなたは知らない方がいいこともある……でも、もう遅い」
一瞬で切れた。
胸の奥がざわついた。
誰かが動いている。
理沙は気付いてしまった。
彼女はもう安全な場所にはいないのだと。
真実を知った者は、消される。
そんな暗い予感が、彼女を覆った。
暗闇の中、理沙はスマホを握りしめながら立ち尽くしていた。非通知の電話のことが頭から離れない。誰が、何のために……。
「知らない方がいいこと」
——その言葉が胸に刺さった。まるで警告のようだった。
足元に冷たい夜風が吹き抜ける。彼女の背筋がぞくりとした。
誰かが、自分を監視している。
そして、誠の死の真相に近づくことを、許さない者がいる。
その時、ふいに背後から声が聞こえた。
「理沙さん、こんなところで何してる?」
振り返ると、そこには涼真が立っていた。顔にはいつも通りの冷静さが漂っているが、その目は真剣だった。
「涼真さん……」
言葉が自然と漏れる。
「君に危険が及ぶ前に、言っておきたいことがある」
彼は周囲を見渡し、低い声で続けた。
「兄の死は、本当に事故じゃない。何か隠されている。君もそれを感じてるだろ?」
理沙は頷いた。涼真の言葉は、まるで彼女の心を代弁するようだった。
「俺たちで真実を掴まなければならない」
涼真の宣言に、理沙の胸に熱い決意が灯った。
――これから、終わりのない闘いが始まるのだと。
「俺たちで真実を掴まなければならない」
涼真のその言葉に、理沙はしばらく返事ができなかった。
彼の瞳は、兄を失った悲しみを押し殺すように、冷たく光っていた。
「……どうして、私にそんなことを言うの?」
ようやく絞り出した問いに、涼真はわずかに眉をひそめた。
「君だけが兄と最後まで近かった。何かを聞かされていたはずだ。もしくは……兄が何を恐れていたのか、知っているんじゃないか?」
理沙は言葉に詰まった。
“恐れていた”——そう、確かにあの夜の彼の言動はどこか異様だった。
――『君がいなくても、どうせ僕は手に入れるよ』
あれは何を意味していたのか。
手に入れる? 誰を? 何を?
「……誠さんは、なにか……誰かから脅されていたような気がするの」
「誰に?」
「わからない。でも、彼は最近ずっとスマホをロックしていて……何度も誰かと電話してた。言い争ってるように見えたわ」
「名前や会社の名前は?」
「……“セクター7”って言ってた。何のことかはわからない。でも、明らかに家族には隠してたと思う」
涼真はその言葉を聞いて、目を細めた。
「セクター7……。兄の個人資産管理会社が、たしかそんな名前だった。ほとんど誰も知らない、名義だけのペーパーカンパニーのはずだ」
「それって……?」
「表に出せない金が流れている、ということだ」
理沙は思わず口元を手で押さえた。
誠が何か、大きなものを抱えていた。しかも、それが彼の死に繋がっている可能性がある。
そう思ったとき、涼真のスマホが鳴った。彼が画面を見て一瞬だけ表情を硬くした。
「……屋敷に戻ったほうがいい。母さんが君を呼んでいる。今夜中に“遺言”が開示されるらしい」
「今夜?」
なぜそんな急に。通常、遺言の開示は葬儀のあと、正式な場を設けて行われるはず。
それが“今夜”というのは、何か急を要する理由があるとしか思えない。
涼真は短く言った。
「おそらく、兄さんの死が“自然死”じゃないことを、母さんも察してる。……だから先に動こうとしてる。理沙さん、君も覚悟しておいたほうがいい」
夜の街が、静かに冷たさを増していく。
風が、理沙の髪をさらりと揺らした。
そして、彼女の中で何かがはっきりと動き始めた。
この死には、必ず真実がある。
それは、“愛”の顔をして近づいてくるかもしれないし、
“欲”の牙で彼女を食い破るかもしれない。
だがもう、後戻りはできない。
理沙は、涼真の背に続いて歩き出した。
夜の天城邸へ――亡き花婿が、すべてを隠した場所へ。