第6話 雪山の悪夢、孤独な逃避行
目の前に立ちはだかる絶望は、先ほどまでの比ではなかった。
スノウボアの死体が転がる雪原の向こう、森の暗がりからぬっと現れたのは、緑色の醜悪な肌を持つ単眼の巨人――サイクロプス。その身の丈は5メートルを優に超え、まるで大木のような太さの棍棒を軽々と肩に担いでいる。一つしかない巨大な目が、血走った光をたたえてこちらを見下ろし、その口からは獣のような低い唸り声が漏れていた。B級モンスター。スノウボアとは明らかに格が違う、その圧倒的な存在感に、オレは息を呑んだ。
だが、悪夢はそれだけでは終わらなかった。
1体だけではない。その背後から、さらに2体目、3体目……合計で4体ものサイクロプスが、まるで地獄の番人のように姿を現したのだ。
「サ、サイクロプスだと!?」
「し、しかも4体も……!?」
「嘘だろ……! スノウボアを倒したばかりだってのに……!」
討伐隊のメンバーから、今度こそ本物の絶望に染まった悲鳴が上がった。スノウボアとの死闘で体力も精神力も消耗しきったオレたちにとって、これはあまりにも酷な現実だった。勝てる気がしない。勝てるわけがない。誰もが、そう直感していた。
「……総員、撤退だ! 急げ!」
ゴードン隊長が、苦渋に満ちた声で叫んだ。その声には、先ほどまでの檄を飛ばす力強さは微塵も残っていなかった。だが、彼の判断は正しかった。スノウボア討伐という目的は果たしたのだ。ここで戦う必要はない。戦うのは、無謀を通り越してむしろ自殺行為だ。
しかし、サイクロプスたちが、オレたちの撤退を黙って見過ごしてくれるはずもなかった。
一体のサイクロプスが、巨大な棍棒を振りかぶる。狙いは、後退しようとしていたD級ハンターたち。
「危ない!」
C級の斥候が叫び、数人を突き飛ばす。直後、ゴウッ! という風切り音と共に棍棒が振り下ろされ、大地を抉る。凄まじい衝撃で雪と土砂が舞い上がり、もし直撃していたら……考えるだけでもぞっとする。
さらに悪いことに、別のサイクロプスが天を仰ぎ、何かを呟いたかと思うと、鉛色の空がにわかにかき曇り、ゴロゴロ……と低い雷鳴が響き渡った。
「まずい! 雷魔法だ! 来るぞ!」
C級魔術師が叫ぶ! そうか、こいつら、雷まで使うのか!
ピシャアァァァン!!
言葉が終わるか終わらないかのうちに、鋭い閃光と共に、数条の雷が討伐隊めがけて降り注いだ。幸い、直撃した者はいなかったようだが、すぐ近くの地面に落ちた雷が、雪を瞬時に蒸発させ、焦げ臭い匂いをまき散らす。
「くそっ! 散れ! 固まるな!」
ゴードン隊長が再び叫ぶ。
オレたちはもはや陣形を維持することなどできず、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うしかなかった。スノウボアの血とサイクロプスの威圧感、そして降り注ぐ落雷の恐怖。誰もが自分の命を守るのに必死だった。
「ぐあああっ!」
逃げ遅れたD級ハンターの一人が、サイクロプスの棍棒に薙ぎ払われ、雪の上に叩きつけられる。
「助け――」
声は続かなかった。別のサイクロプスの巨大な足が、無慈悲に彼を踏み潰す。鈍い音が響き、雪が赤黒く染まった。
「……っ!」
ダメだ。もう、まともな撤退は不可能だ。このままでは、一人、また一人と嬲り殺しにされるだけだ。
「――散開しろ!!」
ゴードン隊長の、悲痛な絶叫が響き渡った。
「各自、散り散りになってでも生き延びろ! これは命令だ! 行けぇぇぇ!!」
散開命令。それは、隊としての統率を放棄し、個々の生存能力に全てを委ねるという、最後の手段。リーダーとして、これ以上辛い決断はないだろう。だが、もうこうするしかないと判断した彼の顔は苦渋に歪んでいた。
その言葉が、オレの心の奥底に突き刺さった。
散開……見捨てる……逃げる……。
途端に、視界がぐにゃりと歪んだ。
――冷たく湿った石の壁。滴り落ちる水音。カビと、鉄錆と、そして……生臭い血の匂い。
『すまない、タクマ……。恨んでくれて構わない……』
苦渋に満ちた、しかしどこか感情の抜け落ちた声。信じていたはずの、優しかったはずの、先輩たちの背中。そして、無慈悲に突き飛ばされ、闇の中へと落下していく、あの瞬間。背後から迫る、巨大な牙を持つ獣の影と、鼓膜を引き裂くような絶望的な咆哮――
「はっ……ぁ……! ひっ……うぐ……!」
息が、できない。まただ。またあの悪夢が。心臓が氷の爪で鷲掴みにされたように痛い。視界がノイズ混じりに激しく明滅し、平衡感覚がぐらつく。足が、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。周囲の仲間たちが散り散りに逃げていく姿が、まるでスローモーションのように見える。オレだけが、この悪夢のような惨状の中に取り残されていく……。
「タクマ! しっかりして! タクマ!!」
エリスの声……? そうだ、エリスの声だ。彼女は、彼女だけは逃げずに、オレを見捨てずに、オレのそばにいてくれる。あのときも、そして今も……。
温かい手が、オレの震える肩を強く掴む。その必死な声だけが、悪夢に沈みかけたオレの意識をかろうじて繋ぎとめていた。
「だ、大丈夫か!?」
「ふ、二人とも、その……!」
近くにいたD級ハンターたちの声も聞こえた気がする。だが、彼らもサイクロプスの追撃から逃れるので精一杯のようだ。オレを心配する視線を一瞬だけ向けてはくれたが、すぐに散開して駆けていく。
(まただ……また、オレは……足手まといに……)
自己嫌悪が、冷たい泥のように心を覆い尽くそうとする。スノウボアとの戦いでは少しは役に立てたと思ったのに。結局、いざという時にこうなってしまうのか。弱い、なんて弱いんだ、オレは……。
「タクマ! こっち!」
エリスが、オレの腕を強く引いた。彼女の声には、焦りの中にも強い意志が宿っていた。
「大丈夫、私がいるから! ずっと一緒だから! 一緒に逃げるよ!」
オレは、エリスに引きずられるようにして走り出した。どこへ向かっているのかも分からない。ただ、彼女の温かい手に引かれるまま、必死に足を動かす。背後からは、サイクロプスの地響きのような足音と、時折響く雷鳴が、いつまでも聞こえてくる気がした。
◇
どれくらい走っただろうか。息も絶え絶えになった頃、エリスは雪に半分埋もれた、岩場の陰にある小さな洞窟のような場所を見つけた。
「タクマ、ここなら……」
彼女はオレを洞窟の中に押し込むと、入口を雪や枯れ枝でカモフラージュするように隠した。洞窟の中は狭く、ひんやりとした空気が漂っていたが、外の雪と極寒と死の気配からは、かろうじて遮断されているようだった。
サイクロプスの足音は、もはや聞こえない。
オレたちは、暗い洞窟の中で、二人きりになっていた。他の隊員たちの安否はわからない。彼らが無事に逃げられたのか、それとも……考えたくなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、オレは壁に背をもたれて座り込んだ。トラウマの残滓が、まだ頭の中で渦巻いている。体が重い。心が重い。
(結局、オレはまだ、何も変われていない……。また、エリスに守られて……)
俯くオレの隣に、エリスがそっと座った。そして、何も言わずに、オレの冷え切った手を、彼女の温かい両手で包み込んでくれる。
「……タクマ」
優しい声。
「辛かったよね……。でも、大丈夫だから」
「……大丈夫じゃない」
か細い声で、オレは呟いた。
「オレは……また、みんなに……」
「違うよ!」
エリスは、少し強い口調で遮った。
「私たちは置いていかれたんじゃない。みんなも、誰かを犠牲にして逃げたわけじゃない。あれは、誰にもどうしようもなかったと思う。ゴードン隊長の判断は正しかったと思う。今は、生き延びることが一番大事なんだよ」
「でも……」
「でも、じゃないの」
エリスは、オレの顔を覗き込むようにして、真っ直ぐな瞳で言った。
「タクマは、スノウボアとちゃんと戦った。みんなを守った。私、見てたもん。あの時のタクマ、すっごくかっこよかったよ?」
かっこよかった……? オレが?
彼女の言葉は、暗い心に差し込む、小さな光のように感じられた。そうだ、オレは、あの時……確かに、自分の力で仲間を守れたんだ。
「それにね」
エリスは、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「たとえタクマがどんなに弱くたって、だらしなくたって、私が絶対に守るんだから。だから、タクマは安心して、私のそばにいればいいの!」
その言葉は、いつもの彼女らしい、少し過保護すぎるくらいの優しさだ。でも、今のオレには、それが何よりも心強かった。
「……エリス」
「なあに?」
「……ありがとう」
オレは、彼女の手をそっと握り返した。その温もりが、凍えた心をじんわりと溶かしてくれる。トラウマが完全に消えたわけじゃない。自己嫌悪がなくなったわけでもない。それでも、エリスが隣にいてくれるなら、オレはまだ立ち上がれる。そんな確信めいたものを感じていた。
エリスは、嬉しそうに目を細めると、オレの肩にこてんと頭を乗せてきた。
「どういたしまして。……少し、休もう? 体力、回復させないとね」
ああ、そうだな。今は少しでも休んで……。
そう思った、まさにその時だった。
ゴゴゴゴ……
洞窟の外から、地響きのような音が近付いて来るのが聞こえた。さっきよりもずっと近くで。
「――っ!」
オレとエリスは、同時に息を呑んだ。顔を見合わせる。互いの瞳に映るのは、絶望的な色。
ザッ……ザッ……
重い足音が、洞窟のすぐ前で止まった。
そして、入口を塞いでいた雪と枯れ枝が、バリバリと音を立てて薙ぎ払われる。
逆光の中に現れたのは、巨大な人影。
緑色の醜悪な肌。単眼の巨人。
オレたちの匂いを辿ってきたのか、それともオレたちの声が外に漏れていたのか、サイクロプスの1体が、オレたちの隠れ場所を見つけ出してしまった。
巨大な一つ目が、洞窟の中を覗き込み、オレたち二人を……獲物として、確かに捉えた。
逃げ場はない。
絶体絶命。
静寂の終わりは、新たな死闘の始まりを告げていた――