第4話 白銀の狩場、あるいは始まりの咆哮
夜明け前の空気は、まるで研ぎ澄まされた刃のように冷たくて、吸い込むたびに肺の奥がツンと痛むほどだった。吐く息はあっという間に白く凍りついて、夜の名残である濃い藍色の空気に吸い込まれては消えていく。
アスターナ北門。石造りの重厚な門はまだ固く閉ざされていて、周りには人影もまばらだ。指定された集合時間より少し早く着いてしまったオレとエリスは、門の壁にもたれかかって、静かにその時を待っていた。凍えるような寒さに、オレは思わず身を縮こませ、革の手袋に覆われた自分の手を何度も擦り合わせる。
「うぅ……さみぃ……。マジで骨身に染みるな、この寒さ……」
「タクマは本当に寒がりだよねぇ」
隣に立つエリスが、ぶるぶる震えるオレを見て、楽しそうにクスクス笑う。彼女は風を通しにくそうな生地ではあるけど、見た目には薄手のコートを羽織っているだけ。下はいつもの動きやすそうなショートパンツ姿だ。しなやかな脚線美を惜しげもなく晒しているというのに、寒さを感じている様子は微塵もない。白い頬は、張り詰めた空気のせいか、それともこれから始まる戦いへの高揚感か、ほんのり上気しているように見える。
「……うるせぇ。寒いもんは寒いんだよ。これが寒くないお前の方がおかしいんだよ」
ぶっきらぼうに言い返すが、エリスは全然気にしていない様子で、悪戯っぽい表情で自分のコートのポケットをポンポンと軽く叩いてみせた。
「ね、タクマ。私のポケット、中はもふもふの裏地付きで、すっごく温かいと思うよ? 手、入れてみたくなーい?」
「は? な、何言って……本気かよ?」
冗談だろ? と半信半疑の視線を送る。だが、エリスの大きな黒曜石のような瞳は、悪戯っぽい光を宿しながらも、どこか真剣な色をたたえてオレをじっと見つめ返してきた。そして、有無を言わせない、それでいて抗いがたい魅力で、「いいから、ほら!」と、戸惑うオレの冷え切った右手を取り、自分のコートのポケットの中へとぐいっと引き入れた。
ポケットの中は、彼女の言う通り、驚くほど温かくて、そして柔らかかった。毛足の長い、たぶん上質な獣毛か何かだろう。その裏地の感触が、まず指先を優しく包み込む。そして……ポケット越しに伝わってくるエリスの体温。じんわりと彼女の熱が伝わってくる。
不意に、ポケットの中で、彼女の華奢だけど、しなやかな指が、オレの冷たく強張っていた指に、そっと、しかし大胆に絡められた。
「……っ!?」
びくり、と微かに全身が跳ねる。心臓がドクン、と大きく、そして明らかに速く脈打ち始めた。反射的に手を引こうとしたが、ポケットの中でしっかりと絡められたエリスの手が、それを許さない。吐息が触れるほどの距離で、彼女が囁く。
「しーっ。他の人が来るまで……。いいでしょ? ね?」
悪戯が成功した子供のような、それでいてどこか大人びた笑みを浮かべるエリス。オレはもう抵抗する気力も、そしてたぶん意志も無くし、されるがままになっていた。繋がれた手から伝わる温もりと、すぐ隣で感じる彼女の存在が、不思議と凍えるような寒さも、胸の奥で燻る不安さえも、じんわりと溶かしていくような気がした。
……まあ、悪い気は、しないよな。むしろ、こういう不意打ちは、心臓には悪いが……悪くない。
そんな束の間の、二人だけの密やかな時間は、しかしあっという間に終わりを告げた。約束の時刻が近付き、北門の前には屈強な体つきのベテランハンターや、オレたちと同じように緊張した面持ちのD級ハンターたちが、ちらほらと、その姿を現し始めたからだ。
オレは、他の隊員たちに見つかる前にと、エリスのポケットからそっと手を引いた。今度はさすがにエリスも、素直にオレの手を離してくれた。……指先に残る温もりに、少しだけ名残惜しさを感じてしまう。
昨日、緊急招集に応じて名乗りを上げたベテランハンターは5、6人いたはずだが、その中には急遽別の重要任務が入った者や、雪山用の装備が間に合わなかった者もいたらしい。結局、最終的に今回の討伐隊に参加するベテラン勢は、リーダーを務めるB級ハンターのゴードン隊長を筆頭に、C級のハンター3名を加えた合計4名となった。それに、オレたち2人を含むD級ハンター7名を合わせ、総勢11名。これが、アスターナの未来を賭けて雪山に挑む、急造の討伐隊の全容だった。
集まった隊員たちの間に、自然と緊張感が漂い始める。皆、口数は少なく、黙々と自身の装備を点検したり、武器の手入れをしたりしている。その中で、ひときわ体格の良いゴードン隊長が、重々しくエリスの前に歩み寄った。歴戦の猛者であることを物語る無数の傷跡が刻まれた顔には、厳しいながらも確かな期待の色が浮かんでいる。
「エリス嬢。君の力は聞いている。ギルドのティア嬢からも、君がいれば心強いと推薦があった。今回の任務、君には特に期待しているぞ」
「はい! ゴードン隊長! 全力で頑張ります!」
エリスは背筋を伸ばし、一点の曇りもない笑顔で力強く答えた。その様子を見ていた他のC級ハンターたちも、「おお、エリス嬢がいるなら百人力だな!」「よろしく頼むぜ、嬢ちゃん!」と、口々に好意的な声をかける。彼女の実力は、すでにベテランたちの間でもある程度知られているのかもしれないな。
一方、オレには特に誰も期待の言葉をかけてはこない。すれ違いざまに、同じD級のハンターが「おい、タクマ。荷物持ち、頼んだぞ。ポーションとか、すぐ出せるようにしとけよ」と、悪気はなさそうだが軽く言っていたくらいだ。
(……やっぱり、エリスへの期待はすごい。オレはまだ、荷物持ち扱いか……)
胸の奥が、ちくりと痛む。悔しくない、と言えば嘘になる。荷物持ちとしての役割も重要だ。それは分かっている。この収納魔法が、少しでも討伐隊全体の生存率を上げる助けになるなら、今はそれでいい。それもまた、今のオレにできる貢献なんだから。
(でも……やっぱり、直接的な戦力としても認められたい気持ちだって、当然ある。……よし、今は感傷に浸っている場合じゃない! この悔しさもバネにして、オレにできる貢献を全力で果たそう! そして、いつか必ず……!)
オレはぎゅっと拳を握りしめ、燻る気持ちを前向きな決意へと変える。顔を上げると、心配そうにこっちを見ていたエリスと目が合った。オレは彼女に力強く頷き返し、「頑張ろう!」と声をかけた。
やがて、ゴードン隊長が低い、しかし集まった隊員全体によく通る声で、最終的なブリーフィングを開始する。内容は昨日ギルドで発表されたものと大差ないが、雪山での具体的な指示系統、モンスター発見時の連携、そして緊急時の撤退信号などが改めて確認され、隊全体の意識が引き締められていく。
いつの間にかギルドマスターも厳しい表情で腕組みをして現れており、その鋭い視線が隊員一人一人を射抜くように見つめている。その眼差しには、叱咤激励が強く込められているように感じた。
簡単な作戦――前衛が盾役のC級とゴードン隊長、中衛に他のC級と攻撃力のあるD級、後衛に支援役と残りのD級、という大まかな陣形と役割分担も確認されたが、あくまで基本であり、状況に応じて臨機応変に対応する、というものだった。
装備の最終確認後、オレは他の隊員から予備のポーションや矢筒などをいくつか頼まれ、手際よく収納庫へと仕舞っていく。今は、この魔法でみんなをサポートすることが、オレの戦いだ。
ブリーフィングが終わり、まさに隊が出発しようとした、その時だった。
「タクマさん! エリスさん!」
ティアさんが、息を切らせながらオレたちのところまで駆け寄ってきた。その後ろから、ギルドマスターも静かに近寄ってくる。ティアさんのキツネ耳は心配そうにぺたりと伏せられ、大きな瞳は不安げに揺れていた。
「ティアさん……、わざわざ見送りに?」
「はい。お二人とも、くれぐれも気をつけてくださいね。無茶は絶対にしないでください。必ず、無事に帰ってくること。それが、最優先ですからね!」
必死に不安に堪えているのだろう、彼女の声は微かに震え、語尾が掠れた。その必死な様子と偽りのない心からの願いに、オレは胸の奥が締め付けられる思いだった。
「……はい。分かってます。ありがとうございます、ティアさん」
オレが力強く頷くと、隣のエリスも「心配かけてごめんね。でも大丈夫! 私たちは絶対無事に帰ってくるから!」と、ティアさんの手を両手で優しく握り、力強い笑顔を見せた。
ギルドマスターは、最後まで言葉を発することはなかった。ただ、オレたちの目を、そして他の隊員全員の目を一人ずつ順番に、真っ直ぐに見つめ、そして一度だけ、力強く頷いた。その無言の眼差しが、どんな言葉よりも重く、オレたちの覚悟を問うているように感じられた。
東の空が白み始め、夜明けの最初の光がアスターナの街並みを淡く照らし出す頃。オレたち討伐隊11名は、開かれたアスターナ北門を静かに出発した。重く、しかし確かな決意をそれぞれの胸に秘め、白銀の狩場へと向かって……。
◇
踏みならされた街道を外れ、本格的な雪山へと続く道なき道へと足を踏み入れると、世界の様相は一変した。深いところでは膝まで沈む新雪が、容赦なく前進を阻み、体力をじわじわと削っていく。一歩踏み出すたびに、ブーツが重く雪に囚われ、それを引き抜くだけで息が上がる。吹き付ける風は、まるで氷の礫のように頬を打ち、厚手の防寒具を着込んでいても、体の芯まで凍てつかせるような冷たさだった。
一面の銀世界は、昇り始めた太陽の光を乱反射させ、キラキラと眩いばかりに輝いていた。木々の枝は重そうな雪の衣を纏い、繊細な氷の結晶がダイヤモンドダストとなって空気中を舞う。時には、自然が作り出したその幻想的な美しさに、思わず足を止めて見入ってしまうほどだ。だが、その美しさとは裏腹に、ここは死と隣り合わせの領域なんだ。油断すれば、この純白の世界が、一瞬にして命を奪う罠へと変貌する。
(怖いという気持ちが完全に消えたわけじゃない。けど、決めたんだ。オレは、もう逃げないって……! エリスを守るって!)
あの時ギルドで固めたはずの決意。だが、厳しい自然と、慣れないメンバーとの集団行動は、心の奥底に澱む過去のトラウマの残滓を、どうしても呼び覚ましてしまう。不意に襲ってくる息苦しさや、あの迷宮での無力感を、奥歯を強く噛み締めて必死に振り払った。
(大丈夫……大丈夫だ。隣には、エリスがいる!)
彼女の存在そのものが、オレにとっては何よりの護符であり、前に進むための力だった。
そんな時だった。前方を歩いていたエリスが、隠れた木の根にでも足を取られたのか、「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げて僅かにバランスを崩した。
「――おっと!」
彼女が前のめりによろめいた瞬間、オレは咄嗟にその華奢な腕を掴み、転ばぬようにと引き寄せた。思ったよりも軽い身体が、勢い余ってオレの胸に飛び込んでくるような形になる。ふわりと、エリス特有の甘い花の蜜のような香りが鼻腔をくすぐった。
「大丈夫か? 足元、注意しろよ」
「えへへ、ごめんね。ありがとう、タクマ。助かったぁ」
エリスは悪びれる様子もなくぺろりと舌を出すと、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、オレに全体重を預けるかのように、ぎゅっと強くしがみついてきた。柔らかな感触と確かな温もりが、厚手の服越しにもはっきりと伝わってくる。その小悪魔的な仕草に、オレは何も言い返せず、ただ自分の心臓が妙にうるさく脈打つのを感じるしかなかった。
◇
昼近くになり、風雪を避けられる岩陰を見つけ、討伐隊は短い休憩を取ることになった。斥候役のベテランハンターたちが周囲の警戒を怠らない中、他の隊員たちは固いパンをかじったり、水筒の水を飲んだりして、束の間の休息を取っている。
オレは少し離れた場所で、悴む手を吐息で温めながら、収納庫から、愛用……とはまだ言えないが、それでも今のオレの頼れる相棒であるスリングショットを取り出す。
これは、昨日、スノウボア討伐への参加を決めた後、急いで普段お世話になっている鍛冶屋の工房を訪ねて譲ってもらったものだ。レギーナムトの迷宮で失くしてしまった、オレの手や癖に合わせて何度も調整してもらった愛用品とは違う。これは、その調整段階で作ってもらっていた試作品の一つで、オレの手にはまだ今一つ馴染んでいない。それでも、今のオレにできる数少ない攻撃手段の一つだ。
(しっかり練習しないとな……)
近くにあった、雪を載せた手頃な大きさの岩を的に見立て、収納庫から硬く丸い木の実を取り出し、ゴムに番える。呼吸を整え、狙いを澄ます。ヒュッ、と風を切る音と共に木の実が飛ぶが、狙いは大きく逸れ、岩の遥か手前の雪面に虚しく突き刺さった。
「……くっ!」
もう一度。今度はもっと腕を固定して……! しかし、やはり結果は同じだった。新しい……いや、古い試作品のスリングショットの感覚がまだ掴めないのか、それとも寒さで指先の繊細な感覚が狂っているのか、あるいは焦りが精度を鈍らせているのか。
(ダメだ。こんなんじゃ、実践で役に立つわけがない。これじゃ、あの迷宮での出来事を繰り返してしまう……)
焦りと自己嫌悪で顔が歪みかけた時、ふと、懐かしい記憶の欠片が脳裏をよぎった。ハンターになりたての頃、まだアスターナ近郊の森で、エリスと二人で狩りの真似事をしていた時のことだ。あの時も、まだ調整中のスリングショットだったとはいえ、小さなリス1匹仕留められず、オレはひどく落ち込んでいた。そんなオレの隣で、エリスはいつものように、太陽みたいに笑っていたんだ。
『ドンマイ! タクマなら絶対大丈夫だよ! 諦めなければ、きっとすぐ上手くなるって! 私が保証する!』
何の根拠もないはずの、彼女の絶対的な信頼。それにどれだけ救われたことか。そうだ、あの後、オレは悔しくて、そしてそれ以上に彼女の信頼に応えたくて、必死で練習を繰り返した。そして……初めて狙い通りに、素早く枝から枝へ飛び移るリスを仕留められた時の、あの手の震えと、胸が熱くなるような達成感……!
(あの時みたいに……諦めなければ、今度も、やれるはずだ! このスリングショットだって、必ず使いこなしてみせる……! オレだって……!)
オレはもう一度、強くゴムを引き絞った。過去の成功体験が、凍てついた指先に、そして冷えかけた心に、確かな熱を取り戻させてくれるような気がした。全ての雑念を払い、呼吸を整え、岩の中心、ただ一点に意識を集中する。指を離す。放たれた木の実は、今度こそ鋭い軌道を描き、カッ! と小気味よい音を立てて、見事に岩の中心近くに命中した!
「よしっ……!」
思わず小さなガッツポーズが出た。まだまだ完璧ではない。だが、確かな手応えがあった。やればできる。そう強く信じることができた。
「スリングショット、また使うことにしたんだね」
不意に、すぐ後ろから優しい声がして、オレはびくりと肩を揺らした。振り返ると、いつの間にかエリスがすぐ近くまで来て、まるで自分のことのように嬉しそうに、そして誇らしげに、パッと花が咲くような笑顔を向けてくれていた。その大きな黒い瞳が、オレの小さな成功をキラキラと映している。
「え、エリス!? い、いつの間に……」
「ふふ、タクマが一生懸命だったから、気付かなかった?」
その笑顔が、どんな万能薬よりも、オレの心身を奮い立たせてくれる気がした。オレは照れ隠しに、視線を逸らしながらぶっきらぼうに答える。
「……まあな。雪山じゃ、オレも少しは遠距離攻撃できた方がいいだろ。まだ全然だけどな」
「うん! きっとすぐ上手になるよ! だってタクマだもん!」
エリスはそう言って、さらに顔を輝かせた。……くそ、こいつのこういうストレートな信頼には、本当に敵わないよな。
(収納魔法だってそうだ。ただ物を出し入れするだけじゃない。何か、もっと……もっとすごい使い方だってできるはずなんだ。オレの、オレだけの、この力で……!)
短い休憩が終わり、討伐隊は再び雪深い森の奥へと歩を進める。陽が傾き始め、木々の影が長く伸びる頃、オレたちはようやくスノウボアの目撃情報が多いエリアへと到達した。明らかに周囲の空気が変わる。ピリピリとした皮膚を刺すような緊張感。そして、風向きが変わるたびに鼻腔を突く、濃厚な獣の匂い。
ゴードン隊長が手信号で隊を停止させ、低い、しかし全ての隊員に届く鋭い声で指示を出す。
「ここからが本番だ。各自、気配を殺せ。スノウボアの痕跡を探す。バディで動け! エリス、タクマ! 君たちは先行して右翼を警戒しろ! 何かあればすぐに合図を!」
「「はい!」」
オレとエリスは頷き合い、慎重に右手方向の、鬱蒼とした針葉樹の森へと足を踏み入れる。エリスが先行し、その優れた五感を最大限に活用して周囲を探る。彼女の尖った白銀の耳が、雪を踏む自分たちの足音以外の、あらゆる微細な音を拾おうと絶えずピクピクと動いている。時折立ち止まっては、風上の匂いを確かめるように鼻をひくつかせる。オレはその少し後ろで、スリングショットをいつでも撃てるように構え、周囲の視覚情報を警戒する。木々の枝に積もった雪の崩れ、遠くの尾根を横切る影、風に揺れる枝の動き……。エリスが聴覚や嗅覚に集中している間、視覚情報はオレが担う。互いの死角を補い合う、これがオレたち二人の索敵スタイルだ。
雪上に、真新しい、無数の巨大な蹄の跡を見つけた。深くえぐられた地面は、ついさっきまで奴らがここで何かを漁っていたことを示している。まるで巨大な斧で叩き折られたかのような若い木の幹。そして、特徴的な二本の太い牙で、まるで縄張りを主張するかのようにゴリゴリと削られた大木の樹皮……。スノウボアが、それもかなりの数が、間違いなくすぐ近くにいる。生々しい痕跡の数々に、背筋を冷たい汗が伝った。
その時、先行していたエリスがピタリと足を止め、鋭い視線を前方の、特に密集した針葉樹の茂みに向けた。ピンと張り詰めた糸のような緊張感が、彼女の全身から発せられているのが、オレにもはっきりと分かった。尖った白銀の耳が、僅かな音も聞き逃すまいと神経質に震えている。
「……来る! 数が多い!」
エリスの短い警告と同時だった。ザザザッ! と激しい音を立てて茂みが割れ、雪煙を濛々と巻き上げながら、純白の巨体が、まるで雪崩のように猛然と飛び出してきた。
D級モンスター、スノウボア。硬質な白毛に覆われた巨躯は、優に2メートルを超える。陽光を鈍く反射する、象牙のように太く鋭く湾曲した2本の牙。飢えた獣の獰猛さを湛えた紅い瞳が、オレたち侵入者を明確な敵意をもって捉えていた。
それが1頭、2頭……いや、次々と姿を現し、あっという間に数を増やしていく。そして、その群れの中央には、一際巨大な……4メートルはあろうかという威容を誇る個体がいた。間違いない、あれがリーダー格だろう。他を圧する巨躯と、歴戦の古傷が刻まれたその姿は、絶望的なまでの威圧感を放っている。鋭い牙の間から吐き出される白い息が、まるで死神の吐息のように見えた。地鳴りのような低い唸り声が、雪山の静寂を恐怖で塗り潰していく。
数は……ざっと10頭! それらが横一列に広がり、オレたちの進路を完全に塞ぐように立ちはだかっていた。
「10頭か……! だが、囲まれているわけじゃない!」
「よし、こちらは11人! 数はこっちが上だ! 落ち着いて対処すれば……!」
後方から、他の隊員たちの声が聞こえる。そうだ、包囲されているわけじゃない。真正面からのぶつかり合いなら、連携次第で勝機はあるはずだ。一瞬、そんな希望的観測が胸をよぎり、強張っていた肩の力が、ほんのわずかに抜けそうになる。
オレは額に滲む冷や汗を手の甲で拭い、スリングショットのゴムを、まだ震える指で、それでも力強く引き絞った。隣のエリスは既に腰の剣を抜き放ち、その銀色の切っ先を揺らぐことなく敵に向けている。その大きな黒い瞳には、一切の恐怖も油断もなく、ただ冷徹な狩人の光だけが宿っていた。
ゴードン隊長が前に出て、右手を高く掲げる。隊全体に緊張が走る。息を詰めて、誰もが隊長の振り下ろされる腕に意識を向ける。勝てる。そう信じようとした、まさにその刹那――!
「グルオオオオオオォォォ!!!」
ゴードン隊長の指示よりも早く、リーダー格のスノウボアが、天を衝くような甲高い咆哮を上げた。それは威嚇ではない。明らかに、何かを呼ぶ声だ。聞いたこともないような、不気味な共鳴音が雪山に響き渡る。
その咆哮に応えるかのように、悪夢は現実となった。
ザワッ……! ザザザザッ……!
先ほどまで静寂を保っていたはずの、左右の鬱蒼とした森の奥深くから。そして、オレたちの背後、来た道を塞ぐように。さらなる白い獣たちが、まるで地中から湧き出すかのように、次々と姿を現した。1頭、また1頭と数を増やし続け、その数はあっという間に最初の10頭と合わせて……およそ20頭!
完全なる死の輪が、オレたち討伐隊を、絶望的に取り囲んでいた。
「なっ!? ま、まだこんな数が!?」
「嘘だろ!? 側面だけじゃない、後ろからも!?」
「罠だ! 最初から誘い込まれていたんだ!」
「に、逃げ場が……! 完全に囲まれたぞ!」
討伐隊から、最早悲鳴としか呼べない絶望的な叫びが上がる。さっきまでの僅かな希望は、一瞬にして木っ端微塵に砕け散った。圧倒的な数の暴力。それは、抗う気力さえも奪い去るような、絶対的な絶望感だった。
「うろたえるな! 陣形を組め! D級は中央へ下がれ! 防御を固めろ!」
ゴードン隊長が必死に指示を飛ばす。その声には焦りの色が隠せない。オレは指示に従おうと、反射的にエリスの手を掴んで後退しようとした。だが、遅かったようだ。
周囲は既にパニック状態に陥った隊員たちと、四方から迫るスノウボアの圧迫感で身動きすらままならない。下がろうにも、下がるべき「中央」すら、もはやどこにあるのか分からないほどの混乱状態だった。
数人のD級ハンターは恐怖に顔を引き攣らせ、武器を取り落としそうになりながら、その場に立ち尽くしている。C級ハンターたちも、その表情には隠せない動揺と焦りが見て取れた。事前に確認したはずの陣形など、この状況では絵に描いた餅だ。
「くそっ……!」
オレはエリスの前に立つように位置を取り直し、スリングショットを構え直す。もう、やるしかない! 恐怖で震える足を、無理やり雪面にねじ伏せるように力を込める。
包囲を完成させたスノウボアたちが、まるでオレたちの絶望を嬲るかのように、一斉に低い唸り声を上げる。その紅い瞳が、ぎらりと狩りの光を宿した。そして――次の瞬間!
ドドドドドドド……ッ!!!
20頭もの白い巨体が、四方八方から同時に、オレたち討伐隊めがけて突進を開始した!
雪を蹴散らし、大地を揺るがす地響きと共に、牙を剥き出しにした死の壁が、文字通り雪崩のように迫ってくる。その凄まじい突進力は、まともに受ければ熟練のC級ハンターですら、一撃で吹き飛ばされるだろう。
「総員、持ちこたえろォォォ!! 死守しろ!! 何としても耐えるんだ!!」
ゴードン隊長の絶叫が、雪山の空気を切り裂く! だが、その声すら、迫り来る蹄の轟音にかき消されそうだった。オレは狙いを定め、一番手前に迫るスノウボアの紅い眼に向かって、引き絞ったゴムから渾身の一弾を放とうとする、まさにその瞬間!
隣で、エリスが動いた。
まるで白い疾風。恐怖も、絶望も、その瞳には微塵も映っていない。ただ、オレを、仲間を守るという強い意志だけを宿して。抜き放った銀剣を構え、迫り来る死の奔流の中へと、彼女はためらうことなく地を蹴った。
獣と人との激突!
轟音! 舞い上がる雪煙! 悲鳴!
絶対的な絶望の中で、死闘の火蓋は、今、切って落とされた――!