第3話 雪煙の誓い、あるいは臆病者の第一歩
ギルドであの無様な姿を晒してから、数日が過ぎていた。
雨はとっくに上がって、アスターナの空には乾いた冬の青空が広がっている。なのに、オレの心の中は、まだあの日の冷たい雨が降り続いているかのようだった。情けない姿を見られたことへの自己嫌悪と、いまだ過去を振り切れない自分への苛立ちが、鉛のように重くのしかかる。
エリスは、オレが雨の日にトラウマのフラッシュバックを起こしやすいって、薄々感づいていたのかもしれない。あの日以来、特に何も聞かずに、いつもと変わらない太陽のような笑顔でオレのそばにいてくれた。それが心の底からありがたくて、同時に、そんな彼女の優しさに甘えてばかりいる自分が、猛烈に不甲斐なく感じられた。
あの日以来、オレは焦っていた。
D級ハンターにはなった。ギルドの書類上は、間違いなく一人前と認められたはずだ。だが、中身は本当に変わったのだろうか? あの頃の、迷宮で「お荷物」として切り捨てられたオレから、本当に成長できているのだろうか? 相変わらず使えるのは『収納魔法』だけ。戦闘では、結局エリスに頼りきりだ。その上、いざという時に過去の悪夢に足をすくわれるようでは、D級どころか、ハンター失格じゃないのか?
(このままじゃダメだ……! 何か、何かを変えなきゃ……!)
そんな焦燥感に駆られ、この数日間、時間を見つけては自分なりに足掻いてみた。D級になったからには、もう「お荷物」とは言わせない。エリスの足を引っ張らないためにも、せめて最低限の剣の腕は磨いておかないと……。
そんな思いで、日が暮れるまでひたすら愛用の片手剣の素振りを繰り返してみたり。人気のない裏路地で、石ころや枯れ枝なんかを相手に、収納魔法で何か応用はできないかと試してみたりもした。だが、付け焼き刃の努力で目に見える成果なんて出るはずもなかった。剣筋は安定せず、収納魔法も、結局はただ物を手元に出し入れするだけの、便利なだけの魔法のまま。
「ちくしょう、まだまだだな、オレ!」
思わず空に向かって叫ぶ。だが、そこで腐るわけにはいかない。エリスがいる。彼女を守れるくらい、強くならなきゃな。拳を強く握りしめる。いつか絶対……!
そんな思いを胸に、何かを変えるきっかけを求めて、オレはその日、一人でギルドを訪れていた。エリスとは途中まで一緒だったんだが「ちょっと街で買いたいものがあるから」と別れたので、今日は別行動だ。
ハンターギルド・アスターナ支部。昼過ぎの時間帯だというのに、ホールは相変わらずの喧騒に満ちていた。汗と革と、微かな鉄の匂い。奥の酒場から漂う料理の匂い。いつものギルドの光景。だが今のオレには、その活気さえもどこか遠いものに感じられた。
壁一面のクエストボードを眺める。やはり、めぼしい依頼はない。D級向けには採取や見回り依頼ばかり。報酬も微々たるものだ。
「……やっぱり、こんなもんか」
小さく溜息をついた時、近くにいたハンターたちのひそひそ話が、嫌でも耳に入ってきた。
「おい、またあの収納使いの坊主だぜ。一人か? 珍しいな」
「D級になったって聞いたが、どうせ相棒のお嬢さんのおかげだろ?」
「実力もねえのに、運だけはいいよな。あんなスゲェのと組めるなんてよ」
「まあ、便利ではあるがな、荷物持ちとしては。戦闘じゃ期待できん」
ぐっ、と拳を握りしめる。分かっている。分かっているけど、やっぱり悔しい。エリスに頼っているだけじゃないって、いつか絶対に証明してやる……! オレだって……!
その時だった。
カン! カン! カン! カン!
突如、ホール全体にけたたましい鐘の音が鳴り響いた。緊急招集の鐘だ!
「なんだ!? 緊急招集なんて、ここ最近なかったぞ!」
「何かデカいヤマでもあったのか!?」
ホールが一瞬にして静まり返り、すぐに大きなざわめきが波のように広がった。飲んだくれていたハンターも、情報交換していたパーティも、皆が一斉に顔を上げ、ホールの奥へと視線を向ける。張り詰めた空気が、じりじりと肌を刺す。
やがて、ホールの奥にある、いかにも偉そうな執務室の扉が開き、普段は滅多に人前に姿を見せない恰幅の良い、厳つい顔つきのギルドマスターが、苦虫を噛み潰したような険しい表情で現れた。その隣には、心配そうな顔をしたティアさんを始め、数名の受付嬢たちが緊張した面持ちで付き従っている。ギルドマスターが壇上に上がると、ホールは水を打ったように静まり返った。
「諸君、静粛に! 緊急事態が発生した!」
マスターの、よく通るバリトンボイスがホールに響く。
「アスターナ北方のレギーナムト山系、その雪山において、D級モンスター『スノウボア』が異常発生しているとの報告が入った!」
マスターの言葉に、即座にハンターたちから声が上がる。
「スノウボアだと!?」
「しかも雪山かよ!」
「異常発生って、どれくらいの数なんだ!?」
ざわめきを片手で制し、マスターは続ける。
「例年を遥かに超える個体数が確認されており、数日前から麓の村々で家畜が襲われる被害が続出! そしてついに昨夜、村にまで侵入し、複数の家屋が破壊されたとのことだ!」
その言葉に、ホールに更なる衝撃が走った。
「村にまで!?」
「やべぇぞそれは!」
マスターは、傍らの職員が慌てて貼り出した巨大な依頼書を指差す。血のような赤いインクで書かれた文字が、事態の深刻さを物語っていた。
『緊急:スノウボア大量発生! 麓の村を防衛せよ! 推奨ランクD級以上! 危険度・高!』
「このまま放置すれば、被害が拡大するのは必至! 人的被害が出るのも時間の問題だろう! よって、ギルドとして緊急討伐隊を結成し、可及的速やかにスノウボアの個体数を減らす! これはアスターナ支部における最優先依頼とする!」
そして、マスターは声を一段と張り上げた。
「報酬は、基本報酬として金貨一枚! これは領主フラウリンド家からの多大なる協力もあって実現した特別報酬だ! さらに、討伐数に応じて特別報奨を加算する! 危険な任務であることは承知しているが、領主様と共にアスターナの民のために、諸君らの力を貸してほしい!」
「金貨一枚」! その言葉に、ホールは爆発的な興奮に包まれた。D級ハンターのオレにとっては、一生かかっても手にできるかどうかの大金だ。だが、興奮も束の間。相手はD級でも屈指の凶暴さを誇るスノウボア、しかも「群れ」、そして場所は動きにくい「雪山」。リスクとリターンを天秤にかけ、多くのハンターが顔を曇らせる。
やがて、屈強なC級、B級と思しきベテランハンターが数名、重々しく前に進み出た。だが、その数はわずか五、六人。
「くそっ、他の主力は別の依頼で出てやがる……! この人数では足りん!」
ギルドマスターの顔が焦りで歪む。
「D級ハンターの協力が不可欠だ! この街を守る気概のある者はいないのか!? 誰か、名乗り出る者はいないか!」
マスターの悲痛な叫びが響くが、D級ハンターたちは互いに顔を見合わせるばかりで、誰も一歩も前に出ようとはしない。
(怖い……。スノウボアの群れなんて、今のオレが行ったって……)
足がすくむ。迷宮での記憶が蘇る。強敵、集団行動、撤退……あの時の絶望が、冷たい霧のように心を覆い始める。フラッシュバックする光景に息が詰まる。
(ダメだ……オレには……)
俯きかけた、その時だった。脳裏に、エリスの太陽のような笑顔が、あの日のギルドで泣きそうだった彼女の顔が、そして「いつでもタクマの傍にいる」と言ってくれた彼女の声が、強く強く響いた。
オレは……エリスの隣に立ちたいんじゃなかったのか……? いつまでも、守られてばかりいるつもりか……!?
そうだ、ハンターになったのは、強くなりたかったからだ。誰かを守れるようになりたかったからだ。村が襲われている。困っている人がいる。それを知って、見過ごせるのか?
あの時の悔しさは、『バネ』なんだろ……!? 変わるんだ! ここで変わらなきゃ、一生変われない!
恐怖も、不安も、劣等感も、心の奥底から突き上げてくる熱い衝動が、全てを焼き尽くしていく。オレは顔を上げ、震える右手を、それでも力強く、高く突き上げた! その拳には、今度こそ掴んでみせるという決意が込められていた。
「――やりますっ!!」
自分でも驚くほど大きな声が、静まり返ったホールに響き渡った。
一瞬の静寂の後、ホールは先ほどとは違う種類のざわめきに包まれた。嘲笑、侮蔑、心配、そしてほんの少しの驚き。様々な感情を込められた視線が、容赦なくオレに突き刺さる。
「おいおい、D級なりたての収納使いが!? 本気か?」
「死にに行くようなもんだぞ!」
「やめとけって坊主!」
うるさい! 見てろよ、お前ら! オレがただの便利な荷物持ちじゃないってこと、絶対に証明してやる!
「――ダメですっ!!」
突然、ホールに凛とした、しかし悲痛な響きを帯びた女性の声が突き刺さった。ざわめきが一瞬にして凍りつく。声の主はティアさんだった。
壇上のマスターが「むっ!?」と驚いたように彼女を振り返る。その視線も意に介さず、ティアさんは固く唇を引き結び、オレを真っ直ぐに見つめている。
ティアさんが壇上から静かに降りた。彼女が一歩踏み出すと、まるで目に見えない力が働いたかのように、周りにいた屈強なハンターたちが息を呑み、さっと左右に分かれて、自然と一本の道を開けた。
静寂がホールを支配する。コツ、コツ……と、彼女のヒールの音だけが、やけに大きく響いていた。ティアさんは迷いのない足取りでその道を進み、オレの目の前でぴたりと足を止めた。その大きな瞳は涙で潤み、美しいキツネ耳は力なく垂れ下がっている。
「タクマさん! ……あなたまで!」
その声は震えていた。
「お願いですから……どうか、どうか考え直してください……! この依頼は、本当に危険なんです。D級とはいえ、……あなたのようにD級になったばかりの若い方が、無謀な勇気だけで挑んでいい相手じゃ、決して……!」
ティアさんの小さな手が、懇願するようにオレのジャケットの裾を強く掴む。
「数年前にも……同じようなことが、あったんです。あの時も、緊急の討伐依頼でした……。雪山での戦闘には自信があると言っていた、若いD級の四人パーティが……。でも……彼らは、リーダー格のスノウボアが率いる群れの、巧みな連携攻撃で……あっという間に、……壊滅、させられたんです……!」
彼女の顔が苦痛に歪む。俯き、わなわなと肩を震わせながら、途切れ途切れに言葉を続ける。声はもう涙でほとんど掠れていた。
「たった一人……生き残った方も……もう二度とハンターには戻れないほどの、再起不能な大怪我を……。私はもう……あんな悲劇は、見たくないんです……! タクマさんまで……もし、あなたまでそんなことになったら……エリスさんが……! いつもあなたの隣で笑っている、あの子が……! エリスさんだって、どれだけ悲しむか……! お願いだから……!」
言葉にならない嗚咽が、彼女の口から漏れる。彼女の涙と、心の叫び。それは、オレの決意を容赦なく揺さぶった。唇を噛みしめる。かけるべき言葉が見つからない。俯きかけた、まさにその時だった。
「――大丈夫ですっ!!」
凛とした、それでいてどこまでも澄んだ声が、ホールに響き渡った。
はっと顔を上げると、ホールの入口近く、柱の影から歩み出てくるエリスの姿があった。いつの間に来ていたんだ? 手ぶらだ。さっき別れた時、何か買いたいものがあるって言ってたはずなのに。
エリスは真っ直ぐにオレたちの元へ歩いてくる。その足取りに迷いはない。オレの隣まで来ると、心配そうな、でもどこか誇らしげな顔で小さく囁いた。
「ごめんね、タクマ。……さっきのタクマ、少し元気なさそうだったから、心配でこっそり付いてきてたんだ。だから、全部聞いてた。……行くんだよね? 雪山へ」
エリスの目を見て、オレは静かに、しかし力強く頷いた。
「なら、もちろん私も行く」
そして、涙ぐむティアさんの前に立つと、優しく、しかしきっぱりと言った。
「ティアさん、心配ありがとうございます。でも、大丈夫です」
その声には、一片の迷いもない。エリスはオレに向き直ると、その大きな黒い瞳に絶対的な信頼を込めて、はっきりと宣言した。
「タクマが行くなら、私も行きます! タクマは絶対に一人になんてさせません!」
エリス……! その言葉が、オレの最後の迷いを吹き飛ばしてくれた。そうだ、オレは一人じゃない。
「エリスさんまで!? あなたたち二人では危険すぎます!」
ティアさんはそれでも食い下がろうとする。だが、オレとエリスは視線を交わし、互いの覚悟を確認する。もう、言葉は必要なかった。
「ティア、もうよい」
壇上で腕組みをして厳しい表情で成り行きを見守っていたギルドマスターだったが、やがて重々しく頷くと、ゆっくりと壇上を降り、人垣を静かにかき分けてティアの背後まで歩み寄った。そして、その肩にそっと、しかし有無を言わせぬ力強さで手を置いた。ティアが驚いたようにマスターを見上げる。マスターは厳しい目でオレたちを見据える。
「タクマ、エリス。見事な覚悟だ。……よかろう、参加を許可する!」
ホッと息をついたのも束の間、マスターの声が再び鋭さを増す。
「だが聞け! 決して突出するな! 常に他の隊員と連携しろ! 少しでも危険と判断したら、即時撤退! いいな!? これは命令だ!」
「「はいっ!!」」
オレとエリスは力強く返事をし、深々と頭を下げた。(オレたちの覚悟に何かを感じたのか、後ろで他のD級ハンターが数名、「お、俺も行くぜ!」「俺もだ!」とおずおずと手を挙げる気配がした)
周りのハンターたちの視線は、まだ厳しいものが多いかもしれない。だが、もう気にならない。オレの隣には、最強で、最高のパートナーがいるのだから。
エリスと顔を見合わせ、強く頷き合う。彼女が差し出した手を、オレは力強く握り返した。その温もりが、冷え切っていた心を温めてくれる。
見てろよ。オレはもう、お荷物なんかじゃない。エリス、お前と一緒に、必ずこのクエストを成功させてみせる!
決意を新たに、オレたちは雪山へ向かうため、ギルドホールを後にした。アスターナの街並みの向こうには、白く雪を頂いた、険しい山々のシルエットが、まるでこれからの試練を暗示するかのように、夕暮れの空にそびえ立っていた。