第27話 春の始まり
「では失礼いたします。エリスティーナ様にも、どうぞお大事にと、お伝えください」
「ええ。伝えておきます。ありがとうございます。ナディアさんもお気を付けて」
フラウリンド伯爵家のメイド、ナディアさんが、深々と一礼をして豪華な馬車に乗り込んだ。彼女を乗せた馬車が遠ざかっていくのを見送った後、オレは早々に家の中に入った。
二人の共用部として使っている一階のリビングを通り抜け、二階へと上がる。エリスの部屋の前まで行き、オレの足は自然と止まった。
……なぜか、少しだけ緊張してしまう。エリスの部屋に入るのは、これが初めてじゃないのに。
軽く深呼吸をしてから、ドアをコンコンとノックする。
返事は、ない。まあ、寝ているんだろう。
耳をドアに当ててみるが、物音一つ聞こえない。ドアノブに手を掛け、そっと回す。鍵はかかっていない。音を立てないようにゆっくりとドアを開け、中を覗き込んだ。
窓は半分開けられていて、白いレースのカーテンが春の柔らかな風に微かに揺れている。穏やかな日差しが部屋の中に差し込み、心地よい明るさだった。
エリスの部屋は、オレの部屋と同じくらいの広さのはずだけど、物が少ないせいか、ずいぶん広く感じる。ベッドと小さめのテーブル、椅子が一つ。あとは埋め込み式のクローゼットくらいか。ほとんどの荷物はそこに仕舞ってあるんだろう。
オレは部屋の中に入り、後ろ手でそっとドアを閉めた。鍵は……かけない方がいいか。もしセリカが様子を見に来た時、鍵がかかっていたら余計な心配をかけるかもしれないし。
足音を忍ばせながらベッドへ近付く。そこには、安らかな寝息を立てて、エリスが横たわっていた。
……やっぱり、寝ているようだ。
頬がほんのりと赤い。たぶん、まだ熱があるんだろう。
エリスが風邪を引くなんて、初めてのことかもしれない。オレたちが小さい頃、まだ村にいた時だって、オレは何度も風邪で寝込んだけど、エリスが寝込んだ記憶は全くない。獣人は人族より丈夫だとは聞くけれど、ましてやエリスはただの獣人じゃない。あのバハムートだ。そんなエリスに取りつくなんて、とんでもない根性のある風邪だな、と妙に感心してしまう。
まあ、冗談はさておき、先日の迷宮探索での疲労が溜まっていたんだろう。魔力もほとんど空っぽになるまで戦ったのだし、無理もない。
オレたちの村では、子供が風邪を引いても回復魔法は滅多に使わなかった。「自然に治すことで免疫力が付いて丈夫になる」とかいう、今思えばよく分からない理由で。ここアスターナでは、子供でもすぐにヒールで治すのが普通だと知った時は、ちょっと驚いたものだ。
けど、今回エリスはヒールを拒んだ。自分で自分にかけることも、オレが他のヒーラーを呼ぼうかと言っても「いらない」の一点張り。
何故かと尋ねたら、なんて答えたと思う?
「小さい頃、タクマが風邪で寝込んでる時、お母さんに優しく看病されてるのが、すっごく羨ましかったんだもん。だから、私にも優しく看病してね?」だと。
赤い顔して、潤んだ瞳で、そんなこと言われたら……断れるわけない。
だからオレは、仕方なく、こうしてエリスの看病をしているわけだ。誤解しないでほしい。あくまでも、仕方なく、だ。……普段は入れないエリスの部屋に堂々と入れるから、とか、そんな邪な気持ちは、まあ、ほんのちょっと……いや、断じてない!
エリスの寝顔を覗き込む。すぅすぅと穏やかな寝息を立てて、本当に気持ちよさそうに寝ている。
顔は……まだちょっと赤いかな。熱は、どうだろう? 少しでも下がってくれていればいいんだけど。
そっとエリスの額に手を伸ばす。が、手が額に触れる寸前で止まる。
……起こしてしまうかもしれない。それに、寝てるエリスに断りもなく触れるのは……やっぱりマズイよな? セリカに見られでもしたら、一日中お説教コース確定だ。やっぱり鍵、かけておくべきだったか?
でも、熱を測るだけだし。看病の一環だし。やましい気持ちは……ない! たぶん! つんつんとか、ぷにぷにとか、もふもふとか、したい気持ちは……ぐっと堪える。熱を測るだけ、熱を測るだけ……。
心臓が妙にドキドキするのを抑えながら、自分に言い聞かせる。
――よし! 測るぞ!
「……タクマ?」
――っ!?
「どうしたの?」
ゆっくりと視線を下に向けると、いつの間にか目を覚ましたエリスが、ぱっちりとした黒い瞳でオレと、オレの手をじっと見上げている。
「エ、エリス。お前起き……。あ、いや、なんでもない。それより、具合どうだ?」
心臓が飛び出るかと思ったが、なんとか平静を装って声をかける。
「うん……。だいぶ良くなったかな。でも、まだちょっと体に力入りにくいっていうか、変にふわふわしてるようで、それでいて妙に体が重いっていうか……」
「そうか。まあ、まだ無理しないで寝てな。熱を測るぞ?」
「うん」
少しぐったりした様子で毛布から顔を出しているエリスの額に、今度こそちゃんと手を当てる。
……うん、昨日の夜よりは下がっているな。でも、まだ熱は残っているようだ。
オレの手が冷たかったのか、エリスが気持ちよさそうに目を細めた。
「あー、ちょっと気持ちいいかも。しばらくこのままでいて欲しいかも」
「何言ってるんだ」
オレは微笑みながら、収納庫から冷たい濡れタオルを取り出した。四つ折りにして、そっとエリスの額に乗せる。
「ほら! こっちの方がいいだろう?」
「んー。これはこれで確かに気持ちいいけど。でも、タクマの手も気持ち良かったよ。タオルと違ってやっぱ温もりに安心感があるというか……。私、タクマの手、好きだよ?」
オレの手が、好き……?
……まずい。なんだかオレの方が熱が出てきた気がする……。
今、ここは二人きり。目の前にはベッド。エリスは横になっていて……。
これは危険だ。とんでもなく危険だ。……オレの理性が。
だめだめ、話題を変えなきゃ!
オレはベッドの横に置いてある椅子に腰かけながら口を開いた。
「えっと、エリス? 何か食べられるか?」
「んー……」
あんまり食欲なさそうだ。でも、朝も何も食べていないし、少しでも何か口にした方がいいだろう。
「ついさっきまでナディアさんが来ていてな。ストロベリーを貰ったんだけど、少しだけでも食べてみないか?」
「ストロベリー!? わーい、食べたーい!」
途端にエリスの瞳がキラキラ輝きだした。エリスはストロベリーが大好物だからな。お茶会の時もよく食べていたし、今回も絶対に食べるだろうと思ってた。ははは、予想通りだ。
「お茶会でのストロベリーも美味しかったよね。嬉しいな」
「そうだな」
軽く相槌を打ちながら、オレは収納庫に収納していたストロベリーを取り出した。籠に山盛りになった、真っ赤で艶々した大粒のストロベリー。見るからに甘そうだ。
「わあ、美味しそう」
「ああ。粒も大きくて、すごく甘くて美味しいぞ」
「あっ、ズルい! 先に食べたんだー」
おっと、いけない。さっきナディアさんにもらった時、つまみ食いしたのがバレてしまった。ははは……。
「一個だけだ。ちょっと味見させてもらっただけだ」
「……ふーん」
いや、だから本当に一個だけだって。そのジト目で見上げるのはやめてくれないかな?
「ナディアさんが洗ってくれているからすぐに食べられるぞ? 食べるか?」
「もちろん!」
さっきまでの食欲不振はどこへ行ったのやら。
でも、エリスは起き上がろうとしない。ベッドに横たわったまま、何か期待を込めたような眼差しでオレを見上げてくる。
……まあ、そう来るだろうな、とは思っていた。エリスの望んでいることなんて、お見通しだ。
オレは籠の中から一番大きそうな粒を選び、ストロベリーを一つ摘まんだ。
「ほらっ。あーん」
誰も見ていないしな。まあ、何というか、「あーん」は、看病の基本だよな? な? ……反論は受け付けないぞ?
オレの行動は、どうやらちゃんとエリスの希望通りだったようだ。エリスは横になったまま、すぐに目を閉じて口を少し開いた。
「……あーーーんっ」
真っ赤なストロベリーがエリスの唇に触れる。一口ではとても食べきれないような大粒を、エリスは半分だけかじる。
「……美味しい! すっごく瑞々しくて、とっても甘いの!」
その嬉しそうな声と表情に、オレの顔もつい緩んでしまう。
再び口を開けたエリスに、食べかけのストロベリーを近付ける。だが、そこでふと悪戯心が顔を出し、エリスが口を閉じるタイミングを見計らって、サッとストロベリーを引いてみた。何も口に含まず、エリスがパクっと口を閉じる。
「ん! んんっー!」
エリスがジト目でオレを見上げてきた。
「あははは。ゴメン、ゴメン。何かエリスが可愛くて、つい」
「――っ!?」
オレが再び近付けたストロベリーを、エリスはサッと口に含み、そしてプイッと毛布を顔にかぶってしまった。
……あれ? 怒ったかな?
そんなエリスが、毛布の中で唸りだした。
「うぅぅ……。なんか、また熱が上がりそうだよ……。タクマのバカァ……」
結局エリスはストロベリーを五粒ほど食べただろうか。「もうお腹いっぱい」と言うので、オレは残りのストロベリーを再び収納庫に収納した。病み上がりに無理して食べさせても、余計に具合が悪くなるかもしれないしな。
ちなみに、オレも同じくらい食べた。本当に甘くて美味しかった。やはり伯爵家のフルーツは、庶民のとは一味も二味も違うものなのだろうか。
「ところでタクマ。ナディアさんは何の用だったの? まさか……《神水》のことで何か?」
「ん? いや、違うよ」
アーロンに託した《神水》は、無事フラウリンド家に届けられたらしい。王都の神殿の大司教様自ら届けに来たとかで、大騒ぎだったそうだ。……アーロンのやつ、知り合いの神官と言ってなかったか? 大司教様に使いっ走りさせたんだろうか?
ともかく、《神水》によってローゼちゃんの母親、ソフィー夫人は無事目覚めることができた。
「来月の半ばに、フラウリンド家で夜会が開かれるそうだ。その招待状を届けに来てくれたんだよ」
「夜会の招待状? 伯爵家の? 私たちに?」
「ああ。どうやらローゼちゃんの希望らしい。エリスとセリカにはぜひ出席してほしいそうだ。母親が元気になったことだし、紹介したいんだとか」
ナディアさんは明言していなかったけど、たぶんオレとラウルはオマケみたいなものだろうな、ローゼちゃんにとっては。……まあ、いいけどな。
「そっか。ローゼちゃんが……。うん。それはぜひ出席したいね。ローゼちゃんの笑顔を凄く見たい」
「ナディアさんによると、もう母親にべったりだそうだよ」
「ふふふ……。いいことじゃない? 私たちはそのために頑張ったんだもん」
「だな」
エリスは「楽しみだなぁ」と呟きながらそっと瞳を閉じた。
少し話し疲れたのかな? 心なしか、呼吸が少し速くなったような気もするし……。まだ熱はあるのだし、このまま寝かせておいた方がいいだろう。
そう思い、オレは部屋を出ようと椅子から立ち上がった。エリスに背を向けた時、ふいに右手を掴まれ、引っ張られ、オレは思わずベッドに腰を下ろしてしまった。
「……エリス? どうしたんだ?」
振り向くと、朱に染まった顔をしたエリスがオレを見上げている。
「えっと、そのぉ、あのね。少しでいいから、手を……握ってもらっていい?」
毛布で口元を隠しながら、恥ずかしそうにエリスがオレを見上げる。体調の悪さから来る心細さがあるのかもしれない、とオレは素直に頷き、右手でエリスの手をそっと取った。
……手も、いつもより温かいみたいだ。
そんなことを思っていると、エリスが握り方を変えてきた。互いの手のひらを合わせるようにして、しっかりと離れないように指を絡めてくる。この握り方、普段よりすごく密着度が高いというか……。
「えへへへ……」
エリスが少しはにかむように笑みをこぼす。
なんか、エリスに釣られてオレの顔も赤くなったような気がする。今のオレも、熱が上がったのかもしれない……?
そう思いながら、少しだけ力を入れて、オレもエリスの手を握り返した。
右手はエリスの左手を握り、そして左手でゆっくりとエリスのふわっふわな髪を撫でる。それで安心したのか、エリスの呼吸がなんとなくゆっくりとしたものへと変わってきたような気がする。
エリスは目を閉じながら静かに口を開いた。
「さっき、夢を見たんだ」
「夢?」
「そう。奈落の底でイフリートと戦う夢」
「それは……」
もしかして、悪夢を見たということか? オレがケルベロスにいたぶられて、しばらく悪夢にうなされてしまった時のように? まさか、今度はエリスが? もしかして、手を握ったのも、その不安からか?
内心、ひどく焦ってしまう。だが、どうやらそれは違ったようだ。
「でね。私の圧勝だったよ! イフリートなんてローソクの火と同じ。私のブレス一発で吹き飛んだんだ!」
「………………はい?」
一瞬理解が追いつかなかった。あれだけこっぴどくやられていたのに、オレのような心的外傷にはならず、むしろ夢の中でリベンジを果たしていたとは。
……さすが、エリスだな。うん。
「……だから、さ。タクマ」
「うん?」
「……私、もっと強くなるから。だから……」
オレの右手を掴むエリスの左手に力がこもる。
「だから、これからもずっと、タクマの傍にいさせてね?」
紅く染まった頬と潤んだ瞳で見上げられながらのそのセリフには、一瞬理性が飛びそうになる。
今エリスは風邪なのだと、熱があるのだと、だからだと、自分で自分に何度も何度も必死に言い聞かせる。
「……当たり前だろう。強さとか関係なく、オレはいつでもお前の傍にいたいし、いつまでもお前には傍にいて欲しいと思ってる」
「……ほんと?」
「ああ」
「ほんとに、ほんと?」
「ああ!」
「ほんとにほんとにほんと?」
「……エリス?」
「だって……」
エリスが再び口元を毛布で隠しながらじぃっと見上げてくる。オレたちの視線が絡み合う。
その時――。
何かが、そっとオレの耳にささやいた気がした。
何かが、そっとオレの背中を押したような気がした。
それが何なのか、オレにもよく分からない。
だけど、オレの体は自然に動いていた。
髪を撫でていた左手を、優しくエリスの頬に添える。熱を帯びた頬。だが、それは風邪だけが理由だろうか? エリスの頬が、さらに朱色に染まったように見えたのは、気の所為か?
ゆっくりとエリスに体ごと寄せ、顔を近付ける。頬に触れていた左手で、エリスの口元を隠していた毛布をそっと引き下げる。
「あっ……」
一瞬だけエリスの目が大きく開かれ、声が小さく漏れる。だが、エリスはオレから視線を逸らすことはしなかった。
お互いの息が感じられるほどに近付いた時、エリスはそっと瞳を閉じた。オレも、さらに近付きながらゆっくりと瞳を閉じた。
オレの唇が、柔らかなエリスの唇にそっと触れる。
初めてのキスは、微かにストロベリーの香りがした。
唇を少しだけ離し、ゆっくりと目を開けると、エリスもまた目を開けて、真っ赤に染め上がった顔でオレを見上げてくる。
「……信じるか?」
「……もう一度してくれたら、信じる」
しっかりとつながれた互いの手に、更に少しだけ力がこもる。
オレは再びエリスに顔を寄せ、そっと唇を重ねた。
窓から柔らかい日差しと、微かな小鳥のさえずり、そしてどこか甘い花の香りを纏った爽やかな風が入り込む。
季節が変わる。
ようやく、アスターナにも春が来た。




