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第25話 奈落の底、神水の守護者

 ケルベロスとの死闘を終え、オレたちは第四層のさらに奥深くへと足を踏み入れていた。因縁の敵を打ち破り、四年間オレをさいなんできたトラウマは、確かに過去のものとなった。だが、感傷に浸っている暇はない。オレたちのもう一つの目的は、まだ果たされていないのだから。


 ポーションで体力を回復させたオレたちは、やがて四年前の記憶にある場所――奈落の底へと続く、巨大な崖のふちにたどり着いた。


 眼下に広がるのは、底の見えない深淵しんえん蒼光石そうこうせきの光も届かない完全な闇が、まるで全てを飲み込むかのように口を開けている。


 四年前のあの日、オレはここから落ちた。こんなところから落ちて、よく無事だったものだと今更ながら思う。エリスが来てくれて、間に合ってくれて、助けてくれたおかげだ。オレ一人だったら、絶対に間違いなく死んでいただろう。


 周囲は不気味なほどの静寂。だが、その静寂の奥底から、微かに、しかし確実に、熱気が立ち上ってくるのを感じる。そして、硫黄いおうのような、独特の匂いも。


 ケルベロスを倒した達成感と高揚感は、この圧倒的な奈落を前にして、再び緊張感へと変わっていく。これから対峙するであろう、S級モンスター。その存在感が、この熱気と匂いを通して伝わってくるようだった。


「……ここが、奈落の底への入口か」


 オレはゴクリと生唾を飲み込み、崖下を覗き込む。


 隣では、エリスが既に本来の獣形態(大型犬サイズ)に戻り、鋭い感覚で周囲を探っていた。その白銀の毛並みが、微かな風に揺れている。


 ちなみに『奈落の底』というのは正式名称じゃない。オレとエリスが勝手にそう呼んでいるだけだ。だが、まあ、オレたちの間では通じているんだから問題ないだろう。実際、正式名称なんてあるはずもない。レギーナムトの迷宮第四層のマップは出回っているが、この辺りは空白地帯だ。


 オレだって、ケルベロスに追っかけまわされて、たまたまここへ逃げてきてしまっただけだ。あれが無ければ、きっと一生知らずにいただろう。この下に《神水》があるだなんて。運がいいのか悪いのか。さて、どっちだろうな?


 それはともかく、この先は今まで以上の困難が待ち受けているのは確かだ。だから、事前にエリスと少し打ち合わせておく必要がある。そう思いながらオレはエリスに向かって口を開いた。


「エリス、下に降りる前に確認しておきたい」


『……確認って?』


 エリスが念話で答える。


「オレたちの、奈落の底での目的は《神水》の確保だ」


 一旦言葉を区切り、エリスが頷くのを見てから言葉を続ける。


「だから、もし……万が一、守護者がいないなら、すぐに《神水》を回収して撤退する」


『うん。でも、きっといるよね……四年前と同じなら』


 その声には、緊張の色が滲んでいた。


 オレは崖の方に視線を向けながら口を開いた。


「……この下にいる奴のこと、エリスも覚えているよな?」


 四年前のあの日、ケルベロスに追いかけられたオレはこの奈落の底に落ちた。死も覚悟したあの時、後を追って飛び込んでくれたエリスのおかげで、オレはどうにか助かることができた。そして、ケルベロスを回避できる別の脱出経路ルートが無いかと奈落の底を模索していたとき、オレたちは見たんだ。


 迷宮の中とは思えない程広く開けた場所のど真ん中で、柔らかい光を放ちながら宙に浮いてゆっくりと回転している巨大な紫水晶アメジスト。そこから金色に輝きながら垂れ落ちている雫。そして、その傍にいた炎を纏いし巨人。


 エリスがオレを見上げながらゆっくりと頷く。


『……うん。覚えてる。あそこにいたのは、間違いなくイフリートだった』


 イフリート。それは、神話の中にも出て来るような存在。おとぎ話の中では炎の魔神とまで呼ばれるような存在だ。


 そのイフリートに比べれば、オレたちが倒したケルベロスなんか、そこらの野良犬のようなものなのかもしれない。


 それ程の、相手。


 オレたちにとって、間違いなく今までで最強の、S級のモンスターだ。


「イフリートを相手に戦って、勝てる保証なんてどこにも無い。だから、もし戦わないで済むなら……。戦わずに《神水》を手に入れられるなら、それに越したことはない。なんなら、まず《神水》を譲ってもらえないか、ダメ元で聞いてみるか? いや、無駄だろうな。戦闘は避けられないと覚悟を決めるべきだ」


『うん。ケルベロスよりずっと強い相手。全力で行かないと』


「基本的な戦術としてはケルベロス戦と同じになる。奴の魔法に対する防御はオレがするつもりだ。オレが奴の魔法をできるだけ収納庫ストレージに収納し、状況に応じて奴に返す。エリスはできるだけ攻撃に集中してくれ」


 エリスが神妙な面持ちで頷く。それを見ながらオレは言葉を続けた。


「もし……。もし今のオレたちではまだ敵わないと判断したら、そのときはイフリートの収納……収納庫ストレージへの封印を試そうとは思う。だが……」


『……うん。スライムでもあれだけの抵抗があったもんね。S級のイフリート相手じゃ、期待しない方がいいかもね』


 エリスの冷静な指摘に、オレは頷く。スライム五匹の収納ですら、あれほどの精神負荷があったんだ。S級モンスターの強大な自我と魔力を持つイフリートを収納するなど、現実的ではないだろう。


「ああ。最後の手段として試すかもしれないが、過信はしない。もし、本当に敵わないと判断したら……そのときは……」


(そのときオレたちは……いや、今それを考えるのはよそう)


『……分かってる。でも、諦めないよ、最後まで』


「ああ。もちろんだ」


 オレたちは互いの覚悟を確認し、頷き合った。


 準備はできた。オレはエリスの背中にまたがり、その毛並みをしっかりと掴む。


「頼む、エリス」


『うん! しっかり掴まってて!』


 エリスは短く応えると、崖の縁を蹴り、垂直な壁を慎重に下り始めた。鋭い爪を岩肌に食い込ませ、足場を確かめながら、ゆっくりと、しかし確実に降下していく。時折、小さな石がパラパラと音を立てて崖下へと落ちていく。


 降下する途中、四年前、この崖から落ちた瞬間の、あの絶望的な浮遊感が脳裏をよぎった。だが、今は違う。この手に感じるエリスの確かな体温と、自らの成長への実感が、過去の幻影を打ち消していく。


 どれくらいの時間をかけて下りただろうか。ようやく、オレたちは崖の底――奈落の底へと降り立った。じめじめとした空気がまとわりつき、第四層よりもさらに濃密な硫黄の匂いと、明らかな熱気が漂っている。周囲はほとんど光がなく、目が慣れるまでしばらく時間がかかった。奥の方から、微かに紫色の光が漏れているのが見える。あれが、巨大な紫水晶アメジストの光だろう。


 オレはエリスの背中から降り、一歩踏み出した。その時、足元でカツン、と何か硬いものを踏みつけた感触があった。


「ん……?」


 拾い上げてみると、それは泥とほこりにまみれた、見覚えのある物体だった。


「これは……オレのスリングショット……?」


 四年前、この崖から落ちた時に失くした、愛用のスリングショット。リオネルの爺さんに何度も調整してもらった、オレだけの特別な武器。こんなところに、ずっと眠っていたのか……。


 懐かしさと、少しの感傷が胸に込み上げてくる。だが、今はそれに浸っている場合じゃない。オレはスリングショットの泥を軽く払い、それを収納庫ストレージにしまった。いつか、また手入れをして使ってやろう。


 オレたちは、四年前のおぼろげな記憶と、奥から漏れる紫色の光を頼りに、奈落の底を進み始めた。道は一本道のようだが、足元はゴツゴツとした岩場で歩きにくく、時折、熱気を帯びた水たまりが行く手を阻む。エリスは獣形態のまま、低い姿勢で周囲を警戒し、オレはその少し後ろを注意深くついていく。


 しばらく歩くと、ふいに僅かな空気の流れを感じた。微かではあるが、正面から風が吹いているようだ。


「……近い……な」


『……うん』


 さらにゆっくりと、そして慎重にオレたちは歩みを進める。一本道の先に、明るい光が見えてきた。


『タクマ、止まって』


 エリスの足が止まる。同時に、オレも歩みを止めた。


 オレとエリスの視線が交差する。一度頷き、オレは壁を背にしながら、漏れて来る光の先に視線を向けた。


 ――あった!


 その光景は、四年前と何も変わっていなかった。


 ここが迷宮の中だというのを忘れてしまいそうなくらい広く開かれた地下空洞。その中央には、神々しいまでの紫色の光を放ちながら、巨大な紫水晶アメジストが宙に浮かんでいる。その大きさは、家一軒分ほどもあるだろうか。水晶の下には、透き通った水をたたえる小さな泉があり、水晶の先端から、黄金色に輝く雫が、ポチャン、ポチャンと静かな音を立てて滴り落ち、水面に美しい波紋を描いていた。


 あれが、《神水》。全ての病、怪我、呪いさえも癒すという、幻の秘薬。


 ついに目的地にたどり着いた。だが――。


「……アイツは、どこだ?」


 傍にいるエリスにだけ聞こえるくらいの小さな声で呟く。


 そう。イフリートがいない。四年前に見た時は紫水晶アメジストの近くにいた。腕を組み、目を閉じ、まるで眠っているかのように微動だにせず、紫水晶アメジストの近くにいた炎を纏いし巨人。


 だが、今はその姿がどこにも見えない。


「……もしかして、いない、のか?」


『分からない。気配がうまく掴めない。どうする、タクマ?』


「……このままここにいても始まらない。周囲を警戒しつつ《神水》の場所に向かう。イフリートが手を出してこなければ、《神水》を確保して撤退。出して来れば、そのときは……」


 オレは収納庫ストレージから水筒を取り出し、周囲を警戒しながら、ゆっくりと泉へと近付いた。


 エリスは獣形態のまま、泉の手前で立ち止まり、鋭い嗅覚と聴覚で周囲の警戒を続けている。


(どこにいる……? それとも、まさか……)


 淡い期待を抱きながら、オレが水筒を泉の水面に浸し、《神水》を汲もうとした、まさにその瞬間――。


 ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!


 突如、空洞全体の空気が激しく震え、地響きと共に凄まじい熱波がオレたちを襲った。紫水晶アメジストの輝きが一瞬、陽炎かげろうのように揺らめく。


 そして、オレたちの目の前の空間が、まるで裂けるかのように歪み、その裂け目から、灼熱の存在が姿を現した。


 思わず息を呑む。


 それは、巨大な人型の炎の塊だった。体長は七、八メートルはあろうか。全身が、燃え盛る炎と、どろりとした溶岩のようなもので構成されている。顔は猛々(たけだけ)しい獅子ししのようで、たてがみのように揺らめく炎が、周囲に火の粉を撒き散らしている。その巨体は地面に足をつけず、常に宙に浮いた状態だ。二つの紅蓮ぐれんの瞳が、冷たく、そしてどこか侮蔑ぶべつするように、侵入者であるオレたちを見下ろしていた。


 間違いない。四年前、オレたちが見た、《神水》の守護者。


 炎の巨人――イフリート。


 イフリートは、オレたち二人を一瞥いちべつすると、まるで取るに足らないものを見るかのように、つまらなそうに呟いた。


「……ふん。強い気配を感じて身を潜めてみれば、現れたのはただの人間と獣か。気の所為だったか? 羽虫が迷い込んだだけか」


 その声は、地鳴りのように低く、空洞全体に響き渡る。S級モンスター。ケルベロスをも遥かに凌駕りょうがするであろう、絶望的なまでのプレッシャーが、オレたちを押し潰そうとしていた。


 イフリートは、それ以上言葉を発することなく、ただ無造作に腕を振るった。


 それだけで、凄まじい熱量を伴った巨大な火球が生まれ、オレたちに向かって放たれた。人の魔法では到底ありえないほどの大きさ、そして超高温。まるで、太陽の一部が千切ちぎれて飛んできたかのようだ。イフリートにとっては、羽虫を払う程度の、軽いものなのかもしれない。だが、その一撃は、オレたちにとっては間違いなく致命的なものだった。


(来る!)


 崖の上でのブリーフィング通り、オレは即座に反応する。


(収納!)


 迫りくる巨大な火球を、視認し、収納庫ストレージに収納する。ケルベロスの《ファイアブレス》を収納した時と同じ、ビリッとした軽い静電気のような感覚。問題なく収納できた。


 イフリートは、自身の放った攻撃が目の前で忽然こつぜんと消え去ったことに、わずかに驚いたような表情を見せた。紅蓮の瞳が、初めて興味の色を帯びてオレたちを見つめる。


 その一瞬の隙を、エリスは見逃さない。


 彼女の周囲の空気が急速に冷却され、美しい氷の矢が12本、音もなく、しかし恐ろしいほどの速度で実体化し、円環を描くように整然と並んだ。


 迷宮の入口でオレに見せたのと同じ、超高速氷矢ハイ・アイスアローだ。


『はあっ!』


 気合一閃! 円環を成していた12本の氷矢が、周囲を凍てつかせるかのように冷気を撒き散らしながら、イフリートに向けて一斉に放たれる。生成から発射まで、まさに瞬きする間もない。


 シュゴォォォッ! 空気を引き裂き、白い残像を幾重にも重ねながら、12条の白き閃光がイフリートへと殺到する。


 だが――。


 ジュワッ……。


 エリスの放った氷矢は、イフリートに到達するよりも前に、その体から発せられる凄まじい熱波によって、全て蒸発してしまった。まるで、灼熱の太陽に雪玉を投げつけるかのように、あまりにも呆気あっけなく。


『そんな……!?』


 エリスが愕然がくぜんとする。


 ならば、とエリスはさらに強力な魔法を放つ。氷結槍フリージングジャベリン! 鋭利な氷の槍が瞬時に四本生成され、高速でイフリートに突き刺さる!


 ガキンッ! という硬質な音が響く。槍は確かにイフリートの炎の体に突き刺さった。だが、それだけだった。イフリートは意にも介さず、突き刺さった氷の槍は、みるみるうちに溶けて蒸発していく。


(うそ……だろう……)


 もちろん一撃で倒せるとまで楽観をしていたつもりはない。だがそれでも、エリスの氷系魔法が、ここまであっさり消されてしまうとは夢にも思わなかった。


 だがエリスはまだ諦めない。ケルベロスに決定打を与えた、あの超高速氷結槍ハイ・フリージングジャベリンを一本生成し、渾身こんしんの力を込めて放つ。


 凄まじい回転と速度で放たれた氷結槍は、イフリートの胸部に深々と突き刺さった。


 だが――。


 それでもやはり、効果はない。超高速氷結槍ハイ・フリージングジャベリンですら、イフリートの体表で急速に溶かされ、数秒後には完全に消滅してしまった。


(攻撃力不足……なのか? 今のエリスと、このイフリートとの間には、それほどの魔力差があるというのか? いや、弱気になるな! まだ手はあるはず。まだ……!)


 オレも、第三層で収納した岩柱や、道中で拾った岩などをイフリートの頭上に出現させて落下させるが、それらもイフリートの体に触れた瞬間に溶け、蒸発してしまう。物理的な質量攻撃すら、この圧倒的な熱量と魔力の前には無意味だった。


「煩い羽虫どもが……」


 イフリートが、初めて不機嫌そうな声を上げた。どうやら、オレたちの必死の抵抗が、少しはかんさわったらしい。


 イフリートが再び腕を振るい、巨大な火球を放つ。


(収納!)


 オレたちに向かって放たれたそれを、オレは即座に視認して収納。お返しとばかりにベクトルを調整し、イフリートに向けて取り出す。指差す先はイフリートの顔面だ。


「これは、我の魔法……? どういうことだ?」


 イフリートは、自分自身の魔法が返ってきたことに、再び驚きと戸惑いを見せる。だが、その火球が顔面に直撃しても、全く意に介した様子はない。炎の体を持つイフリートにとって、自身の炎など、そよ風にも等しいのだろう。


 オレとエリスは顔を見合わせる。攻撃が、全く効かない。この事実に、じわじわと絶望感が心をむしばみ始めていた。


「なんだこれは? どういうことだ? この人間の仕業か?」


 イフリートは、オレの魔法に強い興味を示したようだった。その紅蓮の瞳が、初めて捉えた面白い玩具を見つけたかのように、わずかに細められた。その巨躯きょくから放たれる圧倒的な熱波が、嘲笑うかのように揺らめく。


「なるほど、面白い小技を使う。どれ、もう少し見せてもらおうか」


 まるで退屈しのぎの余興でも始めるかのように、イフリートが無造作に腕を振るう。次の瞬間、先ほどとは比較にならない数の、そして多様な形態を持つ炎の魔法が、空中に次々と生み出されていく。


 ゴウッ、と唸りを上げて飛来する巨大な火球。


 シュンッ、シュンッ、と空気を切り裂き、雨のように降り注ぐ鋭利な炎の矢。


 ドッ、ドッ、ドッ、と重い音を響かせながら迫る、溶岩のように赤黒く燃える弾丸。


 そして、穂先が空間を歪ませるほどの熱量を放ち、全てを貫かんとする巨大な炎の槍。


 それらが、時間差で、あるいは同時に、オレとエリス目掛けて殺到する。


「くっ、次から次へと……!」


 オレは歯を食いしばり、神経を極限まで集中させる。飛来する魔法の一つ一つを瞬時に視認し、脳内で収納の命令を叫ぶ。


(収納! 収納! 収納!)


 右から来る槍を、左から迫る矢を、頭上から降り注ぐ弾丸を――視界に入る脅威を片っ端から収納庫ストレージへと送り込む。ピリッ、ピリッ、と連続する静電気のような感覚が、徐々に神経をすり減らしていく。


「返し……てやるっ!」


 収納したばかりの炎の槍を、イフリートの顔面めがけて取り出す! だが、巨人は意にも介さず、槍はまるで霧を払うかのように、その炎の体に吸収され、掻き消えた。


『タクマ!』


 エリスが叫ぶ! 彼女の周囲に渦巻く冷気が凝縮され、鋭い氷の刃を伴った吹雪がイフリートを襲う。さらに、地面から湧き上がらせた水の槍が、氷の吹雪と連携するように突き上げられる。


 しかし――ジュオオオォォッ!


 イフリートの纏う熱波は、それら全てを嘲笑うかのように、接触する間もなく蒸発させてしまう。氷は瞬時に水となり、水は一瞬で気体へと変わり、虚しく霧散していく。エリスの白い毛並みが、悔しげに逆立つのが見えた。


「無駄だとまだ理解できぬか」


 エリスに向けるイフリートの声には、もはや何の感情も籠っていない。ただ淡々と、邪魔な虫を排除する作業のように、彼女に向けて炎の魔法を放つ。


 空洞内の気温は異常なほど上昇し、呼吸をするたびに喉が焼けるようだ。足元の岩肌ですら、熱気を帯び始めている。


 防いで、防いで、防いで……時折、反撃を試みるも、全く通用しない。エリスの魔法も、決定打を与えるには程遠い。


 絶望的な攻防が続く中、イフリートがふと攻撃の手を緩めた。紅蓮の瞳が、再びオレを見下ろす。何かを理解したような、そして、それ故につまらなそうな、冷え切った光が宿っていた。


「なるほど。そういうことか。空間系の希少魔法……収納魔法、か。我が魔法を収納し、そのまま返していたというわけか。面白い。だが、タネがわかれば、興味も失せる」


 イフリートは、つまらなそうにそう呟くと、オレの弱点を見抜いたかのように、新たな攻撃を仕掛けてきた。


 ――飽和攻撃。


 イフリートが両腕を広げると、その背後、そして頭上の空間に、無数の炎の弾丸が出現した。その数は、100や200ではきかないだろう。空洞の天井を埋め尽くさんばかりの、おびただしい数の炎弾。


(まずい……! これだけの数を全て視認して収納するのは、不可能だ……)


 オレの非接触収納は、対象を一つ一つ視認、あるいは明確に意識する必要がある。これだけの数の魔法を、攻撃を受ける前に、正確に認識し、全て収納しきることはできない。


 エリスもまた、その絶望的な光景を目の当たりにし、オレの限界を悟ったようだった。


「うぅ……うぉおおおおおおお!」


 その叫びは恐怖からだったのか、それとも気合を入れるためだったのか、自分でもよく分からない。


 オレは叫びながら全力で収納を繰り返した。視界にある炎の弾丸を次々と収納庫ストレージに放り込む。


「無駄なことを」


 イフリートの嘲笑を含んだ声が耳に届くが、構っていられない。顔を上に向け、視線を右から左へ、左から右へと動かしながら目に映る全ての炎の弾丸を収納しまくる。


(……もう、いくつ収納した?)


 だが、一向に減らない。消えるたびに新たに現れる。どれだけ収納しても、次々現れる。


「……消えるがいい」


 イフリートの冷たい宣告と共に、天井を埋め尽くした炎弾が、一斉に動き出す。数多あまたの炎弾が降り注ぐ。それはまるで灼熱の豪雨だ。


(――くっ! 間に……合わない!)


 それでもオレは収納する。飛来する炎の弾丸を次々と収納していく。


 だがオレの目がどれだけの動きをしたとしても限度がある。


 その数は、その限度を軽く凌駕していた。


 収納しきれなかった炎弾がオレ達に迫りくる。


(――避けられない)


『タクマ!』


 エリスが叫び、咄嗟とっさに《アイスウォール》を複数重ねがけして、オレたちの頭上を覆う。だが、降り注ぐ炎弾の威力と数は、ケルベロスのブレスとは比較にならない。氷の壁は、着弾する炎弾によって次々と砕かれ、蒸発していく。


 エリスは獣形態のまま、オレを押し倒し、オレに覆いかぶさる。


「エリス! ダメだ。ヤメッ――」


 だがオレの声は轟音にかき消されていく。数多の炎弾が次々に《アイスウォール》に撃ち当たり、大きな音とともにはじけて飛び散っていく。


 視界全てが猛火の色で塗りつぶされていく。鼓膜をぶち破るような轟音がオレ達のすぐ傍で鳴り響き、その激しい衝撃が振動となって伝わってくる。


 オレはエリスの下でもがいた。


 エリスがオレをかばっている。そんなことダメだ。オレがエリスを守らなくちゃいけないのに。


 だがエリスは動かない。その四肢と体躯でオレをがっしりと抑え込み、オレの力ではビクともしない。


 やがて視界を覆いつくしていた眩しい程の赤い光が収まっていく。


 いつしか爆音も聞こえなくなっていた。


「ふむ。意外としぶといものだな。むしろそちらのほうが興味深くもある。さて、では次の趣向はどうするか……」


 イフリートが何か呟いているが、今はそれよりもエリスだ。


「エリス! エリス! 大丈夫か? エリス!」


 エリスの下で、もがきながら叫ぶ。


『……タクマこそ、大丈夫?』


 頭にエリスの声が響く。そしてエリスはゆっくりとオレから離れた。


「このバカ! オレの心配なんかより自分の……」


『私よりタクマだよ。私は結構頑丈なんだよ。知ってるでしょ?』


(――そういう問題じゃない!)


 怒鳴りたい衝動を懸命に呑み込んだ。助けて貰っておいて怒鳴るなんてできっこない。


 エリスの背中に、数発の炎弾が直撃している。白銀の毛皮が焼け焦げ、肉の焼ける嫌な臭いが鼻をつく。エリスが苦痛にうめき、その体が小刻みに震える。


(くそっ! どうすれば……!)


 焦りと怒りで頭が真っ白になりかける。その時、ふと、ふところに入れている水筒の存在を思い出した。中には、先ほど汲んだばかりの《神水》が、少量だが入っているはず……。


「エリス! これを!」


 オレは水筒を取り出し、エリスの口元に無理やり押し当てる。エリスは苦痛に顔を歪めながらも、こくこくと《神水》を飲み込んだ。


 そして――。


 エリスの背中の焼け焦げた傷が、まるで傷そのものが意思を持ったかのように、淡い黄金色の光を発し始めた。


 ジュッ、という微かな音と共に、黒く炭化していた皮膚が剥がれ落ち、その下から真新しい肉がみるみる盛り上がってくる。まるで早送りの映像を見ているようだ。傷口は瞬く間に塞がり、痛々しい赤みも消え、健康的な肌の色へと変わっていく。さらに、焼け落ちて無残な姿を晒していた箇所から、眩いばかりの白銀の毛が、陽光の下で伸びる若草のように勢いよく生え揃い、あっという間に元の美しい毛並みに戻った。


 それだけではない。苦痛に細められていたエリスの瞳が驚きに見開かれ、弱々しく上下していた胸の動きが、深く力強いものへと変わる。消耗しきっていたはずの魔力が、体の奥底から泉のように湧き上がり、全身に満ちていく感覚があるのだろう。その瞳には、先ほどまでの絶望の色ではなく、生命力そのものの輝きが力強く宿っていた。


『すごい……これが、《神水》……』


 エリスは驚きながらも、力を取り戻したことに安堵あんどの表情を浮かべる。だが、状況は依然として絶望的だ。いつまた炎弾の雨が降り出すかわからない。


 回復したエリスは、最後の賭けに出る決意をしたようだった。


『タクマ、援護して!』


 エリスの叫びが念話で響くと同時に、彼女の全身から、抑えきれないほどの膨大な魔力が解放される。白銀の毛並みがゆらりと逆立ち、その下から眩いばかりの青白い光の粒子が溢れ出し、周囲の空間を満たしていく。ゴオォォ……と地鳴りのような低い唸り声と共に、エリスの足元で魔力が冷気とともに渦を巻いた。


 次の瞬間、光が爆ぜた!


 ブースト。一時的に、バハムートとしての成体に近い、より巨大で荘厳そうごんな姿へと変貌へんぼうさせる技。


 オレは思わず腕で目を庇う。光が収まった時、そこにいたのは、もはやオレの知るエリス(大型犬サイズ)ではなかった。天を衝くかのように巨大な体躯、気高く、そして猛々しい神獣――神話の絵にあるバハムートそのものだった。


「……その姿、バハムートか。きさま、転生していたのか」


 イフリートが、僅かに目を見開いて呟く。だが、エリスにそれに構う余裕はない。


『グオオオオオオオオオッ!!!』


 エリス――いや、神話の獣へと変貌したバハムートが、天を衝くほどの巨体を震わせ、奈落の底全体を揺るがす咆哮を放つ。それは、もはや単なる冷気ではなかった。空間そのものを凍てつかせ、存在を根源から停止させるかのような、絶対零度の破壊奔流――冷気の咆哮フロストブレス


 青白い光を放つ極低温の奔流が、イフリートに向かって殺到する。先に放たれていた無数の炎弾など、接触する前にその勢いを失い、カチン、と軽い音を立てて凍結し、砕け散った。そして、絶対零度の奔流は、炎の巨人イフリートの本体へと直撃した。


 ジュウウウウウッ! と激しい水蒸気が上がる。だがそれも束の間、バキッ! バキバキッ! ミシミシッ! と凄まじい音を立てながら、イフリートの燃え盛る体が、急速に厚い氷の層に覆われていく。紅蓮の炎が、見る見るうちに青白い氷の下へと封じ込められていく様は、圧巻の一言だ。


 やがて、咆哮が止む頃には、イフリートは完全に巨大な氷のオブジェと化していた。腕を振り上げた、まさにその瞬間の体勢のまま、微動だにしない。周囲を支配していた灼熱の空気は完全に消え去り、吐く息が真っ白になるほどの極寒と、耳が痛くなるほどの静寂が、奈落の底を支配していた。


(やった……のか!? これが、バハムートの……エリスの全力……)


 オレは息を呑み、目の前の光景を信じられない思いで見つめる。隣では、ブレスを放った反動か、バハムートの巨体がわずかに揺れ、荒い息をついているのが分かった。その黒い瞳もまた、凍りついたイフリートをじっと見据えている。


(勝った……? あのS級モンスターを、打ち破った……?)


 そんな淡い期待が胸をよぎり、張り詰めていた全身の力が抜けかけた、まさにその時だった。


 ピシッ……。


 静寂の中、ごく微かな音が響いた。まるで、硬いガラスに小石が当たったような音。


 見ると、巨大な氷像と化したイフリートの胸の中心あたりに、髪の毛ほどの細い亀裂が入っていた。


 ピシッ、ピシッ、パキィィッ!


 次の瞬間、その亀裂は蜘蛛の巣のように瞬く間に氷像全体へと広がり、その隙間から、抑えきれない地獄の業火のような紅蓮の光が漏れ出した。氷が内側から急速に熱せられ、再び周囲の温度が急上昇していく。


「まずいっ……!」


 オレが叫ぶのと、イフリートを覆っていた氷塊が限界を迎えるのは、ほぼ同時だった。


 ドゴォォォォォォン!!!


 空気を震わす轟音と共に、巨大な氷塊が内側から木っ端微塵に爆散。鋭利な氷片が嵐のように吹き荒れ、周囲の壁に突き刺さり、砕ける。


 そして、爆散した氷の中心には――何事もなかったかのように、いや、むしろ先ほどよりも勢いを増して燃え盛っているかのようなイフリートが、悠然と浮いていた。体表でパチパチと火の粉が不気味に弾けている。


 イフリートは、鬱陶しそうに肩のあたりについていた氷のかけらを指で弾き飛ばすと、まるで子供の遊びに付き合わされた後のような、心底呆れたような溜息をついた。


「……これでしまいか? 児戯じぎにも等しいわ。その程度の付け焼刃の力では、この我を凍てつかせることなどできん。どうやら貴様、まだ転生前の力は全く取り戻せていないとみえるな」


 その声には、嘲りよりも深い、絶対的な強者ゆえの失望の色が滲んでいた。


 エリスの起死回生の一撃は、S級モンスターであるイフリートには、全く通用しなかった。


 ブーストの反動で消耗したエリスの体は、再び元の獣形態(大型犬サイズ)へと戻っていく。だが、エリスは諦めなかった。ブーストが完全に解ける直前、最後の抵抗として、超高速氷結槍ハイ・フリージングジャベリンを12本同時に生成し、イフリートに向けて放った。


 しかし、それすらも、イフリートの体表で虚しく溶けて消えるだけだった。


(エリスのブーストも……なら残るは……)


 オレは、最後の手段に賭けるしかなかった。


(生物収納……)


 イフリートの収納を試みるしかない。全神経を集中させ、イフリートの存在そのものを、収納庫ストレージじ込もうとする。


 ――ガンッ!


「ぐっ、あああああっ!」


 頭が割れるかのような、凄まじい衝撃と抵抗感。スライムの比ではない。S級モンスターの強大すぎる自我と魔力が、オレの精神を内側から破壊しようとしてくるようだ。


 さらに、感覚で分かった。抵抗レジストされたことに。イフリートは明確に抵抗手段を使ったんだ。生物の自我としての抵抗とは違う。収納魔法に対し、魔力を使った明確な抵抗手段の行使。


(そんなことができるのか……)


 イフリートがオレを見下ろす。まるで、道端の石ころでも眺めるかのように。全ての興味を失ったかのように。何の感慨も感情の揺らぎもない、ただ無機質な視線だけがあった。


(ダメ……だ。収納できない……)


 オレは膝から崩れ落ち、激しい頭痛と吐き気に襲われる。収納魔法の限界を、これ以上ない形で思い知らされた。


(無理だ。こいつには、今のオレたちでは、勝てない……)


 そう悟ったとき、オレの視線は、自然とエリスに向いた。


 ……いつか、こんな日が来るかもしれないと思っていた。それがまさか、今日だとは思わなかったが。


 四年前のあの日、エリスがいなければオレは間違いなく奈落の底に落ちて死んでいた。エリスがいたから助かった命なんだ。


 だから……だから!


 今度は、オレのすべてを掛けて、エリスを助けたい!


 オレは、覚悟を決めた。


「エリス……」


 オレは、傍らで荒い息をついているエリスに、震える声で呼びかけた。


「オレが引き付ける。全力で防ぐ。お前への攻撃は必ず防いでみせる。だから、なんとか逃げてくれ」


『――ぜぇっっっっったい、イヤッ!』


 エリスの完全拒否の言葉が、かたくなな拒絶が、頭の中いっぱいに響く。


(――くっ!)


 そう言うかもしれないと予感はしていた。


 でも……それでも! 頼む! 頼むから! 言う事を聞いてくれ!


「エリス!」


『――イヤッ!』


(分かってくれ! 言い争ってるような余裕なんて、もう無いんだ!)


「最後ぐらい素直に言うことを聞けぇ! このわからずやっ!」


 オレは、涙声で叫んだ。


『最後なんて言うなっ! このバカァ!』


 エリスも、涙を流しながら叫び返す。


(――くっ!)


 オレだって言いたくはない。諦めたくはない。だけど、ブーストも、生物収納も通じなかった。オレの見通しが甘すぎたんだ。もうホントに手が無いんだ。このままじゃ、二人ともやられるだけだ。だからせめて……。


「……お願いだエリス。お願いだから、言う事を、聞いてくれ……」


 オレは、懇願こんがんするように言葉を絞り出す。


 それでもエリスは頑なに首を横に振る。


 どうすれば分かってくれる? どうすれば……。


『ダメだよタクマ。幼馴染なんだもの。私のことよく知ってるでしょ?』


 エリスは、がんとして首を横に振る。その瞳には、絶対にオレを置いていかないという、強い意志が宿っていた。


 ……ああ、そうさ。知ってる。よく知ってるさ。オレは誰よりもお前の事をよく知ってる。頑固なところがあることも知ってる。こんなときに一人で逃げるなんてできないことも知ってる。でも……それでも!


 お前には……お前だけは、無事でいて欲しいんだ! だから……。


 そんなオレたちのやり取りを、イフリートは冷ややかに見下ろしていた。


「最期の痴話喧嘩ちわげんかは終わったか? ならば、消えるがいい」


 イフリートが、再び両腕を掲げる。


 今度は、先ほどの炎弾の雨よりもさらに強力な、この地下空洞全体を焼き尽くさんばかりの、最大級の炎熱飽和攻撃を放つつもりらしい。


 天井全体に、無数の巨大な炎の槍が出現し、その切っ先をオレたちに向けている。


 もう、避けられない。防げない。


 守り、きれない……ゴメン、エリス……。


 オレは、エリスを強く抱きしめた。


『タクマ……』


 エリスも、オレの名を呼び、その体に顔をうずめる。


 そして、イフリートが腕を振り下ろす。無数の炎の槍が、オレたちに向かって降り注ぐ。視界を埋め尽くし、灼熱の雨となって降り注ぐ。


 その瞬間――。


 ピキッ……。


 空気が、ガラスのようにひび割れるような感覚。


「……やれやれ。これ以上は見てられんな」


 何処からともなく声が聞こえ、そして次の瞬間、オレたちの目の前に、まばゆいばかりの白銀の光がほとばしった。





生成AI (Google Gemini 2.5 Pro) さんにイラスト描いてもらいました。

挿絵(By みてみん)

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